6話:分岐点
夜は僕だけのものだ。
妙子が眠りに落ちると、世界は途端に静かになる。
彼女の意識が沈んでいくのは、水面に石が吸い込まれるのに似ている。
波紋がゆっくりと広がり、やがて消え、あとには凪いだ暗がりだけが残る。
その暗がりの中で、僕は目を開ける。
天井の染みを数えるのが、夜の日課だった。
エアコンの水漏れが残した輪郭のない茶色い痕。
右端に三つ、左端にひとつ。
どうでもいいことを数えている。
どうでもいいことしか、考えたくない夜がある。
妙子の呼吸が規則正しく繰り返される。
吸って、止まって、吐いて。
その間隔の中に、彼女の一日の疲労が溶けている。
僕にはわかる。
彼女がどれだけ消耗したか、どれだけ傷ついたか。
彼女の身体は僕の身体でもあるから、筋肉の強張りも、胃の重さも、喉の奥に残った泣きそうな圧迫感も、すべて伝わってくる。
今日も征人と一緒に帰った。
帰り道、征人は妙子の肩に腕を回した。
妙子は嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を、僕は内側から見ていた。
頬の筋肉が持ち上がり、目尻が下がり、血流が僅かに速くなる。
幸福の生理反応。
偽物の愛に対する、本物の反応。
それが僕には、見ていられない。
布団の中で寝返りを打つ。
妙子の身体は細い。
肋骨の形が掌に触れる。
食が細いのは昔からだが、最近はさらに食べなくなった。
征人と一緒にいると緊張で胃が縮むのだ。
本人はそれを恋のせいだと思っている。
蝶が飛んでいるような気分だと。
蝶じゃない。
怯えだ。
お前の身体は、征人を拒絶している。
心だけが、必死にしがみついている。
◇◆◇
考えなければならないことがある。
征人から妙子を引き離す。
それだけなら方法はいくつかある。
征人の賭けの証拠を妙子に突きつける。
あのCHAINの画面を再現してみせる。
「お前の彼氏は友達との賭けでお前に近づいた」と。
残酷だが、効率的だ。
だが、それでは足りない。
征人を世界の中心にしている今、彼を奪えば妙子は倒壊する。
僕にできるのは、崩れる前に別の柱を建てることだけだ。
国立奏。
あいつの顔が浮かぶ。
短く刈り込んだ黒髪と、鋭い目。
グラウンドでサボった連中を叱りつけた声。
嫌われるとわかっていて、それでも正しいことを言う男。
妙子が声をかけて無視された場面で、奏だけがクラスメイトを動かした。
妙子は僕を通じて、あの瞬間を見ていた。
奏の背中を目で追っていた。
あの視線の中に、かすかな信頼の芽があった。
奏なら、妙子を支えられるかもしれない。
体育祭の準備が続く間に信頼を築ければ、妙子は征人に捨てられても壊れずに済むかもしれない。
計画としては筋が通っている。
だが、僕の中で何かが軋んでいる。
これは妙子の意思ではない。
彼女は奏に心を開きたいと思っていない。
征人と一緒にいたいと思っている。
征人に愛されることだけが、彼女の世界を支えている。
その世界を僕が勝手に壊して、勝手に建て直す。
それは保護なのか。
それとも――支配か。
福生楓都がやったことと、どこが違う。
その考えが頭を過ぎった瞬間、僕は息を止めた。
妙子の身体が反射的に強張る。
指先が冷たくなる。
あいつは妙子を壊し、僕は守っている。
目的が違う。
……本当に?
天井の染みが滲んで見える。
この身体は僕のものではないから、僕の意志では泣けない。ただ世界の輪郭だけがぼやける。
妙子を守りたい。それは本当だ。
だが、同時に知っている。
妙子が強くなれば、僕は不要になる。
彼女が自分の足で立てるようになれば、僕は消える。
生きたい。
消えたくない。
もっとこの世界を知りたい。
奏と並んで歩く帰り道の、あの乾いた風を感じたい。
だが、妙子を救うためには身を引かなければならない。
生きたいと消えなければならない。
答えが出ない。
出ないまま、夜が深くなっていく。
エアコンの室外機が低く唸る。
隣の部屋の住人の足音が床を伝って響く。
時計の針が進む音は聞こえないのに、時間だけが確実に減っていく。
妙子が寝ている間だけが、僕の時間だ。
毎晩、同じ天井を見つめて、同じ問いに行き止まる。
生きたい。
消えなければならない。
その矛盾の真ん中で、僕は天井の染みを数え続けている。
◇◆◇
翌日の体育祭練習は、一段と厳しい日差しの中で行われた。
六月も半ばに差しかかり、梅雨入り前の最後の晴天が続いている。
気温は三十度を超え、グラウンドに立っているだけで体力が削られる。
妙子は日陰を探しながら、クリップボードを持って各種目を巡回していた。
僕は彼女の内側で、静かに世界を観察していた。
借り物競争の練習は相変わらず形だけだった。
走る距離と方向を確認して終わり。
十分もかからない。
残りの時間、妙子は他の種目の練習を見て回る。
学級委員としての仕事を黙々とこなす。
誰に褒められるでもなく、誰に感謝されるでもなく。
それでも彼女はやる。
彼女の優しさはそういう形をしている。
誰にも気づかれない場所で、黙って手を動かす。
見返りを求めない。
求め方を知らないのだ。
昼過ぎ、気温がさらに上がった。
妙子はグラウンド脇の水道で顔を洗っていた。
首筋を水で冷やし、ハンドタオルで拭く。
体操着の袖が長い。
六月の猛暑の中でも、彼女は絶対に袖をまくらない。
腕の火傷跡を隠すために。
だが、この日は違った。
水道の蛇口をひねったとき、水が思いのほか勢いよく噴き出した。
反射的に腕を上げて水を避けようとした拍子に、濡れた袖口が肘までずり上がった。
ほんの二、三秒のことだった。
妙子はすぐに袖を引き下ろした。
周囲を見回す。
誰かに見られていないか。
呼吸が速くなる。
指先が震える。
お前は何も悪くない。
隠さなければいけない傷なんかじゃない。
僕は妙子にそう伝えたかった。
だが、僕の声は彼女に届かない。
妙子は袖口を何度も引っ張り、手首まで覆われていることを確認してから、水道を離れた。
背中が丸くなっている。
肩が内側に巻き込み、世界から身を隠すような姿勢。
火傷跡を見られることは、彼女にとって裸を晒すのと同じだ。
いや、それ以上かもしれない。
あの跡は肌の痕跡ではない。
記憶の痕跡だ。
タバコの匂い。
楓都の指。
暗い部屋と、逃げ場のない夜。
だが。
僕は気づいた。
水道の向こう側、グラウンドのフェンス沿いに立っていた人影。
征人だ。
リレーの練習の合間に水を飲みに来ていたのだろう。
ペットボトルを手にしたまま、妙子がいた方向を見ていた。
見ていた。
僕にはわかった。
あの位置からなら、妙子の腕が一瞬だけ露出したのが見えた可能性がある。
征人の表情は遠くてはっきりしない。
だが、彼の視線が妙子の腕に向けられていた角度は、偶然ではなかった。
妙子は気づいていない。
水道を離れた彼女は、クリップボードを拾い上げ、次の種目の確認に向かっていた。
何事もなかったように。
征人も何も言わなかった。
ペットボトルの蓋を閉め、リレーの練習に戻っていった。
二人の間に言葉は交わされなかった。
だが、僕の中で警報が鳴っていた。
◇◆◇
放課後の校舎は、練習を終えた生徒たちの汗と疲労の残り香で満ちていた。
妙子は学級委員の仕事で教室に残っていた。
体育祭の進行表の最終確認。
奏と二人で、プログラムの時間配分を詰めている。
妙子は表に出ていたが、作業に集中している分、僕が意識を保てる余裕があった。
僕は妙子の目を通じて、廊下を注視していた。
教室の引き戸が半開きになっている。
その隙間から、廊下の声が漏れ聞こえる。
渡り廊下を挟んだ向こう側。
部室棟に向かう途中の踊り場あたりから、笑い声が響いてきた。
征人の声だった。
聞き耳を立てるまでもない。
反響のいいコンクリートの壁が、声を鮮明に運んでくる。
「なあ、今日見た?」
征人の声。
軽い。
いつもの調子。
世間話の温度。
「何を?」
「豊島の腕。水道で袖めくれてたの」
別の声が応じる。
「マジ?」。
好奇心と嫌悪が混じった短い反応。
「見た見た。タコの吸盤みたいな跡がびっしりでさ。マジ引くわ」
征人の声には感情がなかった。
面白いとも気持ち悪いとも思っていない。
ただ、話題として消費しているだけだ。
食堂のメニューの話と同じ重さで、妙子の傷を語っている。
「まあ、顔はいいんだけどな」
「じゃあ電気消せば問題ないじゃんww」
笑い声が弾けた。
二人か、三人か。
複数の声が重なって、判別がつかない。
だが征人の笑い声だけは、はっきりと聞き取れた。
他の誰よりも自然に、息を吐くように笑っていた。
妙子の身体が動かなくなっている。
教室の中。
進行表のプリントを持ったまま、指先が白くなるほど紙を握りしめている。
目が見開かれている。
呼吸が止まっている。
聞こえたのか。
いや――聞こえていない。
妙子は今、プログラムの文字を追うことに集中している。
彼女の耳は廊下の声を拾っていない。
拾う余裕がないのだ。
奏と一緒に作業しているときの妙子は、意外なほど集中力を発揮する。
雑音を遮断できる。
聞こえたのは、僕だ。
僕だけが、あの声を拾った。
教室の中で、奏が妙子に声をかけた。
「ここの時間配分、五分ずらしたほうがいいと思うんだけど」
「あ、うん……。五分なら大丈夫だと思う」
妙子はいつも通りに答えた。
声は小さいが、内容は的確だ。
奏はそれに頷き、赤ペンでプリントに書き込んだ。
何事もなかったかのように、作業が続いている。
だが僕の中では嵐が吹き荒れていた。
拳を握りしめたい。
だが僕の拳は存在しない。
叫びたい。
だが僕の声は誰にも聞こえない。
あの踊り場に駆けつけて、征人の襟首を掴んで壁に押しつけて、あの薄い笑いを二度と浮かべられないようにしてやりたい。
だが、できない。
僕にできるのは、聞くことだけだ。
聞いて、記憶して、妙子に悟られないように飲み込むことだけだ。
◇◆◇
作業が終わり、妙子と奏は教室を出た。
廊下にはもう征人たちの姿はなかった。
笑い声の残響も消えている。
六月の夕暮れが窓から差し込み、床にオレンジ色の四角を並べていた。
奏が「お疲れ」と短く言って、靴箱の方へ歩いていった。
妙子は手を振って見送った。
一人になった瞬間、妙子の表情が僅かに緩んだ。
疲れている。
人と話すだけで彼女は消耗する。
特に奏のような、はっきりした意見を持つ人間と向き合うのは、妙子にとって綱渡りだ。
嫌われないように。
変に思われないように。
その気遣いだけで、体力の半分を使い果たす。
僕は妙子に主導権を渡したまま、内側で考えていた。
あの笑い声が耳の奥にこびりついている。
征人は妙子の傷を、仲間内の笑い話にした。
妙子はもう賭けの対象ですらない。使い切れば捨てるだけの話題だ。
その日は、僕が思っていたより近い。
「飽きた」の一言が、比喩ではなく妙子を殺す。
マンションの五階。
ベランダ。
窓をにべもなく開ける妙子の手。
それを止める力が僕にあるかどうか。
妙子がフリーズしたら、僕は主導権を奪えない。
彼女の心が完全にシャットダウンしたら、切り替えは起きない。
もう時間がない。
妙子が帰り支度をしている。
鞄に荷物を詰め、教室の窓を閉め、電気を消す。
ひとつひとつの動作が丁寧で、ゆっくりしている。
彼女はいつもこうだ。
急がない。
急げない。
世界に遠慮するように、小さな足取りで歩く。
その背中を、僕は内側から見つめている。
この背中を守ると決めた。
守るためなら、妙子の意思を踏みにじることになっても。
……それが正しいのかどうか、僕にはまだわからない。
だが、正しさを量っている間に妙子が壊れるなら、正しさなど意味がない。
帰り道、妙子はスマホを取り出して征人の名前を探した。
CHAINを開き、メッセージを打ちかける。
「今日はお疲れさま」。
送信ボタンを押す寸前に、少しだけ迷う。
「重いって思われないかな」。
そんな不安が、指先を止めている。
結局、メッセージを消した。
「やっぱりやめよう」と小さく呟いて、スマホをポケットにしまう。
征人がお前のメッセージをどう扱うか、僕は知っている。
友人に見せて笑うか、既読をつけたまま放置するか。
どちらにしても、お前の言葉は征人の中で一秒も留まらない。
お前が費やす優しさの分だけ、お前の傷は深くなる。
夜になった。
妙子がシャワーを浴び、髪を乾かし、布団に入る。
スマホの画面を少しだけ見て――征人からの返信がないことを確認して――画面を伏せ、目を閉じた。
その呼吸がゆっくりと深くなり、意識が沈んでいくのを、僕は待った。
眠った。
暗闇の中で、僕は目を開ける。
同じ染みが、同じ場所にある。
変わらない風景。
変わらない問い。
だが今夜は、答えが出ている。
計画を始める。
妙子の世界の重心を、征人から奏へ少しずつずらす。
それが妙子の意思を無視することも、楓都と何が違うのか答えられないことも、わかっている。
止まれば妙子が壊れる。動けば妙子の選択を踏みにじる。
僕は、まだ妙子が息をしている方を選ぶ。
奏の顔が浮かぶ。
あの鋭い目。
嘘のない声。
「聞いてもらえなくても、言ったことに意味はある」と言った帰り道の横顔。
奏なら、妙子の傷を笑わない。
僕が消えた後も、妙子の隣にいてくれる。
窓の外で風が鳴った。
梅雨入り前の乾いた風。
明日も晴れるだろう。
体育祭の練習が続く。
奏と過ごす時間がある。
その時間を使う。
迷いも矛盾も消えていない。ただ、動くと決めた。
彼女を殺す準備を始めよう。
その言葉が、僕の中で形を成した瞬間、窓の外の風がやんだ。
静寂。
妙子の呼吸だけが、暗闇の中で規則正しく繰り返されている。
この呼吸が止まらないように。
この心臓が動き続けるように。
そのためなら、僕は何にでもなる。
妙子の盾にも、妙子の敵にも。
たとえそれが、僕自身を殺すことになっても。




