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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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6/21

6話:分岐点

 夜は僕だけのものだ。


 妙子が眠りに落ちると、世界は途端に静かになる。

 彼女の意識が沈んでいくのは、水面に石が吸い込まれるのに似ている。

 波紋がゆっくりと広がり、やがて消え、あとには凪いだ暗がりだけが残る。

 その暗がりの中で、僕は目を開ける。


 天井の染みを数えるのが、夜の日課だった。

 エアコンの水漏れが残した輪郭のない茶色い痕。

 右端に三つ、左端にひとつ。

 どうでもいいことを数えている。

 どうでもいいことしか、考えたくない夜がある。


 妙子の呼吸が規則正しく繰り返される。

 吸って、止まって、吐いて。

 その間隔の中に、彼女の一日の疲労が溶けている。

 僕にはわかる。

 彼女がどれだけ消耗したか、どれだけ傷ついたか。

 彼女の身体は僕の身体でもあるから、筋肉の強張りも、胃の重さも、喉の奥に残った泣きそうな圧迫感も、すべて伝わってくる。


 今日も征人と一緒に帰った。

 帰り道、征人は妙子の肩に腕を回した。

 妙子は嬉しそうに微笑んだ。

 その笑顔を、僕は内側から見ていた。

 頬の筋肉が持ち上がり、目尻が下がり、血流が僅かに速くなる。

 幸福の生理反応。

 偽物の愛に対する、本物の反応。

 それが僕には、見ていられない。


 布団の中で寝返りを打つ。

 妙子の身体は細い。

 肋骨の形が掌に触れる。

 食が細いのは昔からだが、最近はさらに食べなくなった。

 征人と一緒にいると緊張で胃が縮むのだ。

 本人はそれを恋のせいだと思っている。

 蝶が飛んでいるような気分だと。

 蝶じゃない。

 怯え(・・)だ。

 お前の身体は、征人を拒絶している。

 心だけが、必死にしがみついている。


 ◇◆◇


 考えなければならないことがある。


 征人から妙子を引き離す。

 それだけなら方法はいくつかある。

 征人の賭けの証拠を妙子に突きつける。

 あのCHAINの画面を再現してみせる。

 「お前の彼氏は友達との賭けでお前に近づいた」と。

 残酷だが、効率的だ。

 だが、それでは足りない。


 征人を世界の中心にしている今、彼を奪えば妙子は倒壊する。

 僕にできるのは、崩れる前に別の柱を建てることだけだ。


 国立奏。


 あいつの顔が浮かぶ。

 短く刈り込んだ黒髪と、鋭い目。

 グラウンドでサボった連中を叱りつけた声。

 嫌われるとわかっていて、それでも正しいことを言う男。

 妙子が声をかけて無視された場面で、奏だけがクラスメイトを動かした。

 妙子は僕を通じて、あの瞬間を見ていた。

 奏の背中を目で追っていた。

 あの視線の中に、かすかな信頼の芽があった。


 奏なら、妙子を支えられるかもしれない。

 体育祭の準備が続く間に信頼を築ければ、妙子は征人に捨てられても壊れずに済むかもしれない。


 計画としては筋が通っている。

 だが、僕の中で何かが軋んでいる。


 これは妙子の意思ではない。


 彼女は奏に心を開きたいと思っていない。

 征人と一緒にいたいと思っている。

 征人に愛されることだけが、彼女の世界を支えている。

 その世界を僕が勝手に壊して、勝手に建て直す。

 それは保護なのか。

 それとも――支配(・・)か。


 福生楓都がやったことと、どこが違う。


 その考えが頭を過ぎった瞬間、僕は息を止めた。

 妙子の身体が反射的に強張る。

 指先が冷たくなる。

 あいつは妙子を壊し、僕は守っている。

 目的が違う。

 ……本当に?


 天井の染みが滲んで見える。

 この身体は僕のものではないから、僕の意志では泣けない。ただ世界の輪郭だけがぼやける。


 妙子を守りたい。それは本当だ。

 だが、同時に知っている。

 妙子が強くなれば、僕は不要(・・)になる。

 彼女が自分の足で立てるようになれば、僕は消える。


 生きたい。


 消えたくない。

 もっとこの世界を知りたい。

 奏と並んで歩く帰り道の、あの乾いた風を感じたい。

 だが、妙子を救うためには身を引かなければならない。


 生きたい(・・・・)と消えなければならない(・・・・・・・・・・)。

 答えが出ない。

 出ないまま、夜が深くなっていく。

 エアコンの室外機が低く唸る。

 隣の部屋の住人の足音が床を伝って響く。

 時計の針が進む音は聞こえないのに、時間だけが確実に減っていく。

 妙子が寝ている間だけが、僕の時間だ。

 毎晩、同じ天井を見つめて、同じ問いに行き止まる。


 生きたい。

 消えなければならない。

 その矛盾の真ん中で、僕は天井の染みを数え続けている。


 ◇◆◇


 翌日の体育祭練習は、一段と厳しい日差しの中で行われた。


 六月も半ばに差しかかり、梅雨入り前の最後の晴天が続いている。

 気温は三十度を超え、グラウンドに立っているだけで体力が削られる。

 妙子は日陰を探しながら、クリップボードを持って各種目を巡回していた。

 僕は彼女の内側で、静かに世界を観察していた。


 借り物競争の練習は相変わらず形だけだった。

 走る距離と方向を確認して終わり。

 十分もかからない。

 残りの時間、妙子は他の種目の練習を見て回る。

 学級委員としての仕事を黙々とこなす。

 誰に褒められるでもなく、誰に感謝されるでもなく。

 それでも彼女はやる。

 彼女の優しさはそういう形をしている。

 誰にも気づかれない場所で、黙って手を動かす。

 見返りを求めない。

 求め方を知らないのだ。


 昼過ぎ、気温がさらに上がった。

 妙子はグラウンド脇の水道で顔を洗っていた。

 首筋を水で冷やし、ハンドタオルで拭く。

 体操着の袖が長い。

 六月の猛暑の中でも、彼女は絶対に袖をまくらない。

 腕の火傷跡を隠すために。

 だが、この日は違った。


 水道の蛇口をひねったとき、水が思いのほか勢いよく噴き出した。

 反射的に腕を上げて水を避けようとした拍子に、濡れた袖口が肘までずり上がった。

 ほんの二、三秒のことだった。

 妙子はすぐに袖を引き下ろした。

 周囲を見回す。

 誰かに見られていないか。

 呼吸が速くなる。

 指先が震える。


 お前は何も悪くない。

 隠さなければいけない傷なんかじゃない。

 僕は妙子にそう伝えたかった。

 だが、僕の声は彼女に届かない。


 妙子は袖口を何度も引っ張り、手首まで覆われていることを確認してから、水道を離れた。

 背中が丸くなっている。

 肩が内側に巻き込み、世界から身を隠すような姿勢。

 火傷跡を見られることは、彼女にとって裸を晒すのと同じだ。

 いや、それ以上かもしれない。

 あの跡は肌の痕跡ではない。

 記憶の痕跡だ。

 タバコの匂い。

 楓都の指。

 暗い部屋と、逃げ場のない夜。


 だが。

 僕は気づいた。


 水道の向こう側、グラウンドのフェンス沿いに立っていた人影。

 征人だ。

 リレーの練習の合間に水を飲みに来ていたのだろう。

 ペットボトルを手にしたまま、妙子がいた方向を見ていた。

 見ていた。

 僕にはわかった。

 あの位置からなら、妙子の腕が一瞬だけ露出したのが見えた可能性がある。

 征人の表情は遠くてはっきりしない。

 だが、彼の視線が妙子の腕に向けられていた角度は、偶然ではなかった。


 妙子は気づいていない。

 水道を離れた彼女は、クリップボードを拾い上げ、次の種目の確認に向かっていた。

 何事もなかったように。

 征人も何も言わなかった。

 ペットボトルの蓋を閉め、リレーの練習に戻っていった。

 二人の間に言葉は交わされなかった。


 だが、僕の中で警報が鳴っていた。


 ◇◆◇


 放課後の校舎は、練習を終えた生徒たちの汗と疲労の残り香で満ちていた。


 妙子は学級委員の仕事で教室に残っていた。

 体育祭の進行表の最終確認。

 奏と二人で、プログラムの時間配分を詰めている。

 妙子は表に出ていたが、作業に集中している分、僕が意識を保てる余裕があった。

 僕は妙子の目を通じて、廊下を注視していた。


 教室の引き戸が半開きになっている。

 その隙間から、廊下の声が漏れ聞こえる。

 渡り廊下を挟んだ向こう側。

 部室棟に向かう途中の踊り場あたりから、笑い声が響いてきた。


 征人の声だった。


 聞き耳を立てるまでもない。

 反響のいいコンクリートの壁が、声を鮮明に運んでくる。


「なあ、今日見た?」


 征人の声。

 軽い。

 いつもの調子。

 世間話の温度。


「何を?」

「豊島の腕。水道で袖めくれてたの」


 別の声が応じる。

 「マジ?」。

 好奇心と嫌悪が混じった短い反応。


「見た見た。タコの吸盤みたいな跡がびっしりでさ。マジ引くわ」


 征人の声には感情がなかった。

 面白いとも気持ち悪いとも思っていない。

 ただ、話題として消費しているだけだ。

 食堂のメニューの話と同じ重さで、妙子の傷を語っている。


「まあ、顔はいいんだけどな」

「じゃあ電気消せば問題ないじゃんww」


 笑い声が弾けた。

 二人か、三人か。

 複数の声が重なって、判別がつかない。

 だが征人の笑い声だけは、はっきりと聞き取れた。

 他の誰よりも自然に、息を吐くように笑っていた。


 妙子の身体が動かなくなっている。

 教室の中。

 進行表のプリントを持ったまま、指先が白くなるほど紙を握りしめている。

 目が見開かれている。

 呼吸が止まっている。

 聞こえたのか。

 いや――聞こえていない。

 妙子は今、プログラムの文字を追うことに集中している。

 彼女の耳は廊下の声を拾っていない。

 拾う余裕がないのだ。

 奏と一緒に作業しているときの妙子は、意外なほど集中力を発揮する。

 雑音を遮断できる。

 聞こえたのは、僕だ。

 僕だけが、あの声を拾った。


 教室の中で、奏が妙子に声をかけた。


「ここの時間配分、五分ずらしたほうがいいと思うんだけど」

「あ、うん……。五分なら大丈夫だと思う」


 妙子はいつも通りに答えた。

 声は小さいが、内容は的確だ。

 奏はそれに頷き、赤ペンでプリントに書き込んだ。


 何事もなかったかのように、作業が続いている。

 だが僕の中では嵐が吹き荒れていた。


 拳を握りしめたい。

 だが僕の拳は存在しない。

 叫びたい。

 だが僕の声は誰にも聞こえない。

 あの踊り場に駆けつけて、征人の襟首を掴んで壁に押しつけて、あの薄い笑いを二度と浮かべられないようにしてやりたい。

 だが、できない。

 僕にできるのは、聞くことだけだ。

 聞いて、記憶して、妙子に悟られないように飲み込むことだけだ。


 ◇◆◇


 作業が終わり、妙子と奏は教室を出た。


 廊下にはもう征人たちの姿はなかった。

 笑い声の残響も消えている。

 六月の夕暮れが窓から差し込み、床にオレンジ色の四角を並べていた。

 奏が「お疲れ」と短く言って、靴箱の方へ歩いていった。

 妙子は手を振って見送った。


 一人になった瞬間、妙子の表情が僅かに緩んだ。

 疲れている。

 人と話すだけで彼女は消耗する。

 特に奏のような、はっきりした意見を持つ人間と向き合うのは、妙子にとって綱渡りだ。

 嫌われないように。

 変に思われないように。

 その気遣いだけで、体力の半分を使い果たす。


 僕は妙子に主導権を渡したまま、内側で考えていた。


 あの笑い声が耳の奥にこびりついている。

 征人は妙子の傷を、仲間内の笑い話にした。

 妙子はもう賭けの対象ですらない。使い切れば捨てるだけの話題だ。


 その日は、僕が思っていたより近い。

 「飽きた」の一言が、比喩ではなく妙子を殺す。


 マンションの五階。

 ベランダ。

 窓をにべもなく開ける妙子の手。

 それを止める力が僕にあるかどうか。

 妙子がフリーズしたら、僕は主導権を奪えない。

 彼女の心が完全にシャットダウンしたら、切り替えは起きない。


 もう時間がない。


 妙子が帰り支度をしている。

 鞄に荷物を詰め、教室の窓を閉め、電気を消す。

 ひとつひとつの動作が丁寧で、ゆっくりしている。

 彼女はいつもこうだ。

 急がない。

 急げない。

 世界に遠慮するように、小さな足取りで歩く。

 その背中を、僕は内側から見つめている。


 この背中を守ると決めた。

 守るためなら、妙子の意思を踏みにじることになっても。

 ……それが正しいのかどうか、僕にはまだわからない。

 だが、正しさを量っている間に妙子が壊れるなら、正しさなど意味がない。


 帰り道、妙子はスマホを取り出して征人の名前を探した。

 CHAINを開き、メッセージを打ちかける。

 「今日はお疲れさま」。

 送信ボタンを押す寸前に、少しだけ迷う。

 「重いって思われないかな」。

 そんな不安が、指先を止めている。

 結局、メッセージを消した。

 「やっぱりやめよう」と小さく呟いて、スマホをポケットにしまう。


 征人がお前のメッセージをどう扱うか、僕は知っている。

 友人に見せて笑うか、既読をつけたまま放置するか。

 どちらにしても、お前の言葉は征人の中で一秒も留まらない。

 お前が費やす優しさの分だけ、お前の傷は深くなる。


 夜になった。

 妙子がシャワーを浴び、髪を乾かし、布団に入る。

 スマホの画面を少しだけ見て――征人からの返信がないことを確認して――画面を伏せ、目を閉じた。

 その呼吸がゆっくりと深くなり、意識が沈んでいくのを、僕は待った。


 眠った。


 暗闇の中で、僕は目を開ける。

 同じ染みが、同じ場所にある。

 変わらない風景。

 変わらない問い。

 だが今夜は、答えが出ている。


 計画を始める。

 妙子の世界の重心を、征人から奏へ少しずつずらす。

 それが妙子の意思を無視することも、楓都と何が違うのか答えられないことも、わかっている。


 止まれば妙子が壊れる。動けば妙子の選択を踏みにじる。

 僕は、まだ妙子が息をしている方を選ぶ。


 奏の顔が浮かぶ。

 あの鋭い目。

 嘘のない声。

 「聞いてもらえなくても、言ったことに意味はある」と言った帰り道の横顔。

 奏なら、妙子の傷を笑わない。

 僕が消えた後も、妙子の隣にいてくれる。


 窓の外で風が鳴った。

 梅雨入り前の乾いた風。

 明日も晴れるだろう。

 体育祭の練習が続く。

 奏と過ごす時間がある。

 その時間を使う。

 迷いも矛盾も消えていない。ただ、動くと決めた。


 彼女を殺す準備を始めよう。


 その言葉が、僕の中で形を成した瞬間、窓の外の風がやんだ。

 静寂。

 妙子の呼吸だけが、暗闇の中で規則正しく繰り返されている。

 この呼吸が止まらないように。

 この心臓が動き続けるように。

 そのためなら、僕は何にでもなる。

 妙子の盾にも、妙子の敵にも。

 たとえそれが、僕自身を殺すことになっても。


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