↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/19

5話:体育祭の足音

 六月の日差しは遠慮を知らない。


 グラウンドの土が白く乾いて、踏むたびに細かい砂埃が舞い上がる。

 空には雲ひとつなく、太陽が真上から地面を焼いていた。

 汗が首筋を伝い、体操着の襟に吸い込まれていく。

 体育祭まであと二週間。

 全学年合同の練習が始まっていた。


 妙子はグラウンドの隅に立っていた。

 借り物競争の練習場所は第二トラックの外周だが、そもそも練習する内容がほとんどない。

 走って、お題を読んで、該当するものを持ってゴールする。

 それだけの種目だ。

 事前に走る練習をしたところで、当日の成績は運と度胸に左右される。

 だから誰もやりたがらなかった。

 希望者ゼロの種目に、残り物として名前を書いたのが妙子だった。


 僕は彼女の内側から、グラウンド全体を見渡していた。


 第一トラックではリレーの練習が行われている。

 バトンパスの確認。

 第一走者から第三走者までが何度も往復する中、アンカーの征人だけがスタート地点のベンチに座っていた。

 スマホの画面を指で弾きながら、時折顔を上げて仲間に声をかける。


「おーい、もっと腕振れよ!」


 練習に参加せず指示だけ飛ばす。

 その声は明るく、屈託がない。

 悪意はないのだ。

 ただ、興味がない。

 彼にとってリレーのアンカーとは、最後にゴールテープを切ってクラスの歓声を浴びる役柄(ポジション)にすぎない。

 バトンを受け取るまでの過程など、舞台裏の仕事だ。

 主演俳優がセットの組み立てに汗をかく道理はない。

 友人の他薦という形を取っているが、あれは出来レースだろう。

 征人が欲しいのは花道であって、泥まみれの練習場ではない。


 征人の隣で、同じサッカー部の連中がスマホを覗き込んでいた。

 バトンパスの順番を待つ間にSNSをチェックしている。

 一人が何かを見て笑い、征人に画面を見せた。

 征人も笑った。

 練習の合間の、ほんの数秒の脱線。

 だがそれが繰り返されるうちに、走っている時間よりスマホを見ている時間のほうが長くなっていく。


 妙子はその様子を見ていた。


 彼女は借り物競争の練習をする必要がなかった。

 だが学級委員として、各種目の練習状況を確認する役割がある。

 出席簿のクリップボードを抱えて、グラウンドを巡回していた。

 リレーの練習場所に近づいたとき、ベンチに座り込んでいる四人の姿が目に入った。

 征人を含む、リレーメンバーの半数。

 練習開始から三十分が経っているのに、まともにバトンを繋いだのは二回だけだった。


 妙子は立ち止まった。

 僕は彼女の胸の奥で鼓動が速くなるのを感じた。


 彼女は言わなければいけないと思っている。

 学級委員として、サボっている生徒に声をかけなければ。

 種目ごとの練習時間は限られている。

 この調子では本番に間に合わない。

 頭ではわかっている。

 だが、足が動かない。


 妙子は深呼吸をした。

 小さく、ほとんど音のない呼吸。

 それから一歩を踏み出した。


「あの……すみません。練習、もう少ししたほうがいいんじゃないかな……って」


 声が小さい。

 グラウンドの喧騒に半分以上かき消されている。

 それでも四人の視線が妙子に集まった。


 一瞬の沈黙。


「え? ああ、豊島さん?」


 征人の友人の一人が答えた。

 顔に浮かんでいるのは、困惑でも反発でもない。

 もっと残酷なもの。

 無関心(・・・・)だ。


「いや、ちゃんとやってるよ。さっきも走ったし」

「でも、バトンパスの練習がまだ二回しか……」

「大丈夫大丈夫。本番はなんとかなるって」


 別の一人が軽い調子で手を振った。

 話は終わりだという空気。

 妙子の言葉は聞き流しの用水路に吸い込まれて、どこにも届かなかった。


「でも――」

「豊島さんが言ってもねえ……」


 三人目が小さく呟いた。

 悪気はなかったかもしれない。

 本人は事実を述べたつもりだろう。

 だが、その一言は妙子の胸を正確に刺した。


 お前の声には重みがない。

 お前が何を言っても、誰も動かない。

 お前はそういう存在(・・・・・・)だ。


 言葉にはされていない。

 されていないからこそ、余計に響く。

 妙子の唇が震えた。

 何か言おうとして、声にならなかった。

 握りしめたクリップボードの角が掌に食い込んでいる。


 征人はその一部始終を見ていた。

 ベンチに座ったまま。

 笑いもせず、助けもせず、ただ見ていた。

 彼女が侮られる光景を、夏の陽炎越しに眺めるように。

 そこに介入する理由が、彼にはない。

 妙子は彼にとって放課後のカラオケ相手であり、賭けの対象であり、それ以上ではない。


 僕は妙子の内側で、悔しさを押し殺した。


 そのとき、グラウンドの空気が変わった。


「――おい」


 低い声。

 腹の底から地面を伝って響くような声。

 国立奏が歩いてきた。


 奏はリレーメンバーの前に立ち、四人を順番に見下ろした。

 その目に笑みはない。

 怒りすら見えない。

 ただ、正しさを量る天秤のような冷徹さがあった。


「練習開始から三十分。まともに通しで走ったの、何回だ」


 質問の形をしているが、答えを求めていない。


「いや、国立。さっきもやったって――」

「二回だ。俺は見てた。タイムも計ってない。バトンパスの精度も確認してない。これで本番に出るつもりか?」


 空気が凍った。

 六月の日差しの下で、四人の表情から汗以外の色が消えた。


「練習しないなら出るな。代わりを探す」


 奏の声は大きくなかった。

 だがグラウンドの一角が静まり返るほどの密度があった。

 有無を言わせない圧。

 反論の余地を与えない断定。


「いや、そこまで言わなくても――」

「言うよ。俺は学級委員だ。種目の編成に責任がある。手を抜くやつを本番に出して、クラスに迷惑かけるわけにはいかない」


 征人の友人の一人が征人に助けを求めるように目を向けた。

 だが征人は肩をすくめただけだった。

 巻き込まれたくないのだ。

 自分の立場が傷つかない位置を、この男は本能的に嗅ぎ分ける。


 奏は征人にも視線を向けた。


「町田も。アンカーだろ。一回も走ってないよな」

「え、俺? いや、アンカーは最後だから、バトンパスは第三走者と合わせれば――」

「だから合わせろって言ってる。今から」


 征人の笑顔がほんの一瞬だけ引きつった。

 すぐに元の柔らかい表情に戻ったが、目の奥に冷たい光が走ったのを僕は見逃さなかった。


「はいはい、わかったよ。国立先生の言うとおりにしますー」


 軽い口調。

 おどけた調子。

 だがその裏に滲む苛立ちは隠しきれていない。

 征人は立ち上がり、バトンを手に取った。

 他の三人も渋々腰を上げる。


 奏はそれを見届けてから、僅かに肩の力を抜いた。

 煙たがられている。

 わかっている。

 奏自身がそれを一番理解しているだろう。

 正論は人を動かすが、好かれはしない。

 正しさという刃物は、振るう側の手も切る。


 僕は妙子の内側から、奏の横顔を見ていた。


 こいつは嘘がつけない。

 征人のように笑顔で毒を包むこともできない。

 正しいと思ったことを正しいと言い、間違っていると思ったことを間違っていると言う。

 それだけのことが、十六歳の教室では致命的な欠陥になる。

 だから嫌われる。

 だけど、こういう奴のほうが信用できる。

 嘘の匂いがしない人間は、それだけで希少だ。


 練習が再開された。

 征人たちは渋々ながらバトンパスを繰り返し始める。

 動きは雑だが、さっきまでの怠惰よりはましだ。

 妙子はグラウンドの隅でその様子を見ていた。

 手元のクリップボードに練習回数を記録しながら、時折奏の背中を目で追っている。


 練習が終わったのは五時過ぎだった。

 西日がグラウンドを斜めに照らし、長い影が土の上に伸びている。

 生徒たちが三々五々帰っていく中、僕は妙子から主導権をもらった。

 彼女は練習の間ずっと表に出ていて、疲れていたのだろう。

 意識の底に沈むように奥へ引っ込んだ。


 更衣室から出ると、奏が校舎の壁にもたれて立っていた。

 水筒の水を飲んでいる。

 喉仏が上下するのが逆光の中に見えた。

 僕が近づくと、奏は顔を上げた。


「お疲れ」

「……ああ」


 奏の声は平坦だった。

 だが、疲労が滲んでいる。

 怒ることにもエネルギーがいる。

 正しくあり続けることは、楽な仕事ではない。


 二人で校門に向かって歩き始めた。

 並んで歩くのは、学級委員の打ち合わせ以来だ。

 奏の歩幅は大きい。

 僕は妙子の短い足で合わせながら、半歩後ろを歩いた。


「あいつら、来年もこうなんだろうな」


 奏がぼやいた。

 視線は前方の道路に向けたまま。


「毎回同じことの繰り返しだ。練習しない、注意されてやる、すぐサボる。で、本番だけそれなりに走って、打ち上げで盛り上がって、来年また同じことやる」


 その声には怒りよりも疲弊が勝っていた。

 正しさを振りかざした後の、乾いた虚しさ。


「でも」


 僕は言った。


「あなたが怒ってくれたから、あの人たちは動いた」


 奏が横を向いた。

 少し驚いた顔をしている。


「……怒ったんじゃない。当たり前のことを言っただけだ」

「それを当たり前に言える人は、そんなに多くないと思うけど」


 奏は黙った。

 何か言いかけて、やめた。

 代わりに水筒のキャップを閉める音がした。


「……豊島も声かけてたよな。あいつらに」


 僕は少し間を置いた。

 あれは妙子だ。

 僕ではない。

 だが、そう説明するわけにはいかない。


「うん。聞いてもらえなかったけど」

「聞いてもらえなくても、言ったことに意味はある」


 奏はそう言って、前を向いた。


 その一言は、奏自身に向けた言葉でもあったのだろう。

 聞いてもらえなくても言い続ける。

 嫌われても正しさを手放さない。

 それは強さではなく、そうしなければ自分を保てない人間の業(ごう)だ。

 僕には、その業がわかる気がした。


 校門を出たところで、征人の姿が見えた。

 仲間と並んで歩いている。

 練習着のまま、鞄を肩に引っかけて、何かの話で笑い合っていた。

 練習をサボり、奏に叱られ、渋々走り、それでも最後には笑って帰る。

 この男の強さはそこにある。

 何も引きずらない。

 何も背負わない。

 重力を持たない人間。


 征人がふとこちらに気づき、軽く手を上げた。

 妙子に向けた笑顔。

 いつもの、表面だけの、完璧な笑顔。


 僕はその笑顔に小さく頷き返しながら、征人の背中を見送った。


 あいつの賭けが終わる前に、僕の計画を終わらせなければならない。

 奏との距離を縮めること。

 妙子の新しい支えを作ること。

 征人が彼女を捨てる日が来ても、壊れないだけの地盤を整えること。

 時間は有限だ。

 砂時計の砂が落ちる音は聞こえない。

 気づいたときには、もう底に溜まっている。


 隣で奏が歩いている。

 その横顔に夕陽が当たり、黒い髪の縁が金色に光っていた。


「国立くん」

「ん?」

「また明日」


 奏は一瞬だけ目を丸くして、それから小さく頷いた。


「ああ。また明日」


 その声を背中に受けながら、僕は反対方向へ歩き出した。

 六月の風が頬を撫でる。

 土と汗と、僅かに混じる草の匂い。

 夏がすぐそこまで来ている。

 体育祭まで、あと二週間。

 僕に残された猶予も、おそらくそれくらいだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。