4話:水の記憶
雨の匂いがする教室は、水槽の底に似ていた。
六時間目が終わって一時間。
窓の外では梅雨の走りのような雨が降り続いていた。
灰色の空から落ちてくる水滴が、ガラスの表面に無数の筋を描いている。
蛍光灯の白い光がそれを照らし、教室の天井に揺らめく影を投げかけていた。
その中で妙子は一人、机を二つ並べて作業をしていた。
体育祭の掲示物。
模造紙に種目名と参加者の名前を書き込んでいく。
太いマーカーを握り、定規を当て、一文字ずつ丁寧に。
彼女の字は小さくて几帳面だ。
角が丸くて、線の終わりが少しだけ跳ねる。
誰に見せるわけでもないのに、一画たりとも手を抜かない。
僕はその手元を内側から見ていた。
マーカーのインクが紙に染みていく。
ほんの僅かに滲む瞬間がある。
繊維の隙間をインクが走り、意図した線から微かにはみ出す。
妙子はそのたびに小さく眉を寄せ、次の文字で帳尻を合わせようとする。
完璧は求めていない。
ただ、丁寧でありたいだけだ。
彼女のこういうところを、僕は好ましく思う。
雨脚が強まった。
窓を叩く音が一段と大きくなる。
妙子の肩が跳ねた。
マーカーの先が紙の上で止まる。
指先が白くなるほど軸を握りしめていた。
瞳孔が開く。
呼吸が浅くなる。
身体の奥から這い上がってくる、古い恐怖の信号。
雨音は彼女にとって天気予報ではない。
記憶の蓋を叩く拳だ。
――大丈夫だ。
ここは教室だ。
僕は心の中で呟いた。
届かないとわかっている。
それでも呟かずにはいられない。
三秒。
五秒。
七秒。
妙子の呼吸が戻ってきた。
握りしめていた指が少しずつ緩む。
視線が模造紙の上に戻る。
「借り物競争」の「競」の字の途中で止まっていたマーカーを、彼女はゆっくりと動かし始めた。
線が繋がる。
文字が完成する。
それだけのことに、僕は安堵した。
雨音は続いている。
だが、妙子はもう聞いていなかった。
マーカーの先端と紙の接地面、その一点に意識を注ぎ込むことで、彼女は自分を保っていた。
水の底で息を止めるように。
音を遮断し、世界を狭め、手元だけを自分の領域にする。
それが彼女の生き方だった。
逃げるのではない。
小さくなるのだ。
嵐が通り過ぎるまで、できるだけ小さく。
教室の扉が開いた。
妙子が顔を上げる。
入ってきたのは同じクラスの女子だった。
名前は確か、河野。
前の席に座っていて、いつも三人組でいる子だ。
いた、というべきか。
最近、その三人組の輪から外れている。
昼休みに一人で弁当を食べているのを、僕は妙子の目を通して見ていた。
河野は教室に誰かがいると思っていなかったらしい。
妙子の姿を見て一瞬足を止め、気まずそうに目を逸らした。
「あ……ごめん。忘れ物、取りに来ただけだから」
声が小さかった。
普段の彼女はもっと声が通る。
それが今は、水に浸した紙のようにふやけている。
目元が赤い。
泣いた後だとわかった。
僕にも、妙子にも。
妙子は河野の顔をじっと見た。
三秒ほどの沈黙。
雨音だけが教室に響いている。
それから妙子は視線を模造紙に戻し、何でもないように言った。
「……一緒にやる?」
河野が目を丸くした。
「え?」
「掲示物。一人だと大変で。……色塗り、手伝ってくれると助かるんだけど」
妙子の声は小さかった。
いつも通りの、消え入りそうなトーン。
誘っているのか独り言なのか判別がつかないくらいの。
けれど、彼女は確かに河野の方を見ていた。
河野は少し迷った後、鞄を机に置いた。
「……いいよ。暇だし」
暇なわけがない。
泣いた後に教室に来て、忘れ物を言い訳にしている子が暇なはずがない。
妙子もそれをわかっていた。
わかっていて、何も聞かなかった。
僕は彼女のその判断を、内側から見つめていた。
妙子はマーカーを一本差し出した。
赤。
種目名の飾り枠を塗るためのものだ。
河野はそれを受け取り、妙子の隣に座った。
二人の間に会話はなかった。
マーカーの音だけが教室に響く。
紙の上をペン先が滑る微かな摩擦音。
窓の外の雨音と、蛍光灯のかすかな唸り。
それだけで構成された時間。
五分が過ぎた。
十分が過ぎた。
河野のマーカーの動きが少しずつ安定していくのが、僕にはわかった。
最初はぎこちなく、線が震えていた。
それが徐々に滑らかになり、塗りの面積が均一になっていく。
手を動かすことで、何かが落ち着いていく。
身体を使う単純な作業が、心の表面を整えていく。
妙子はそれを知っている。
自分がそうやって生き延びてきたから。
「……豊島さんって、いつもこういうの一人でやってるの?」
河野がぽつりと言った。
目は模造紙に向けたまま。
「うん。学級委員だから」
「大変じゃない?」
「うーん……。でも、嫌いじゃないの。手を動かしてると、余計なこと考えなくて済むから」
妙子がそう言ったとき、河野の手が一瞬止まった。
余計なこと。
その言葉が何かに触れたのだろう。
河野の唇が微かに震えた。
「……私さ、最近、お昼一人なんだよね」
声が揺れていた。
こぼれ落ちそうな、薄いガラスの器みたいな声。
「うん」
妙子は短く応えた。
知ってた、とは言わなかった。
どうしたの、とも聞かなかった。
ただ「うん」とだけ。
「なんか、急にハブられちゃって。理由もよくわかんないんだけど」
「そうなんだ」
「……つらくないの? 豊島さんは」
「何が?」
「一人で、いること」
妙子はマーカーを持つ手を止めなかった。
少しだけ間を置いて、答えた。
「慣れてるから」
その一言に、嘘はなかった。
自虐でもなかった。
ただ事実を事実として差し出しただけだ。
河野は黙った。
妙子も黙った。
二人の間に、また沈黙が流れた。
だが、その沈黙の温度が変わっていた。
さっきまでのぎこちなさが消えて、互いの手元の音だけが柔らかく響いている。
隣にいるだけの時間。
それ以上でも以下でもない。
問い詰めず、慰めず、ただ同じ空気を吸って、同じ作業をしている。
僕は妙子の内側から、その光景を見ていた。
彼女は何もしていない。
河野の悩みを聞いてアドバイスをしたわけでもない。
励ましの言葉をかけたわけでもない。
ただマーカーを渡して、隣に座らせただけだ。
それだけのことが、こんなにも正しい。
妙子にはそれができる。
痛みの在り処を嗅ぎ取る嗅覚。
そして、そこに触れないという節度。
誰かの傷口を覗き込まず、ただ隣に立つだけの優しさ。
それは技術ではない。
彼女自身が傷だらけだから、傷の扱い方を身体で知っているのだ。
僕にはできない。
僕なら原因を分析し、対策を立て、最短距離で解決しようとする。
それが僕のやり方だ。
だが、河野が今必要としていたのは解決ではなかった。
ただ、雨の中で一緒に屋根の下にいてくれる誰か。
彼女のこういうところが、僕を生かしている。
この柔らかさは僕にはない。
だから――。
その先の言葉を、僕は飲み込んだ。
今はまだ言えない。
雨音がまた強くなった。
窓ガラスを打つ音が太鼓のように低く響く。
妙子の肩が僅かに緊張したが、隣に河野がいるからだろう、すぐに力が抜けた。
誰かがそばにいるだけで、恐怖の輪郭はぼやける。
皮肉なものだ。
彼女自身が河野にしていることを、河野が無意識に彼女に返している。
「……できた」
河野が塗り終えた飾り枠を見せた。
少しはみ出しているが、丁寧な仕事だった。
「うん。きれい」
妙子が言った。
お世辞ではない。
彼女は嘘のつけない人間だ。
きれいだと思ったからきれいだと言った。
それだけのこと。
河野は掲示物の全体を眺め、小さく息をついた。
「思ったより楽しかったかも」
「うん。私も」
妙子が笑った。
ほんの微かに。
口の端がわずかに持ち上がっただけの、見逃しそうな笑み。
河野はそれを見て、少し驚いたような顔をした。
そしてつられるように、自分も笑った。
「ありがとう、豊島さん」
「ううん。手伝ってくれて助かった」
河野が鞄を持って教室を出ていく。
扉が閉まった後も、妙子はしばらく掲示物を見つめていた。
マーカーのキャップを一本ずつ閉めながら、さっきの笑みの余韻を顔に残して。
僕はその横顔を、内側から焼きつけるように見ていた。
彼女が笑うことは少ない。
本当に少ない。
一日に一度あるかないかの、硬貨の裏表を当てるより難しい確率。
だからこそ、その一瞬が重い。
ひとりの人間がもう一人の人間の隣にいて、何も求めず、何も奪わず、ただ一緒に手を動かしただけで生まれた笑顔。
これを守りたいと思う。
この笑顔が消えないようにしたいと思う。
そのために僕は――。
生きることは、置いていくことだ。
その言葉が、ふいに頭の中に浮かんだ。
どこで読んだのか、誰が言ったのか、思い出せない。
だが、今の僕にはひどく正確に響いた。
僕は彼女を置いていけるだろうか。
それとも、彼女が僕を置いていくのだろうか。
どちらにせよ、いつか別れは来る。
妙子が強くなれば僕は要らなくなる。
僕がいなくなっても妙子は一人で歩き出せる。
そのどちらかしかない。
今の僕にできるのは、その日が来るまでに、彼女の足元に石を敷き詰めておくことだ。
一人で歩いても転ばないように。
倒れても起き上がれるように。
雨は少しずつ弱まっていた。
窓の外の空が、灰色の奥にほんのりと明るさを含み始めている。
◇◆◇
校門を出ると、雨はほとんど上がっていた。
アスファルトが濡れて光っている。
水たまりに映った空は灰色と橙色の境目で、雲の切れ間から夕陽の欠片がこぼれていた。
妙子は折り畳み傘を閉じ、鞄にしまった。
湿った空気が頬を撫でる。
さっきまでの雨の重さが嘘のように、風が軽かった。
ポケットの中でスマホが震えた。
取り出すと、画面に征人の名前が光っていた。
着信。
妙子の表情が変わった。
頬に薄く赤みが差し、目元が緩み、唇の端がそっと持ち上がる。
さっき河野に見せた笑みとは違う。
もっと無防備で、もっと脆い。
幸福が皮膚の下から滲み出すような、守りを全部脱ぎ捨てた顔。
彼女は電話に出た。
「もしもし……うん。うん、大丈夫。……ありがとう」
声が甘い。
言葉の端々に、すがるような響きがある。
征人が何を言っているのかは聞こえない。
だが、妙子が幸せそうなのは痛いほどわかった。
僕はその笑顔を見て、静かに目を閉じた。
彼女の幸福と僕の計画のあいだに横たわる距離を、雨上がりの風が音もなく広げていく。
――その笑顔を、僕はいつか奪わなければならない。
足元の水たまりが風で揺れた。
映っていた空が歪み、橙色の光が砕けて散った。




