3話:学級委員
昼下がりの教室は白い光に満ちていた。
窓際のカーテンが風に揺れるたび、光が机の上を波のように渡っていく。
六時間目が終わった後の空白の時間。
教室にはまだ帰らない数人の生徒が残っていたが、それぞれ自分の用事に没頭していて、こちらを気にする者はいない。
妙子はプリントの束を前にして固まっていた。
体育祭の参加種目アンケート。
回収したクラス全員分を集計し、種目ごとの人数を調整して担任に提出する。
学級委員の仕事だ。
紙の束を数えて、チェックをつけていく。
それだけの単純な作業なのに、指先が何度も止まった。
昨日の疲れのせいだろうか。
カラオケで笑っていた自分が、まるで他人のように遠い。
思い出そうとすると記憶の輪郭がぼやけて、自分が何を話したのかうまく辿れない。
征人の笑顔だけがやけに鮮明で、それ以外は全部、水の底に沈んだ写真みたいだった。
胸の奥にまだ重たい何かが残っている。
「――遅い」
声がした。
低く、短く、教室の空気を一刀で断つような声。
妙子は背筋を跳ねさせて振り向いた。
国立奏が立っていた。
短く刈り込んだ黒髪がきっちり整えられ、姿勢は定規で引いたように真っすぐ。
ネクタイの結び目は正確に喉仏の下にある。
制服の乱れを許さない男。
その冷たい印象の顔立ちには感情の色がどこにも見当たらなかった。
学級委員のペア。
席替え以来、事務的なやりとりしかしたことがない。
「集計、まだ終わってないのか。締切は昨日だよ」
声量が大きいわけではない。
だが、響きが違う。
体育会系の腹から出す発声。
壁に跳ね返って耳の奥まで届く。
妙子の喉が詰まった。
「ご、ごめんなさい。昨日……ちょっと、用事があって」
「用事って、言い訳にならないだろ。こういうの溜めると後が詰まるんだよ」
奏はプリントの束に目を落とし、短くため息をついた。
苛立ちを隠す気もない、まっすぐな不満。
征人のように笑顔でくるまれた言葉ではなかった。
剥き出しの刃物。
切れ味が良すぎて痛みが遅れてくる。
「お前さ、集計だけじゃなくて、種目の人数調整もやらなきゃいけないの、わかってる? リレーは人が余ってて、借り物競争は足りてない。このまま出したら突き返されるぞ」
「あ……はい。ごめんなさい」
「謝るんじゃなくて、手を動かせよ。残ってるの何枚だ?」
声が大きい。
怒鳴っているわけではない。
ただ、この男の通常音量が妙子にとっては暴風なのだ。
身体が強張っていく。
肩が上がり、首が縮み、視線が落ちる。
声を出そうとするたびに喉の奥で言葉が砂のように崩れた。
こうなると駄目だ。
頭では返事をしなければと思っている。
思っているのに、口が動かない。
奏が眉を寄せた。
「豊島? 聞いてるか?」
「…………」
聞いている。
聞いているのに、声が出ない。
大きな声。
鋭い視線。
正しいことを正しい口調で突きつけてくる男。
妙子の中で古い回路がショートする。
声の大きい男は、怖い。
理由なんて要らない。
身体が覚えている。
耳の奥でがなり立てる男の声。
逃げ場のない部屋。
煙草の匂い。
怒声の後に必ず来る、赤い光。
奏はそんな男とはまるで違う。
わかっている。
わかっているのに、妙子の身体は正確に恐怖を再生する。
僕は彼女の内側から、その硬直を見ていた。
心拍数が上がっている。
呼吸が浅い。
指先が白くなるほどプリントを握りしめている。
このまま放っておけば、彼女は泣くか、逃げるか、どちらかだろう。
――いい。
代わるよ。
僕は静かに手を伸ばした。
彼女の意識の表層に触れる。
妙子の瞳から光が一瞬だけ消え、すぐに別の色が灯った。
背筋が伸びた。
肩の力が抜けた。
呼吸が深くなった。
人格交代。
外から見れば、俯いていた少女がふと顔を上げただけのこと。
だが僕にとっては、観客席から舞台に上がる瞬間だ。
「――十二枚残ってる。リレーが三人超過、借り物競争が二人不足。大縄は希望通りで問題ない」
声が変わっていた。
妙子より半音低く、語尾に震えがない。
奏が目を見開いた。
「……今、全部数えたのか?」
「さっきから見てたからね。妙――私が数えてる間に、大体把握してた」
危うく妙子と呼びかけた。
咄嗟に言い直す。
奏は一瞬、何かを感じ取ったようだった。
だが追及はしなかった。
代わりにプリントの束を手に取り、僕の集計と突き合わせ始める。
「……合ってるな」
「リレーの超過分は本人に確認取ったほうが早い。嫌々エントリーしてる人が何人かいるから、借り物競争に回してもらえないか打診する。放課後に残ってる人がいれば今日中に片付く」
「そこまで考えてたのか」
奏の眉が微かに動いた。
驚きとも感心ともつかない表情。
僕は内心でほんの少しだけ笑った。
妙子にできないことが、僕にはできる。
それは優劣の問題ではない。
彼女が怯えている間に、僕が見ていたものが違うだけだ。
彼女がプリントの文字の滲みに気を取られている間、僕は数字の配列とクラスの力関係を頭の中で組み立てていた。
借り物の身体。
借り物の立場。
だが仕事の手際だけは、紛れもなく僕自身のものだ。
奏が席に着き、僕と向かい合った。
二人で手分けして集計表を清書する。
僕がアンケートを読み上げ、奏が表計算ソフトに入力していく。
作業は淡々と進んだ。
奏は無駄口を叩かない男だった。
必要なことだけを短い言葉で伝え、判断が速い。
曖昧な返事をすると即座に確認を入れてくる。
隙がない。
嫌いじゃないな、と僕は思った。
こういう、真っすぐに仕事をする人間は信用できる。
征人のように笑顔の裏に別の顔を隠す男とは根本が違う。
「リレーの第三走者、候補が二人いるけど、どっちがいいと思う?」
奏が画面を見せてきた。
僕は一瞥して答えた。
「足が速いのは山崎くんだけど、バトンパスの練習に来てたのは西川くんのほうだった。本番で落とすリスクを考えたら西川くんかな」
「練習の出欠まで見てたのか」
「見てたというか……まあ、見えてた」
嘘ではない。
妙子が体育の授業を見学している間、僕は内側からグラウンドを観察していた。
走る必要のない時間は、観察に充てる。
それが僕の日常だ。
奏は少しの間、僕の顔を見つめていた。
探るような、測るような視線。
やがて小さく頷いた。
「お前、やればできるじゃん」
その一言は、褒め言葉というより事実確認の響きだった。
感情を乗せない、乾いた肯定。
だからこそ信用できた。
集計表が完成したのは五時を過ぎた頃だった。
窓の外の空が橙色に染まり始めている。
教室には僕たちの他に誰もいなくなっていた。
奏がプリントをファイルに挟み、鞄に入れる。
僕も荷物をまとめた。
廊下に出ると、夕方の光が長い影を引いていた。
渡り廊下の窓から見えるグラウンドでは、サッカー部が練習をしている。
その中に征人の姿があった。
仲間と笑い合いながらボールを蹴っている。
屈託のない、いつもの彼。
僕はその姿を横目で見送り、歩き続けた。
「豊島」
背後から奏の声がかかった。
振り向くと、奏は少し離れた場所に立っていた。
夕陽の逆光で表情は読み取れない。
黒い髪の輪郭だけが金色に縁取られている。
「明日もよろしく。種目調整の最終確認、放課後に時間取れるか?」
「うん。大丈夫」
僕はそう答えて、軽く手を上げた。
奏は小さく頷き、反対方向へ歩いていった。
その背中を見送りながら、僕の中で何かが微かに震えた。
既視感。
どこかで、この声を聞いたことがある。
この距離感で、この響きで、名前を呼ばれたことがある。
いつ? どこで?
記憶の底を探っても、像は結ばない。
水面に落とした石のように、波紋だけが広がって消えていく。
◇◆◇
夜の部屋は静かだった。
蛍光灯は消えていて、スマホの画面だけが白く光っている。
その光が壁を照らし、薄い影を揺らしていた。
カーテンの隙間から見える街灯が、ぼんやりとした橙色の輪をつくっている。
ベッドの上で、妙子はスマホを胸の前に持ち上げた。
通知がひとつ。
征人からだった。
『今日の君、可愛かったよ』
心臓が跳ねた。
顔が熱くなる。
唇が自然に緩んで、手のひらが汗ばんでスマホの画面が滑った。
こんなふうに言われたのは初めてだった。
誰かが自分を可愛いと呼ぶことも、君と呼ぶこともなかった十六年間。
その空白を、たった一行のメッセージが埋めていく。
なのに、心のどこかが冷たい。
指先で返信を打とうとして、やめた。
打ちかけた「ありがとう」の文字が、送信される前に消えていく。
嬉しいはずなのに、胸の奥に小さな棘が刺さっている。
カラオケの記憶がまた霞む。
征人の顔だけが鮮明で、それ以外が全部遠い。
今日だって、学級委員の仕事をしていたはずなのに、途中からの記憶が曖昧だった。
気がついたら集計表は完成していて、奏に「明日もよろしく」と言われていた。
あの冷たい顔の男が、少しだけ柔らかい声を出した気がする。
気のせいかもしれない。
妙子は左腕を見た。
スマホの光が薄く照らす皮膚の凹凸。
吸盤のように引きつった火傷の痕。
爪の先でそっとなぞると、そこだけ感覚が鈍い。
それなのに確かに痛かった。
記憶の底で何かが焦げつく音がする。
手を引っ込めた。
長袖の裾を指先で摘んで、隠す。
いつもの動作。
征人は、この痕を知らない。
知ってほしいとも思わない。
ただ笑ってほしいだけだ。
可愛いと言ってほしいだけだ。
それだけのことなのに、どうしてこんなに怖いのだろう。
スマホが震えた。
もう一通。
『おやすみ』
妙子はそっと息を吐いた。
画面を伏せ、光を消す。
真っ暗な部屋の中で白馬の残像だけが瞼の裏に残っていた。
光の形をして、影のように。
その影の向こう側で、僕は天井を見上げていた。
妙子が眠りに落ちるまでの僅かな時間。
それだけが僕に許された自分の時間だ。
今日、奏と仕事をした。
あの男は嘘がつけない。
正しさに対して愚直で、だから煙たがられる。
妙子は怖がっていたが、僕には心地よかった。
真っすぐなものは、たとえ鋭くても信用できる。
「明日もよろしく」。
あの声が、まだ耳の奥に残っている。
どこかで聞いた声だ。
どこで? いつ?
記憶を辿ろうとすると、雨の音がする。
激しい雨と、暗い水の流れと、誰かの手を掴んだ感触。
それ以上は思い出せない。
妙子の寝息が深くなっていく。
僕は暗闇の中で、静かに目を閉じた。
明日、もう一度あの男と話そう。
計画のためだ。
奏を妙子の新しい支えにするために、信頼関係を築かなければならない。
そのためだ。
――そのためだけだ。
自分にそう言い聞かせながら、僕はまだ消えない声の残響を、胸の奥にしまい込んだ。




