2話:仮面舞踏
鏡に映っているのは僕ではない。
カラオケボックスの廊下、すれ違いざまに壁のガラスが捉えた横顔。
黒髪のストレートロング、焦げ茶の瞳、血色の薄い唇。
どこからどう見ても十六歳の少女だ。
その少女の内側に、僕はいる。
彼女の目で見て、彼女の耳で聞いて、彼女の口で喋る。
借りものの身体。
借りものの人生。
けれど今この瞬間、手綱を握っているのは僕だ。
妙子は最近、表に出てこなくなった。
征人と二人きりになるのが怖いのだ。
好きなくせに怖い。
嫌われるのが怖い。
触れられるのが怖い。
その癖、触れられないことはもっと怖い。
恋というやつは面倒な回路をしている。
僕にはわからない感覚だ。
少なくとも、この身体の中で男の自認を抱えている限り、征人の笑顔に心臓を跳ねさせる機能は搭載されていない。
だから僕が出る。
彼女の代わりに笑い、彼女の代わりに頷き、彼女の代わりに征人の隣に座る。
人形遣いのいない人形芝居。
観客はたった一人、町田征人。
幕が上がる。
◇◆◇
個室の扉が閉まると、空気が変わった。
カラオケボックス特有の人工的な冷気が密閉された空間の上を浅く滑っている。
モニターには恋愛ソングのMVが流れ、やけに明るい照明が肌の陰影を消していた。
殺菌灯のような白い光。
ここでは誰もが等しく作りものに見える。
「ねえ、知ってる? これ、映画の主題歌だったんだよ」
征人がリモコンを操作しながら言った。
声のトーンは完璧だ。
軽くて、優しくて、どこか頼りがいのある響き。
教室で女子たちが色めき立つのも無理はない。
音声だけなら百点満点の恋人だろう。
彼はわざと少し体を傾け、僕の――いや、彼女の表情を覗き込む。
その視線が肌の上を這った。
蟻が一列に歩いているような、小さくて不快な感触。
「へえ、そうなんだ。……歌ってみれば?」
僕の声は妙子の喉を通して出ていく。
普段の彼女よりも半音だけ低い。
妙子なら語尾が震えるところを、僕は平坦に流す。
征人はそれを照れ隠しの冗談だと受け取ったらしい。
「じゃあ、デュエットにする?」
軽く笑いながらマイクを差し出してくる。
その手の爪は短く整えられ、指先の皮膚は白く乾いていた。
サッカーで焼けた腕との境目がくっきりしている。
清潔感の演出。
こいつは指先まで計算する男だ。
僕はマイクを受け取り、画面に目を向けた。
モニターの中の恋人たちが雨の街で抱き合っている。
作りものの愛。
作りものの涙。
この部屋にある全てのものと同じだ。
征人がマイクを握り、甘い声を伸ばす。
上手い。
少なくとも聞かせることを知っている喉だ。
歌の途中で視線をこちらに寄越し、まるで「君のために歌っている」と言わんばかりの顔をする。
サビの高音で少しだけ声が裏返り、照れたように笑う。
あれも計算だろう。
完璧な歌より、ほんの少しの綻びのほうが心に残ることを、こいつは知っている。
その姿を眺めながら、僕は冷めたドリンクを一口飲んだ。
炭酸の泡が舌の上で弾ける。
まるで誰かの嘘みたいに軽い味だった。
「ねえ、妙子」
歌い終わった征人が僕の名を呼んだ。
――僕の名ではない。
彼女の名だ。
「この曲、似合うと思う。お前の声、優しいし」
柔らかい笑顔。
表面だけを撫でるような言葉。
その目の奥にほんの少しだけ退屈が滲んでいるのを、僕は見逃さなかった。
飼い慣らした獲物に餌を放る飼育員の目。
新鮮味を失いかけている。
そろそろ次の手を打ってくるだろう。
「そうかな? ありがとう」
声を出すたび、喉の奥に違和感が走る。
僕の声ではない。
彼女の声だ。
それを借りて、僕は征人と話している。
女の声で男に甘い言葉を返す。
その滑稽さに吐き気がする。
道化師が鏡の前で化粧を塗り直すような、救いのない反復。
だが、仕方がない。
これが僕の役目だ。
予想通り、征人はテーブルの上に手を置き、そのまま僕の手の甲へと滑らせた。
動作は自然で計算されている。
段取りを踏んだ接触。
まず手、次に肩、その次は――。
彼の体温が伝わってくる。
柔らかくて、熱い。
だが、その熱の奥には別の温度がある。
支配。
触れることで相手を自分の領域に取り込む技術。
教科書に載せたいくらい典型的な手口だった。
僕は微かに息を詰め、すぐに笑顔を作った。
拒まない。
ただ、静かに引く。
それだけでいい。
触れさせておいて芯は渡さない。
水面に浮かぶ葉のように、沈まず、掴ませず。
征人の笑みがほんの少しだけ歪んだ。
「どうしたの?」
「……なんでもないよ。ちょっと炭酸がきつくて」
当たり障りのない言葉。
征人は簡単に信じた。
いや、信じたふりをした。
この男は優しさを手段として使っている。
言葉も、笑顔も、仕草も、誰かを自分の掌に収めるための道具にすぎない。
音楽が止まり、短い沈黙が落ちた。
モニターの画面が暗転し、ガラスのように黒い表面に二人の姿が映り込む。
征人と、妙子の顔をした僕。
並んで座った影絵。
征人の手がまた伸びた。
今度は肩に回してくる。
引き寄せるように、所有するように。
香水の甘い匂いが鼻腔を刺した。
背筋に冷たいものが走る。
嫌悪ではない。
もっと原始的な拒絶反応。
この身体に刻まれた記憶が、男の腕に囲まれることを恐がっている。
妙子の身体が覚えている恐怖だ。
僕のものではない。
だが、同じ神経を使っている以上、信号は容赦なく届く。
――大丈夫だ。
僕は心の中で呟いた。
彼女に向けて。
届かないとわかっている独り言。
――お前は出てこなくていい。
僕がやる。
こんなもの、僕が引き受ける。
妙子は答えない。
彼女は僕の声を知らない。
ここにもう一人の誰かがいることを、知らないまま眠っている。
征人の腕の中で、僕は笑顔を保った。
肩に触れる指の圧を意識から切り離し、呼吸を整える。
これは芝居だ。
幕が下りるまで演じ切ればいい。
そのとき、テーブルの上で征人のスマホが震えた。
画面が一瞬だけ光る。
CHAINの通知。
ポップアップに表示された文面が、僕の目に飛び込んだ。
――『どこまでいった?w』
送信者の名前は征人の友人のものだった。
賭けの進捗確認。
たった一行の、軽薄な催促。
征人はすぐにスマホを裏返した。
「ごめん、通知切り忘れてた」と笑う。
その笑顔に一切の動揺はない。
完璧な隠蔽。
こいつは嘘をつくことに、もう慣れきっている。
僕は何も言わなかった。
ただ、その一行を記憶に刻んだ。
焼印のように。
消えない文字で。
◇◆◇
カラオケボックスを出ると、空には薄く雲がかかっていた。
夕暮れの残光が街灯に吸い込まれ、アスファルトの上にぼんやりと滲んでいる。
昼間の雨はすっかり上がり、湿った空気の底に遠雷の名残だけが漂っていた。
外に出た途端、僕は身体の主導権をそっと手放した。
妙子が戻ってくる。
瞼の裏で意識が入れ替わる感覚。
水面から浮かび上がるように、彼女が表に出る。
僕は奥へ沈んでいく。
「今日は楽しかったね」
征人が笑いながら言った。
声はいつも通り穏やかで、よく通る。
妙子は横を歩きながら小さく頷いた。
「うん……ありがとう」
彼の手が自然に彼女の指先へ伸びる。
触れた瞬間、心臓が跳ねた。
掌から熱が流れ込んでくる。
知らない生き物の体温みたいで、少し怖い。
それなのに振りほどけない。
振りほどいたら、この温もりが二度と戻ってこない気がして。
征人は気づかない。
優しく指を絡め、歩幅を合わせてくる。
街灯の光が瞳の中で揺れていた。
――優しい人だ。
妙子はそう思おうとした。
そう思いたかった。
なのに胸の奥がざわついて、呼吸が浅くなる。
理由のない不安。
根拠のない怖れ。
カラオケで過ごした時間の記憶がところどころ霞んでいて、自分が何を話したのかうまく思い出せない。
いつものことだ。
征人といると、時々こうなる。
楽しかったはずなのに、振り返ると輪郭がぼやけている。
まるで他人の夢を覗いたような感覚。
足元の水たまりに、二人の影が並んで映っていた。
揺れて、重なって、また離れる。
ほんのりとした煙草の残り香が風に乗って頬を撫でた。
妙子の身体がかすかに強張る。
古い記憶の断片が、一瞬だけ脊髄を走り抜けた。
赤い火の点。
白い皮膚に押し付けられる熱。
すぐに消えた。
征人の香水の匂いが、それを上書きする。
「どうしたの? 眠そうだな」
「ううん、なんでもない。……ほんとに楽しかったの」
妙子はそう言って笑った。
自分でも不思議なほど自然に。
その笑顔を見て、征人は満足げに頷いた。
僕はその光景を奥から見ていた。
同じ目で、同じ景色を。
だけど、僕が見ているものは違う。
征人の笑顔は歪んで見えた。
光の裏に影があるように。
その手の温もりは、彼女を守るためのものではない。
飽きるまで繋いで、飽きたら離す。
それだけの熱だ。
彼女の歩幅が小さくなり、征人の手に引かれてまた進む。
笑い声が夜風に溶けていく。
僕は彼女の意識の底で、静かに息をついた。
あの一行が、まだ網膜に焼きついている。
『どこまでいった?w』
たった十文字の、軽薄で残酷な問い。
これを妙子に見せることはできない。
見せれば壊れる。
硝子細工に石を投げるようなものだ。
だから、僕が壊す。
征人ではなく、僕の手で、僕のやり方で。
彼女を殺すための準備を、今夜から始めなければならない。
水たまりの上を風が渡り、二人の影が一瞬だけ震えた。
夜の帳が、静かに降りてくる。




