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とても遠くて、あり得ないほど近くに  作者: Jint


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22/23

22話:再会

 保健室の時計が、八時四十分を指していた。


 養護の先生は、私の話を途中で奪わなかった。五日間ほとんど食べられなかったことを告げると、病院と相談室の案内を机に並べた。どれを選ぶかは今すぐ決めなくていい、と言った。


 私は相談室のカードを一枚取った。

 国立くんはここにいない。

 誰にも言われていない。

 自分の指で選んだ、薄い紙。


 今日は保健室で休むこともできる。けれど私は、二時間目から教室へ行くと決めた。先生に付き添いを勧められたが、それは断った。


 廊下を一人で歩いた。

 教室に入った瞬間、空気が変わった。


 視線。

 いくつもの視線が、私に集まった。

 好奇。

 困惑。

 少しだけの同情。

 そして、無関心のふりをした関心。


 二週間ぶりの教室は、何も変わっていなかった。

 机の配置も、掲示板のプリントも、窓から見える校庭も。

 変わったのは私の中だけだ。


「あ、豊島さん。久しぶり」


 前の席の女子が声をかけてきた。

 探るような笑顔。

 「何があったの?」という質問を飲み込んだ笑顔。


「……うん。おはよう」


 私は小さく頭を下げて、自分の席に座った。

 鞄を机のフックにかける。

 教科書を出す。

 いつもの動作。

 でも、手が少し震えている。


 征人の席が視界の端に入った。


 征人はいなかった。

 まだ来ていないのか、遅刻なのか。

 正直に言えば、いなくてほっとした。

 征人の顔を見たら、体が動かなくなるかもしれない。


 国立くんは自分の席に座っていた。

 私が教室に入ったとき、一瞬だけ視線を向けて、すぐにノートに戻った。

 それだけ。

 特別な反応はしなかった。


 でも、その「特別な反応をしない」ことが、国立くんなりの配慮だと、なんとなくわかった。

 教室中の視線が私に集まっている中で、国立くんだけが普段通りに接してくれている。

 「お前が休んでたことは大したことじゃない」と態度で示してくれている。


 チャイムが鳴った。

 二時間目の授業が始まる。


 ◇◆◇


 午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 教師の声が遠い。

 黒板の文字がぼやける。

 でも、それは征人のせいじゃない。

 あのメッセージのせいだ。


 スマホは鞄の中にあるけれど、あのメッセージの一行一行が、頭の中をぐるぐると回っている。


 「僕は豊島妙子じゃない。妙子の中にいる、名前のない誰かだ」


 この教室で、国立くんと学級委員の仕事をしていたとき。

 体育祭の準備で走り回っていたとき。

 あれは私じゃなかった。

 私の体を使って、「別の誰か」が動いていた。


 あのメッセージは「お前の親友より」で終わっていた。

 国立くんが友達だと思っていたのは、私ではなく、あの「誰か」だったのかもしれない。


 ……今の私を見て、国立くんはどう思っているんだろう。


 あの「誰か」は、きっと国立くんと同じ速さで考え、同じ目線で話せたのだろう。

 私にはそれができない。

 私は相手の顔色を読みながら、一拍遅れて返事をする。

 合わせてしまう。

 気を遣ってしまう。


 がっかりしているだろうか。

 「別人だ」と思っているだろうか。


 二時間目と三時間目の間の休み時間。

 征人が教室に入ってきた。


 遅刻だった。

 だるそうな足取りで席に着き、鞄を投げるように置いた。

 友人が声をかけている。

 征人は笑っている。

 いつも通りの笑顔。


 征人は私の方を見なかった。

 完全に、存在しないものとして扱っている。


 胸が痛んだ。


 馬鹿だ。

 わかっている。

 征人は、三千円の賭けを「友達が勝手に騒いだだけ」と言った。私の傷を話したことも「説明しただけ」だと。

 それを知っていても、心臓が勝手に反応する。

 あの人に好きだと言ってもらえたときの記憶が、まだ体に染みついている。

 恋は頭で消せない。

 体が覚えている。


 でも、少しだけ。

 ほんの少しだけ。

 前より痛くない。


 保健室で先生に言われたからかもしれない。

 「悪気があったかどうかと、傷つけられたことは別です」。

 征人が認めなくても、私が傷ついた事実まで消えるわけではない。


 事実は変わらない。

 でも、受け止め方が変わった。


 ◇◆◇


 昼休み。


 私は教室の隅で、国立くんがくれたおにぎりを食べていた。

 ツナマヨ。

 朝は食べられなかったから、今食べている。

 冷めていたけれど、おいしかった。


 国立くんが、私の席に来た。


 自分の弁当を持って。

 何も言わずに、隣の空いている席に座った。


「……ここ、座っていい?」

「俺が座ってから聞くな」


 国立くんの角のある言い方。

 でも、座ったこと自体が答えだ。


 二人で黙って食べた。

 国立くんは弁当箱を開け、黙々と箸を動かしている。

 私はおにぎりの残りを噛んでいる。


 沈黙が苦しくなかった。

 不思議と。

 国立くんがおにぎりを届けに来てくれた一週間で、沈黙に慣れたのかもしれない。

 何も言わなくても、隣にいること自体が意味を持つ時間がある。


「……国立くん」

「ん」

「あの、メッセージ……読んだ?」


 聞かずにはいられなかった。

 スマホに残っていた、あの最後の言葉。

 奏に宛てられたもの。

 国立くんは読んだはずだ。


 国立くんの箸が止まった。

 数秒間、弁当箱を見つめていた。

 それから、顔を上げずに答えた。


「読んだ」


 一言。

 だが、箸を持つ指が、ほんの少しだけ強張っていた。


「……どう、思った?」


 国立くんがようやく顔を上げた。

 目の下に薄い隈があった。

 この十日間、眠れていないのかもしれない。

 私の目を見た。

 そして、じっくりと時間をかけて、私の顔を見た。

 探るように。

 確認するように。

 ――何かを、失くしたものを探すように。


 国立くんが見ているのは、私だ。

 豊島妙子。

 あの「誰か」ではない、本来の私。

 控えめで、声が小さくて、目線が下がりがちな、私。


「信じるか信じないかは、まだわからない」


 国立くんの声は慎重だった。


「ただ……辻褄は合う。全部」


 辻褄。

 国立くんらしい言い方だった。

 感情ではなく論理で処理しようとしている。


「お前がたまに別人みたいになること。記憶が飛ぶこと。借り物競争の日のこと。あの嵐の夜のこと」


 国立くんの目が、一瞬だけ遠くなった。

 三年前の夜を思い出しているのだろう。

 橋の上。

 のぼり。

 暗闇の中で差し伸べられた手。


「あの夜、俺を助けてくれたのが……お前の中にいた誰かだとしたら。辻褄は合う」


 国立くんの声が、最後だけ掠れた。

 辻褄。その言葉で感情を閉じ込めようとして、閉じきれていなかった。

 国立くんが弁当箱を閉じた。


「でも、今、俺の前にいるのはお前だ。豊島妙子。……それだけは確かだ」


 その言葉が、私の中に沁みた。


 国立くんは、あの「誰か」の親友だった。

 あの「誰か」がいなくなって、残ったのは私だけ。

 国立くんが好ましいと思っていた「豊島」は、もういない。

 代わりに、こんな頼りない私がいる。


 それでも国立くんは、今の私を見てくれている。


「ありがとう、国立くん」

「何もしてない」

「してるよ。毎日来てくれた。おにぎり持って」

「あれは学級委員の相方が欠席してると、俺の持ちが増えるからだ」

「嘘つき」

「事実だ」


 少しだけ、笑えた。

 教室で笑うのは、二週間ぶりだった。


 国立くんは笑わなかった。

 でも、口元がほんのわずかに緩んだ。


 ◇◆◇


 放課後。


 国立くんと少しだけ教室に残った。

 プリントの整理。

 期末テストの範囲表と、提出物のチェック。

 学級委員の仕事だ。


 以前の「誰か」がやっていた仕事を、今は私一人でやっている。

 ……正確には、国立くんと二人で。

 でも、あの「誰か」がやっていたような手際の良さは、私にはない。


「これ、日付順に並べて」

「えっと……日付って、提出日? それとも配布日?」

「配布日。提出日は上にメモしてある」

「あ、本当だ。ごめん……」

「謝んな。確認するのは普通だ」


 国立くんの指示は明確で、私が迷ったらすぐに答えてくれた。

 以前の「誰か」は指示がなくても動けたのだろう。

 私はひとつずつ聞かなければわからない。

 それでも、国立くんは苛立つ素振りを見せなかった。


 作業をしながら、国立くんの横顔を見た。


 まっすぐな目。

 きつい眉。

 でも、時々ふっと力が抜ける瞬間がある。

 プリントの束を揃えるとき、無意識に唇を薄く結ぶ癖。


 この人は、あの「誰か」を親友だと思っていた。

 今はその親友がいなくなって、代わりに私がいる。


「国立くん」

「ん」

「あの人のこと……私の中にいた人のこと。あの人は、どんな人だった?」


 国立くんの手が止まった。

 プリントを持ったまま、少しの間黙っていた。


「……今はまだ、うまく言えない」


 国立くんの声には、珍しく迷いがあった。


「ただ、あいつは……お前のことを、大事にしてた。それだけは確かだ」


 私のことを。

 知らない「私」を。

 ずっと、私の内側から、私を守り続けてくれた。


 涙が出そうになった。

 堪えた。

 教室で泣くわけにはいかない。


「……そっか」


 それだけ言って、プリントの整理に戻った。


 帰り道。

 分かれ道で国立くんと別れた。


「じゃあ、また明日」

「ああ」


 国立くんが左の道へ。

 私が右の道へ。


 国立くんの背中を見送りながら、気づいた。


 国立くんが「また明日」に「ああ」と答えた。

 当たり前のこと。

 でも、「明日もいる」という確認を、何気なく返してくれたこと自体が。


 私は右の道を歩いた。


 夕日が赤い。

 空が広い。

 風がある。


 一人で歩いている。

 頭の中にも一人。

 でも、明日、国立くんが学校にいる。

 「ああ」と答えてくれる人がいる。


 それだけで、足が前に出る。


 あの「誰か」が見ていた夕日を、私は今、同じ目で見ている。

 同じ目。

 同じ空。

 でも、見ている人間が違う。


 「国立くん」と私は呼ぶ。あの「誰か」は「奏」と呼んでいた。


 いつか、私も呼べるだろうか。

 その名前を。


 まだわからない。

 でも、いつか。


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