22話:再会
保健室の時計が、八時四十分を指していた。
養護の先生は、私の話を途中で奪わなかった。五日間ほとんど食べられなかったことを告げると、病院と相談室の案内を机に並べた。どれを選ぶかは今すぐ決めなくていい、と言った。
私は相談室のカードを一枚取った。
国立くんはここにいない。
誰にも言われていない。
自分の指で選んだ、薄い紙。
今日は保健室で休むこともできる。けれど私は、二時間目から教室へ行くと決めた。先生に付き添いを勧められたが、それは断った。
廊下を一人で歩いた。
教室に入った瞬間、空気が変わった。
視線。
いくつもの視線が、私に集まった。
好奇。
困惑。
少しだけの同情。
そして、無関心のふりをした関心。
二週間ぶりの教室は、何も変わっていなかった。
机の配置も、掲示板のプリントも、窓から見える校庭も。
変わったのは私の中だけだ。
「あ、豊島さん。久しぶり」
前の席の女子が声をかけてきた。
探るような笑顔。
「何があったの?」という質問を飲み込んだ笑顔。
「……うん。おはよう」
私は小さく頭を下げて、自分の席に座った。
鞄を机のフックにかける。
教科書を出す。
いつもの動作。
でも、手が少し震えている。
征人の席が視界の端に入った。
征人はいなかった。
まだ来ていないのか、遅刻なのか。
正直に言えば、いなくてほっとした。
征人の顔を見たら、体が動かなくなるかもしれない。
国立くんは自分の席に座っていた。
私が教室に入ったとき、一瞬だけ視線を向けて、すぐにノートに戻った。
それだけ。
特別な反応はしなかった。
でも、その「特別な反応をしない」ことが、国立くんなりの配慮だと、なんとなくわかった。
教室中の視線が私に集まっている中で、国立くんだけが普段通りに接してくれている。
「お前が休んでたことは大したことじゃない」と態度で示してくれている。
チャイムが鳴った。
二時間目の授業が始まる。
◇◆◇
午前中の授業は、ほとんど頭に入らなかった。
教師の声が遠い。
黒板の文字がぼやける。
でも、それは征人のせいじゃない。
あのメッセージのせいだ。
スマホは鞄の中にあるけれど、あのメッセージの一行一行が、頭の中をぐるぐると回っている。
「僕は豊島妙子じゃない。妙子の中にいる、名前のない誰かだ」
この教室で、国立くんと学級委員の仕事をしていたとき。
体育祭の準備で走り回っていたとき。
あれは私じゃなかった。
私の体を使って、「別の誰か」が動いていた。
あのメッセージは「お前の親友より」で終わっていた。
国立くんが友達だと思っていたのは、私ではなく、あの「誰か」だったのかもしれない。
……今の私を見て、国立くんはどう思っているんだろう。
あの「誰か」は、きっと国立くんと同じ速さで考え、同じ目線で話せたのだろう。
私にはそれができない。
私は相手の顔色を読みながら、一拍遅れて返事をする。
合わせてしまう。
気を遣ってしまう。
がっかりしているだろうか。
「別人だ」と思っているだろうか。
二時間目と三時間目の間の休み時間。
征人が教室に入ってきた。
遅刻だった。
だるそうな足取りで席に着き、鞄を投げるように置いた。
友人が声をかけている。
征人は笑っている。
いつも通りの笑顔。
征人は私の方を見なかった。
完全に、存在しないものとして扱っている。
胸が痛んだ。
馬鹿だ。
わかっている。
征人は、三千円の賭けを「友達が勝手に騒いだだけ」と言った。私の傷を話したことも「説明しただけ」だと。
それを知っていても、心臓が勝手に反応する。
あの人に好きだと言ってもらえたときの記憶が、まだ体に染みついている。
恋は頭で消せない。
体が覚えている。
でも、少しだけ。
ほんの少しだけ。
前より痛くない。
保健室で先生に言われたからかもしれない。
「悪気があったかどうかと、傷つけられたことは別です」。
征人が認めなくても、私が傷ついた事実まで消えるわけではない。
事実は変わらない。
でも、受け止め方が変わった。
◇◆◇
昼休み。
私は教室の隅で、国立くんがくれたおにぎりを食べていた。
ツナマヨ。
朝は食べられなかったから、今食べている。
冷めていたけれど、おいしかった。
国立くんが、私の席に来た。
自分の弁当を持って。
何も言わずに、隣の空いている席に座った。
「……ここ、座っていい?」
「俺が座ってから聞くな」
国立くんの角のある言い方。
でも、座ったこと自体が答えだ。
二人で黙って食べた。
国立くんは弁当箱を開け、黙々と箸を動かしている。
私はおにぎりの残りを噛んでいる。
沈黙が苦しくなかった。
不思議と。
国立くんがおにぎりを届けに来てくれた一週間で、沈黙に慣れたのかもしれない。
何も言わなくても、隣にいること自体が意味を持つ時間がある。
「……国立くん」
「ん」
「あの、メッセージ……読んだ?」
聞かずにはいられなかった。
スマホに残っていた、あの最後の言葉。
奏に宛てられたもの。
国立くんは読んだはずだ。
国立くんの箸が止まった。
数秒間、弁当箱を見つめていた。
それから、顔を上げずに答えた。
「読んだ」
一言。
だが、箸を持つ指が、ほんの少しだけ強張っていた。
「……どう、思った?」
国立くんがようやく顔を上げた。
目の下に薄い隈があった。
この十日間、眠れていないのかもしれない。
私の目を見た。
そして、じっくりと時間をかけて、私の顔を見た。
探るように。
確認するように。
――何かを、失くしたものを探すように。
国立くんが見ているのは、私だ。
豊島妙子。
あの「誰か」ではない、本来の私。
控えめで、声が小さくて、目線が下がりがちな、私。
「信じるか信じないかは、まだわからない」
国立くんの声は慎重だった。
「ただ……辻褄は合う。全部」
辻褄。
国立くんらしい言い方だった。
感情ではなく論理で処理しようとしている。
「お前がたまに別人みたいになること。記憶が飛ぶこと。借り物競争の日のこと。あの嵐の夜のこと」
国立くんの目が、一瞬だけ遠くなった。
三年前の夜を思い出しているのだろう。
橋の上。
のぼり。
暗闇の中で差し伸べられた手。
「あの夜、俺を助けてくれたのが……お前の中にいた誰かだとしたら。辻褄は合う」
国立くんの声が、最後だけ掠れた。
辻褄。その言葉で感情を閉じ込めようとして、閉じきれていなかった。
国立くんが弁当箱を閉じた。
「でも、今、俺の前にいるのはお前だ。豊島妙子。……それだけは確かだ」
その言葉が、私の中に沁みた。
国立くんは、あの「誰か」の親友だった。
あの「誰か」がいなくなって、残ったのは私だけ。
国立くんが好ましいと思っていた「豊島」は、もういない。
代わりに、こんな頼りない私がいる。
それでも国立くんは、今の私を見てくれている。
「ありがとう、国立くん」
「何もしてない」
「してるよ。毎日来てくれた。おにぎり持って」
「あれは学級委員の相方が欠席してると、俺の持ちが増えるからだ」
「嘘つき」
「事実だ」
少しだけ、笑えた。
教室で笑うのは、二週間ぶりだった。
国立くんは笑わなかった。
でも、口元がほんのわずかに緩んだ。
◇◆◇
放課後。
国立くんと少しだけ教室に残った。
プリントの整理。
期末テストの範囲表と、提出物のチェック。
学級委員の仕事だ。
以前の「誰か」がやっていた仕事を、今は私一人でやっている。
……正確には、国立くんと二人で。
でも、あの「誰か」がやっていたような手際の良さは、私にはない。
「これ、日付順に並べて」
「えっと……日付って、提出日? それとも配布日?」
「配布日。提出日は上にメモしてある」
「あ、本当だ。ごめん……」
「謝んな。確認するのは普通だ」
国立くんの指示は明確で、私が迷ったらすぐに答えてくれた。
以前の「誰か」は指示がなくても動けたのだろう。
私はひとつずつ聞かなければわからない。
それでも、国立くんは苛立つ素振りを見せなかった。
作業をしながら、国立くんの横顔を見た。
まっすぐな目。
きつい眉。
でも、時々ふっと力が抜ける瞬間がある。
プリントの束を揃えるとき、無意識に唇を薄く結ぶ癖。
この人は、あの「誰か」を親友だと思っていた。
今はその親友がいなくなって、代わりに私がいる。
「国立くん」
「ん」
「あの人のこと……私の中にいた人のこと。あの人は、どんな人だった?」
国立くんの手が止まった。
プリントを持ったまま、少しの間黙っていた。
「……今はまだ、うまく言えない」
国立くんの声には、珍しく迷いがあった。
「ただ、あいつは……お前のことを、大事にしてた。それだけは確かだ」
私のことを。
知らない「私」を。
ずっと、私の内側から、私を守り続けてくれた。
涙が出そうになった。
堪えた。
教室で泣くわけにはいかない。
「……そっか」
それだけ言って、プリントの整理に戻った。
帰り道。
分かれ道で国立くんと別れた。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
国立くんが左の道へ。
私が右の道へ。
国立くんの背中を見送りながら、気づいた。
国立くんが「また明日」に「ああ」と答えた。
当たり前のこと。
でも、「明日もいる」という確認を、何気なく返してくれたこと自体が。
私は右の道を歩いた。
夕日が赤い。
空が広い。
風がある。
一人で歩いている。
頭の中にも一人。
でも、明日、国立くんが学校にいる。
「ああ」と答えてくれる人がいる。
それだけで、足が前に出る。
あの「誰か」が見ていた夕日を、私は今、同じ目で見ている。
同じ目。
同じ空。
でも、見ている人間が違う。
「国立くん」と私は呼ぶ。あの「誰か」は「奏」と呼んでいた。
いつか、私も呼べるだろうか。
その名前を。
まだわからない。
でも、いつか。




