23話:傷の名前
学校に戻って三日が経った。
期末テストは、保健室の隣の別室で受けた。
少しずつ、日常が戻ってきている。
朝起きて、顔を洗って、制服を着て、学校に行く。
授業を受けて、昼休みにおにぎりを食べて、放課後に学級委員の仕事をして、帰る。
普通の毎日。
普通の日常。
でも、以前の私とは違う。
以前の私は、この普通の日常さえ怖くて、うつむいて、誰とも目を合わせず、教室の隅で小さくなっていた。
今もうつむくことはある。
目を合わせられないこともある。
小さくなることもある。
でも、朝、校門の前を通るとき、国立くんが教室にいると知っている。
それだけで、足が前に出る。
◇◆◇
四日目の放課後。
学級委員の仕事が終わって、国立くんと二人で教室に残っていた。
プリントの整理が終わり、机の上を片付けている。
窓の外は夕焼け。
七月の終わり。
もうすぐ夏休みだ。
「国立くん」
「ん」
「少し、話してもいい?」
国立くんが手を止めて、こちらを見た。
「話ってのは」
「……私のことを、少し」
国立くんは椅子に深く座り直した。
聞く体勢だった。
何も聞き返さない。
「何の話?」とも「どうした?」とも言わない。
ただ、聞く用意がある、と態度で示してくれている。
あの「誰か」のメッセージを読んでから、ずっと考えていた。
あの人は、私のために消えた。
私を守るために生まれ、自分がどうなるかわからないまま、それでも私が歩き出す方を望んだ。
あの「誰か」が守ろうとしたものを、私は自分の手で守らなければいけない。
もう、誰かに壁になってもらうわけにはいかない。
自分と向き合わなければいけない。
制服の袖を見た。
長袖のブラウス。
七月なのに。
みんなは半袖に衣替えしている。
私だけ、長袖。
「私、腕に傷があるの」
声が震えた。
喉が詰まった。
でも、言った。
国立くんは黙っていた。
「火傷。昔のこと。小さい頃に……」
言葉が途切れた。
全部を話す勇気はまだない。
楓都のこと。
タバコのこと。
母が見て見ぬふりをしたこと。
それを一度に話すには、まだ私は弱すぎる。
だから、断片だけ。
今、言えることだけ。
「……腕だけじゃないの。背中にも、お腹にも。だから、半袖が着れない。体育の時間が怖い。プールがある季節になると、見学届を出すの」
国立くんは何も言わなかった。
怖かった。
国立くんの反応が怖かった。
同情されるのも怖い。
引かれるのも怖い。
「大変だったな」と言われるのも、「見せてみろ」と言われるのも、全部怖い。
征人は、私の傷を見た。
最初は「気にしない」と言ってくれた。
優しかった。
でも、結局は傷のことを友達に話し、「タコ女」という呼び名が生まれても止めなかった。
国立くんが口を開いた。
「そうか」
それだけだった。
同情もしなかった。
引きもしなかった。
「大変だったな」とも「見せてみろ」とも言わなかった。
ただ、「そうか」。
事実を受け止めた。
それ以上でも以下でもなく。
涙が出そうになった。
今度は堪えなかった。
少しだけ、目尻から溢れた。
「……ごめん、泣いて」
「謝んな」
「でも……」
「泣きたいなら泣けばいい。俺は待つ」
国立くんの声は硬かった。
いつもと変わらない。
でも、「俺は待つ」という言葉は、この人なりの優しさだった。
泣いている私を否定しない。
泣き止ませようともしない。
ただ、待つ。
涙を拭いた。
ハンカチがなくて、袖で拭った。
長袖のブラウスの袖。
傷を隠すための長袖。
「ありがとう。……話せてよかった」
小さく笑った。
泣いた後の、不格好な笑顔。
でも、嘘じゃない笑顔。
国立くんは私の顔を見た。
少しだけ目を細めた。
何かを確認するように。
何かを探すように。
そして、小さく頷いた。
◇◆◇
帰り道。
分かれ道で立ち止まった。
いつもなら「じゃあ、また明日」と言って別れる場所。
「国立くん」
「ん」
「あの人……私の中にいた人は、国立くんのことを『奏』って呼んでたんだね」
国立くんが足を止めた。
「メッセージに書いてあった。『ありがとう、奏』って。それから、最後の長いメッセージも、全部『奏』って」
国立くんは前を向いたまま、黙っていた。
「あの人にとって、国立くん——奏は、特別だったんだね」
「……ああ」
国立くんの声が、わずかに揺れた。
この人が感情を見せるのは珍しい。
「俺にとっても、あいつは特別だった」
夕日が二人の間に影を落としている。
長い影。
七月の太陽は沈むのが遅くて、影がどこまでも伸びている。
「あいつが最後のメッセージで書いてたこと。『妙子が「国立くん」と呼んでも、がっかりするな』って」
国立くんが初めて、小さく笑った。
笑ったというより、口の端が微かに上がっただけ。
でも、確かに笑っていた。
「……あいつらしい。余計なお世話だ」
「そう?」
「ああ。お前がどう呼ぶかなんて、お前が決めることだ。あいつに指図される筋合いはない」
国立くんらしい言い方。
でも、声がどこか柔らかかった。
「とりあえず、今は『国立くん』でいい。無理に変える必要もない」
「……うん」
「じゃあな」
「うん。また明日」
国立くんが歩き出した。
左の道へ。
私は右の道を歩き始めた。
空が赤い。
雲が金色に光っている。
風が頬を撫でる。
夏の風。
もうすぐ夏休み。
あの「誰か」は、国立くんにこう書いていた。
「妙子のことは妙子に聞け。あいつが助けを選べるように、選べる場所を増やしてやってくれ」
選ぶ。
私が。
その言葉は、強い人間になれという命令ではなかった。弱いままでも、次に置く足を自分で決めろということだった。
でも、今日、私は国立くんに傷の話をした。
自分から。
誰に言われたわけでもなく。
自分の意思で。
これも、ひとつの選択なのだろうか。
わからない。
でも、もしそうだとしたら。
その芯を、もう少し信じてみてもいいかもしれない。
◇◆◇
相談室の前で、一度だけ引き返しかけた。
ドアには小さな札が掛かっていた。「話したくないことは、話さなくていい」。国立くんがドアの外で待っていたときと、よく似た言葉だった。
私はノックした。
スクールカウンセラーには、火傷のことも、「僕」のことも話さなかった。眠れない夜があること。記憶が抜けること。食べるのが怖くなること。それだけを、途切れ途切れに話した。
彼女は名前を急いでつけなかった。消えた誰かについても、回復すれば不要になる人格についても、決めつけなかった。
「次も来るかどうかは、豊島さんが決めていいよ」
私は次の予約票を受け取った。
白い紙には、来週の水曜日、午後四時と印刷されていた。
約束の時間。けれど、守れなければ罰がある約束ではない。行けなくなったら電話をすればいい。途中で帰ってもいい。
「助けてもらうって、誰かに全部決めてもらうことじゃないんですね」
言ってから、そんな当たり前のことも知らなかった自分に気づいた。
「そう。ここで決める練習をしてもいいし、決められない日は一緒に迷ってもいい」
机の端に、小さな砂時計があった。青い砂が、上から下へ落ちている。戻すには誰かが手を伸ばして、ひっくり返さなければならない。
私は予約票を二つに折り、財布へ入れた。
相談室を出る前に、ブラウスの袖口へ目を落とした。
半袖に替えるか、長袖のままでいるか。傷を見せることだけが前進ではない、と先生は言った。隠すのも、見せるのも、今日は決めないのも、私の選択だと。
私は袖をまくらなかった。
国立くんに話せたからといって、教室中に見せる義務はない。
けれど、夏休みに入ったら、自分で服を買いに行こうと思った。傷を隠すためだけではなく、私が着たいと思える服を。一人で行けなければ、最初は誰かを誘ってもいい。
選ぶことと、一人きりで耐えることは、同じではない。
たぶん。
それから、家に帰った。
玄関でスニーカーを脱いで、洗面所で手を洗って、リビングのテーブルに鞄を置いた。
母さんの真由子が、キッチンに立っていた。
出勤前の食事の支度。
二人分。
最近は冷蔵庫にコンビニのおにぎりではなく、温めれば食べられるご飯が置かれている。
急に優しい母親になったわけではない。ただ、五日間閉じたままだった私のドアを、母さんなりに怖がったのかもしれない。
「おかえり」
「ただいま」
「母さん。今度、学校の人と一緒に病院の相談をしたい。来られる?」
母さんの手が止まった。
すぐには返事がなかった。
「勤務、確認する」
約束には足りない。拒絶でもない。
今は、その隙間に次の一歩を置く。
自分の部屋に入った。
ベッドに腰を下ろして、スマホを開いた。
あの「誰か」のメッセージを、また読み返した。
何度目かわからない。
毎日読んでいる。
「消えたくない。正直に言う。消えたくない。生きていたい」
この言葉を読むたびに、胸が痛む。
私のために消えた人。
名前もない人。
私が知らないところで、何年も、私を守り続けてくれた人。
ありがとう、とだけでは足りない。
でも、私にはそれしか言えない。
スマホを閉じた。
窓の外を見た。
夕焼けが終わりかけている。
空が藍色に染まっていく。
星はまだ見えない。
明日も学校に行こう。
明日も国立くんの隣でおにぎりを食べよう。
明日も学級委員の仕事をしよう。
明日も分かれ道で「また明日」と言おう。
ひとつずつ。
一日ずつ。
あの「誰か」が守ってくれた時間の上に、私自身の時間を重ねていく。
それが、あの人への、私にできる唯一の恩返しだ。




