第09話 「忍津家さんは、独り占めしたい!」
文化祭まで、あと一週間。
二年三組の準備は、仕上げの段階へ入っていた。段ボールで作った壁は教室を複雑に区切り、黒い模造紙を貼った通路には蓄光テープが細く伸びている。暗号の問題も完成し、受付で配るヒントカードは難易度ごとに封筒へ分けられていた。
残っている大きな作業は、本番を想定した通し練習だけである。
「相良、入口に立って」
文化祭委員の女子が、教室の前方から声をかけた。
「受付の流れ、確認したいから」
「俺、案内役じゃなかったか?」
「今日は受付の男子が部活でいないの。代わりにお願い」
「分かった」
悠真は手にしていた見取り図を机へ置き、入口へ向かった。その様子を、しのぶは教室の奥から見ていた。
隣には、仕掛け班の男子が二人いる。
「忍津家さん、この扉、開くの早すぎない?」
「糸を少し長くした方がいいと思う」
「どれくらい?」
「五センチくらい」
しのぶは仕掛けを確認し、結び目の位置を指で示した。男子たちはすぐに作業へ戻り、しのぶも次の確認へ移ろうとした。
そのとき、入口から女子生徒たちの笑い声が聞こえた。
「相良、接客うまいじゃん」
「いらっしゃいませ、くらい誰でも言えるだろ」
「もう一回やって。今度はもっと忍者っぽく」
「何だよ、忍者っぽい受付って」
「拙者とか言えば?」
「絶対言わない」
悠真の周りには、受付班の女子が三人集まっていた。誰かが冗談を言い、悠真が言い返す。
普段から見慣れた光景だった。悠真は誰とでも普通に話せる。しのぶには難しいことを、何でもないようにやってのける。
「忍津家さん?」
呼ばれて、しのぶは顔を上げた。
「糸、これでいい?」
「……うん」
「まだ測ってないけど」
「ごめん」
しのぶは眼鏡を押し上げ、もう一度仕掛けへ向き直った。糸の長さを確かめ、今度はきちんと五センチ伸ばすよう伝える。
それでも、入口から聞こえる笑い声が気になった。悠真は受付班の女子と並び、入場客への説明を練習している。
「最初に注意事項を言って、そのあと二人ずつ入ってもらうんだよね」
「そう。暗いから走らないことと、壁には触らないこと」
「相良、全部覚えてるんだ」
「忍津家に何回も説明されたからな」
名前を呼ばれ、しのぶは反射的に入口を見た。悠真はこちらを向いていない。ただ、しのぶから聞いた内容を、ほかの生徒へ伝えているだけだった。
それなのに、自分の知らないところへ持っていかれたような、妙な気持ちが残った。
「相良くん」
気づけば、しのぶは入口まで歩いていた。悠真が振り返る。
「何だ?」
「案内役の確認、したい」
「今?」
「うん」
「受付の練習中なんだけど」
「あとでもできるよ」
受付班の女子が笑った。
「忍津家さん、相良を借りたいの?」
「借りるんじゃないよ」
「じゃあ、連れていく?」
「相良くんは、案内役だから」
しのぶは真面目に答えた。
「それに、動線を一番分かってる」
「忍津家さんの次に、でしょ?」
「うん」
「やっぱり相良じゃないと駄目なんだ」
悪意のない言葉だった。しのぶが考え、悠真が伝える。クラスメイトも、その役割を知っている。それでも、しのぶの胸には小さな棘のように残った。
「相良くん、一緒にお願い」
「分かったよ」
悠真は受付班へ断り、しのぶのあとをついてきた。
二人で暗い通路へ入る。外の声が遠くなり、段ボールの壁に囲まれた狭い空間へ、足音だけが響いた。
「どこを確認するんだ?」
「二問目のあと」
「さっき見たばかりだろ」
「もう一回」
しのぶは先を歩き、二問目の問題が置かれた場所で足を止めた。仕掛けに不備はなく、通路の幅も十分で、足元のテープも剥がれていない。
悠真が周囲を見回した。
「何も変わってないぞ」
「うん」
「じゃあ、何で呼んだ?」
しのぶは答えなかった。自分でも、きちんと説明できなかった。
受付班に悠真が必要なのは分かっている。文化祭はクラス全員で作るものだ。悠真はしのぶだけの手伝い役ではない。それなのに、ほかの女子と笑っている姿を見たとき、連れ戻したいと思った。
「相良くん」
「何だ?」
「受付、楽しい?」
「普通だよ」
「みんなと話してた」
「練習だからな」
「私と作業するより?」
悠真は眉を寄せた。
「比べるものか?」
「分からない」
「今日はどうしたんだよ」
しのぶは壁へ視線を落とした。
「相良くん、誰とでも話せるから」
「それが?」
「私がお願いしなくても、いろんなところで頼られる」
「文化祭なんだから、普通だろ」
「うん」
分かっている。分かっているのに、胸の奥が落ち着かない。しのぶは、自分の袖口を指先でつまんだ。
「戻ろう」
「確認は?」
「終わったから」
「結局、何だったんだ?」
「少し、確認したかっただけ」
「何を?」
しのぶは答えず、通路の出口へ歩き出した。
教室へ戻ると、通し練習が始まった。客役をする生徒が入口から入り、暗号を解きながら出口を目指す。
しのぶは見取り図を手に、仕掛けの動作と所要時間を記録した。悠真は案内役として、客役の後ろをついていく。
二人が別々の場所にいても、準備は問題なく進んだ。むしろ、しのぶが全体を確認し、悠真が内部の動きを見ることで、いつもより細かな不具合まで見つけられた。
通し練習を終えると、文化祭委員の男子が感心したように言った。
「忍津家さんと相良、別々でもちゃんと回るじゃん」
「そりゃそうだろ」
悠真が答える。
「でも、忍津家さんって、人前のことは全部相良にやってもらってる印象だった」
男子は悪気なく続けた。
「相良がいないと、何もできないのかと思ってた」
教室の音が、一瞬だけ遠くなった。しのぶは手元の見取り図を見たまま動かなかった。
「そんなわけないだろ」
悠真の声が、すぐに返る。
「忍津家が準備してなかったら、そもそも何も回ってない」
「分かってるって。ただ、人前だと相良がいないと厳しそうじゃん」
「それと何もできないのは違う」
「悪かったよ。言い方が悪かった」
男子は軽く手を上げ、別の作業へ戻っていった。悠真はしのぶを見る。
「気にするなよ」
「うん」
「お前がやったことは、みんな分かってる」
「うん」
しのぶは同じ返事をした。けれど、見取り図を握る指には力が入っていた。
男子の言葉は間違っている。しのぶは一人でも、資料を整理できる。問題を考えられる。必要な物を調べ、作業の順番を決められる。今日だって、悠真と離れて全体を動かしていた。
それでも、人前へ出るときには悠真を探し、困ると最初に悠真へお願いする。自分は、どれほど多くのことを幼なじみに預けているのだろう。
放課後の作業が終わる頃になっても、その考えは消えなかった。片づけを済ませ、二人は並んで学校を出た。
いつもなら、しのぶから次の予定を話し始める。明日は何をするのか、どこを確認するのか、何を一緒にお願いするのか。けれど、その日は黙っていた。
「忍津家」
「なに?」
「さっきのこと、まだ気にしてる?」
「気にしてないよ」
「じゃあ何で静かなんだ」
「考えてるから」
「それを気にしてるって言うんだよ」
しのぶは足元へ視線を落とした。二人の影が、夕方の道へ並んで伸びている。
「私、相良くんに頼りすぎてる?」
「今さらだな」
悠真は冗談めかして答えた。けれど、しのぶは笑わなかった。
「相良くんがいないと、何もできないように見える?」
「見える奴には見えるんじゃないか」
「やっぱり」
「最後まで聞けよ」
悠真は足を止めた。しのぶも数歩先で立ち止まる。
「見えてる部分だけなら、俺が話してることが多いからな。でも、その前にお前が何をしてるか、ちゃんと知ってる奴もいる」
「相良くんは、知ってる?」
「一番知ってるよ」
迷いのない返事だった。しのぶは顔を上げた。
「プリントも、文化祭も、お前がほとんど準備してる。俺は、お前が考えたことを人に伝えてるだけだ」
「それが、私にはできないから」
「できないことを頼るのは、悪いことじゃないだろ」
「でも」
「俺だって、お前がいなかったら文化祭の仕掛けなんて考えられない。何が必要かも分からない」
悠真は肩をすくめた。
「それなら、俺もお前に頼りすぎてることになる」
「相良くんが、私に?」
「そうだよ」
しのぶはしばらく黙った。自分が悠真へ預けているものばかり考えていた。けれど、悠真もまた、自分の考えや準備を頼りにしている。
「それでも、少し減らした方がいいと思う」
「何を?」
「お願いすること」
悠真の表情が、わずかに変わった。
「何で?」
「一人でもできるようにならないと」
「急に全部変える必要ないだろ」
「でも、おばあちゃんも言ってた。いつまでも、そこにいてくれるとは限らないって」
「俺は今いるけど」
「今は」
しのぶは小さく答え、それ以上の言葉は続かなかった。
悠真は何かを言いかけて、口を閉じた。高校を卒業すれば、今の関係が変わるかもしれない。しのぶが一人でできることを増やしたいと言うのを、否定はできなかった。
「分かった」
悠真は言った。
「やってみればいい」
「うん」
「でも、本当に困ったら言えよ」
「相良くんに?」
「誰でもいい」
その答えに、しのぶの胸が少しだけ沈んだ。自分から「頼らないようにする」と言ったのだから、当然だった。それなのに、「俺に言え」と答えてほしかった気がした。
しのぶは、そんな自分をわがままだと思った。
「明日の準備は?」
悠真が尋ねる。
「受付の最終確認と、衣装の数を調べる」
「俺は何をすればいい?」
しのぶは少し迷った。いつもなら、すぐにいくつものお願いを並べている。
「大丈夫」
「何が?」
「明日は、一人でやってみる」
悠真は黙った。しのぶも、それ以上は話さなかった。
二人は再び歩き出す。影は変わらず隣り合っている。けれど、その間には、いつもよりわずかに広い隙間があった。
忍津家しのぶは、幼なじみを独り占めしたいと思った。同時に、独り占めするほど頼ってはいけないとも思った。
どちらを選べばいいのか、しのぶにはまだ分からなかった。
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