第10話 「忍津家さんは、お願いしない!」
翌朝、忍津家しのぶは、相良悠真を待っていなかった。
教室へ着くと、自分の席へ鞄を置き、文化祭で使う衣装の箱を一人で運び始めた。箱は大きいが、それほど重くはない。両腕で抱えれば、教室の後ろから前まで運べる。
これまでなら、悠真が来るまで待っていただろう。あるいは、登校した姿を見つけるなり、
「これ、一緒にお願い」
と差し出していたはずだ。
けれど、今日は頼まない。一人でできることは、一人でする。しのぶは昨日の帰り道で、そう決めていた。
「おはよう、忍津家」
教室の扉が開き、悠真が入ってくる。
「おはよう、相良くん」
しのぶは箱を抱えたまま答えた。悠真は足を止める。
「それ、何だ?」
「衣装」
「見れば分かる。どこへ持っていくんだ?」
「教卓の前」
「持つよ」
「大丈夫」
しのぶは悠真の横を通り過ぎた。箱の端が腕へ食い込み、少しだけ持ち直したものの、教卓の前まで落とさずに運べた。
「ほら、大丈夫だったよ」
「別に競争してるわけじゃないだろ」
「一人でできたから」
しのぶは箱を床へ置き、眼鏡を押し上げた。声には、わずかな達成感が混じっている。
「そうか」
悠真は短く答え、自分の席へ向かった。しのぶはその背中を見送る。
何かを間違えたような気がした。けれど、何が違ったのかは分からなかった。
朝のホームルームが終わると、文化祭委員が衣装の確認を始めた。黒い上着、頭巾、腰へ巻く布、受付係が着る羽織。必要な数を数え、担当者ごとに分けていく。
「忍津家さん、男子用の頭巾、二枚足りないみたい」
文化祭委員の女子が言った。
「予備の布があるから、作れると思う」
「ミシン使える人いるかな」
「家庭科部の人に頼めないか聞いてみる」
「誰が行く?」
しのぶは教室を見回した。いつもなら、悠真へ目を向けるところだった。
人へ頼み事をするとき、しのぶは言葉を選ぶのに時間がかかる。断られたらどうしよう。迷惑ではないか。きちんと説明できるだろうか。悠真がいれば、最初の声をかけてくれる。
けれど、それではいつまでも変わらない。
「私が行くよ」
しのぶは答えた。
「一人で大丈夫?」
「うん」
家庭科部の部室は、別棟の三階にある。昼休みになり、しのぶは必要な布と見本の頭巾を持って教室を出た。
悠真は何も言わなかった。気づいていないのかもしれない。それでいいはずだった。
しのぶは別棟の三階まで上がり、家庭科室の前で足を止めた。中から何台ものミシンが動く音が聞こえ、扉には『家庭科部活動中』と書かれた札が掛かっている。
しのぶは布を持ち直し、一度、息を吸った。扉をノックしようとして、手が止まる。
知らない生徒ばかりの部室へ入り、事情を説明し、協力を頼む。できないことではない。職員室でも、悠真が隣にいれば話せた。今度は、一人でやるだけだ。
しのぶは扉を二度叩いた。しかし、音が小さすぎたらしく、中のミシンは止まらない。
もう一度、今度は少し強く叩く。
「はい?」
扉が開き、三年生らしい女子が顔を出した。突然向けられた視線に、しのぶの喉が詰まる。
「あの……二年三組の、忍津家です」
「どうしたの?」
「文化祭の衣装で……頭巾が二枚、足りなくて」
しのぶは布と見本を差し出した。
「今日の放課後に、通し練習があるので。それまでに作ってもらえないかと思って」
「今日?」
三年生は困ったように家庭科室の中を振り返った。机の上には、縫いかけの衣装が何着も積まれている。
「ごめん。こっちも今日中に終わらせたい衣装があるの」
「そう、ですよね」
「簡単な形には見えるけど、今は手を空けられないかな」
断られた。
しのぶは布を抱え直す。ここで別の方法を相談しなければならない。けれど、何と言えばいいのか、すぐには言葉が出なかった。
「あの……」
「うん?」
「全部、お願いするのは難しいと思うので……一枚だけでも」
声が小さくなる。
「残りは、私たちで何とかします。放課後までに必要で……」
三年生は、しのぶの顔をじっと見た。
「忍津家さんって、前に家庭科部の掲示を直してくれた子?」
「掲示?」
「図書室の前の。剥がれかけてたのを貼り直してくれたでしょ」
「端が剥がれてたから」
「裁縫箱を職員室へ届けてくれたこともあったよね」
「廊下に落ちてたので」
「やっぱり」
三年生は家庭科室の中へ戻り、ほかの部員たちへ声をかけた。
「この頭巾、二枚なら先に作れそう?」
「形は簡単そうですね」
「裁断して、二人で縫えばすぐ終わるかも」
「でも、こっちの衣装が遅れませんか?」
「少しくらいなら大丈夫。前にうちも助けてもらってるから」
短い相談のあと、三年生は再び扉の前へ戻ってきた。
「二枚とも作るよ。放課後までに教室へ届ける」
しのぶは目を瞬かせた。
「でも、忙しいんじゃ」
「忙しいけど、一時間もかからないと思うから。作業の順番を変えれば大丈夫」
「いいんですか?」
「忍津家さんの頼みならね」
「私の?」
「うちの部も、何度か助けてもらってるでしょ」
「大したことは、してません」
「助けられた方は、そう思ってないよ」
三年生は布と見本を受け取った。
「だから、今日は私たちに任せて」
しのぶはしばらく立ったまま、その言葉を確かめていた。上手に交渉できたとは思えない。断られかけたときには、何を言えばいいのか分からなくなった。
それでも、今まで自分が気づいたときにしてきたことが、思いがけない形で戻ってきた。
「ありがとうございます」
しのぶは深く頭を下げた。
家庭科室を離れても、足はまだ少し震えていた。けれど、教室へ戻る足取りは、来たときよりも軽かった。
悠真がいなくても、自分からお願いすることはできた。少なくとも、最初の一歩は踏み出せたのだと思う。
教室へ戻ると、しのぶは文化祭委員へ結果を伝えた。
「放課後までに家庭科部の先輩たちが作ってくれることになったよ」
「すごい。もう話をつけてきたの?」
「お願いしただけだから」
「助かった。ありがとう」
しのぶは小さくうなずいた。その様子を、悠真は少し離れた席から見ていた。
目が合う。しのぶは、褒めてもらえるのを待つように悠真を見た。
「ちゃんと頼めたんだな」
「うん」
「よかったじゃん」
「……うん」
それだけだった。もっと何かを言ってほしかった気がした。
けれど、一人で頼みに行くと決めたのは、しのぶ自身である。悠真に助けてもらわず、自分でお願いできたことを喜ぶべきだった。
放課後になると、通し練習の最終確認が始まった。受付から客役を入れ、暗号を解き、仕掛けを動かし、出口まで案内する。
しのぶは記録係として、所要時間と問題点を書き留める。悠真は案内役だった。
同じ教室にいる。すぐ近くに姿も見える。けれど、通し練習の間、しのぶは一度も「相良くん」と呼びかけなかった。
質問をされれば自分で答え、全体へ伝える必要があれば文化祭委員へ頼む。高い場所へ札を貼るときは、脚立を使った。
「忍津家さん、危なくない?」
「大丈夫。誰かに押さえてもらうから」
しのぶは近くの女子に脚立を支えてもらい、自分で上った。作業は無事に終わった。
祖母の教えには反するかもしれない。けれど、一人でできることを増やすには、少しずつ挑戦しなければならない。
「忍津家」
床へ降りると、悠真が近づいてきた。
「高い場所は、無用な危険を冒すな、じゃなかったのか?」
「押さえてもらったから大丈夫」
「俺に言えばやったのに」
「相良くん、案内役の練習中だったから」
「少しくらい抜けられるよ」
「でも、ほかの人にお願いできた」
しのぶが答えると、悠真は口を閉じた。
しのぶは、一人で何もかもやったわけではない。脚立を押さえてくれた女子生徒にも、家庭科部の先輩たちにも助けてもらった。ただ、これまで悠真にしか頼めなかったことを、ほかの誰かにもお願いできるようになった。
それはきっと、喜ぶべきことだった。なのに、また何かが違った気がした。
二人とも同じ教室にいるのに、昨日までより距離が遠い。
「そうか」
悠真はそれだけ言い、案内役の位置へ戻った。
しのぶは胸の奥へ残った寂しさを押し込めた。お願いを減らすと決めた。悠真を困らせないために、自分が一人でもできるようになるために。
なのに、悠真が離れていくように感じるのは、なぜなのだろう。
準備が終わる頃には、教室の作業表に並んでいたほとんどの磁石が青へ変わっていた。
「明日で全部終わりそうだな」
文化祭委員の男子が言う。
「忍津家さんのおかげだよ」
「みんながやってくれたから」
「相良との連携も完璧だったし」
しのぶは、すぐに返事ができなかった。今日はほとんど話していない。
連携が完璧だったのは、これまで積み重ねてきた準備があったからだ。しのぶが細かく指示を出さなくても、悠真は必要なことを理解している。だから、お願いしなくても進んだ。
それは喜ぶべきことのはずだった。
片づけを終えると、しのぶは一人で教室を出た。悠真は文化祭委員に呼び止められ、まだ中に残っている。
これまでなら、廊下で待っていた。帰り道を一緒にお願いするために。けれど、今日は待たない。一人で帰る練習も必要だった。
昇降口で靴を履き替え、校門を出る。夕方の住宅街には、部活動を終えた生徒たちの声が聞こえていた。
家までの道は、何度も通った道である。迷うことも、困ることもない。それでも、足取りはいつもより重かった。
「忍津家」
後ろから名前を呼ばれ、しのぶは振り返った。悠真が鞄を肩へ掛け、走ってくる。
「先に帰るなら言えよ」
「相良くん、話してたから」
「待ってればよかっただろ」
「一人で帰れるよ」
「知ってるよ」
悠真は少し息を整え、しのぶの隣へ並んだ。
「じゃあ、何で来たの?」
「帰る方向が同じだから」
「それだけ?」
「ほかに何があるんだよ」
しのぶは前を向いた。
いつもなら、自分から隣へ呼んでいた。今日は悠真の方から追いかけてきた。少しだけ嬉しい。けれど、それを口にすれば、また頼ってしまう気がした。
二人は黙って歩いた。これまでは、しのぶが次々にお願いを口にしていた。購買へ行くこと、帰り道を共にすること、明日の作業を手伝うこと。言葉が途切れる暇などなかった。
今日は、何もない。
「忍津家」
「なに?」
「明日の準備、俺は何をする?」
「案内役の確認」
「それだけ?」
「うん」
「ほかには?」
「ないよ」
悠真は黙った。しのぶは隣を見ないように歩いた。
「お前、本当にお願いしないんだな」
「昨日、減らすって言ったから」
「急にゼロにしなくてもいいだろ」
「一人でできることは、一人でする」
「それで困ってない?」
「困ってないよ」
嘘ではなかった。家庭科部へも頼みに行けた。脚立へも上れた。文化祭の準備も問題なく進んでいる。
「じゃあ、相良くんは困ってる?」
しのぶが尋ねる。悠真はすぐには答えなかった。
「別に」
「そう」
胸の奥が沈む。
悠真が困っていないなら、今までのお願いはなくてもよかったのかもしれない。余計なことを頼み、時間を使わせていただけなのかもしれなかった。
少し遅れて、悠真が続ける。
「ただ、調子が狂う」
「どうして?」
「お前が何も言わないから」
「静かな方がいいでしょ」
「そういう問題じゃない」
以前、しのぶが「待ってる」と答えたとき、悠真に返されたのと同じ言葉だった。けれど今度は、その意味が分からなかった。
「お願いされるの、嫌じゃなかったの?」
「嫌なら断るって言っただろ」
「でも、いつもやれやれって言う」
「本当に嫌なら、引き受けないよ」
悠真は少し前を歩き、しのぶへ背を向けた。
「それに、お前が何も頼まないと、俺がいらないみたいだろ」
しのぶの足が止まった。悠真も数歩先で立ち止まる。
「相良くんが、いらない?」
「そういう言い方をしたんじゃない」
「いらなくないよ」
しのぶはすぐに否定した。声が、自分でも驚くほど強く出た。
「相良くんは、いらなくない」
「分かったから、落ち着け」
「でも、お願いしたら頼りすぎになる」
「だから、ゼロか百かで考えるなよ」
「分からない」
しのぶは鞄の持ち手を強く握った。
一人でできるようになりたい。悠真を困らせたくない。けれど、離れてほしくない。どれも本当で、どうすればすべてを守れるのか分からなかった。
「何をお願いして、何を一人ですればいいの?」
悠真は答えなかった。簡単に決められることではない。しのぶ自身が考えなければならないことなのだろう。
「今日は帰ろう」
悠真が言った。
「うん」
二人は再び歩き出した。距離は近い。それでも、いつものようには戻れなかった。
別れ道へ着く。悠真の家は右、しのぶの家は左にある。
「また明日な」
「うん。また明日」
悠真が右へ曲がる。しのぶは左へ向かいかけ、足を止めた。
呼び止めたい。明日も一緒にいてほしい。帰り道も、文化祭の準備も、その先も。
けれど、それをお願いしていいのか分からない。
「相良くん」
ようやく声を出したとき、悠真は振り返った。
「何だ?」
しのぶは口を開く。お願いしたいことは、いくつもあった。それなのに、どの言葉も喉の奥で止まってしまう。
「……なんでもない」
「そうか」
悠真は少しだけ待ったあと、再び歩き始めた。しのぶは、その背中が見えなくなるまで立っていた。
忍津家しのぶは、今日一日、幼なじみに何もお願いしなかった。一人でできたことは、昨日よりも増えた。
そのはずなのに、悠真との間にできた空白だけは、一人では埋められなかった。
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