第11話 「忍津家さんは、ちゃんとお願いしたい!」
文化祭前日。
二年三組の教室では、朝から最終準備が続いていた。段ボールの壁はすべて組み上がり、暗号の札も指定された場所へ取り付けられている。受付用の机には注意事項を書いた紙が並び、貸し出された無線機も動作確認を終えていた。
黒板の作業表には、ほとんど青い磁石しか残っていない。準備は順調だった。少なくとも、文化祭については。
「忍津家さん、入口の看板、これでいい?」
装飾班の女子が、大きな板を持ってきた。墨で書かれた『忍者屋敷からの脱出』の文字の周りに、手裏剣や煙の絵が描かれている。
「うん。上の角だけ、少し空けておいて」
「何か貼るの?」
「提灯を下げるから」
「あ、そうだった。じゃあ、この位置でいい?」
しのぶは看板へ近づき、紐を通す穴の位置を確認した。
「大丈夫。ありがとう」
「了解。相良、これ運ぶの手伝って!」
教室の後ろで机を移動していた悠真が呼ばれる。
「ああ、今行く」
悠真は男子生徒と作業を交代し、看板を受け取りに来た。しのぶのすぐ隣まで来る。けれど、二人の間に会話はなかった。
目が合えば、小さくうなずく。必要なことがあれば、誰かを通して伝える。ここ数日、そんな状態が続いていた。
しのぶがお願いしなくなったため、悠真がそばに来る理由も減っている。文化祭の作業は、それでも進んだ。
しのぶは必要な仕事を一人ずつへ割り振り、難しいことは文化祭委員に相談する。高い場所の作業は背の高い生徒に頼み、重い物は運搬班へ任せる。悠真でなくても、お願いすれば手伝ってくれる生徒はいる。
それを、しのぶはこの数日で覚えた。けれど、誰に頼んでも同じというわけではなかった。
「忍津家さん、提灯の場所、ここでいい?」
「もう少し右」
「これくらい?」
「うん」
男子生徒が脚立の上で位置を直す。しのぶは下から見上げ、全体の釣り合いを確かめた。頼んだ通り、きちんとやってくれている。
それなのに、胸の奥へ小さな物足りなさが残った。
悠真なら、一度言えば大体の位置を理解する。しのぶが迷っていれば、右か左かではなく、何と比べているのかを聞いてくる。終わったあとには、
「これでいいか?」
と、しのぶが納得するまで待ってくれる。
頼みやすいからではない。断らないからでもない。悠真だから、お願いしたかったのだ。
「忍津家さん?」
呼ばれて、しのぶは我に返った。
「位置、変だった?」
「大丈夫。きれいだよ」
「よかった」
男子生徒が脚立を降りる。しのぶは礼を言い、次の作業へ向かった。
教室の中央では、本番と同じ流れで最後の通し練習が行われていた。悠真は案内役として、客役の後ろを歩いている。問題に詰まれば決められた言葉でヒントを出し、仕掛けが動かなければ、客に気づかれないよう手早く直す。
しのぶが作った進行表を、ほとんど見ずにこなしていた。
「相良、もう全部覚えてるじゃん」
客役を終えた男子が言う。
「何回もやってるからな」
「忍津家さんがいなくても、本番回せそう」
軽い冗談だった。悠真は、すぐには笑わなかった。
「いないと困るよ」
「でも、仕掛けも問題も分かってるだろ?」
「分かってても、何か起きたときに決めるのは忍津家だ」
「相良が決めてもよくない?」
「俺は、忍津家が考えたものを分かりやすく伝えてるだけだから」
悠真はそう答えると、しのぶの方を見た。少し離れた場所で目が合う。しのぶは何も言えず、視線を落とした。
自分がいなければ困る。その言葉が嬉しかった。けれど、悠真にとって必要なのは、文化祭をまとめる自分だけなのかもしれない。
以前のようにお願いをしなくても、作業は進んでいる。一緒に帰らなくても困らない。甘味処へ行く約束も、今すぐでなくていい。
文化祭が終われば、悠真がしのぶの隣にいる理由は、さらに減ってしまうのだろうか。
「忍津家さん」
文化祭委員の女子が声をかけてきた。
「少し休んだら? 朝からずっと動いてるよ」
「まだ確認するところがあるから」
「あと何が残ってる?」
「非常口の札と、受付の人数と、予備の鉛筆。それから――」
「それ、相良と二人で確認する予定じゃなかった?」
しのぶは言葉を止めた。手元の一覧表には、それぞれの担当者が書かれている。最終確認の欄だけは、最初に作ったときのままだった。
『忍津家・相良』
「変えたの?」
「……まだ」
「じゃあ、行ってきなよ」
文化祭委員は教室の前方を指さした。悠真が、無線機を点検している。
「最近、二人とも変だよ。喧嘩した?」
「喧嘩はしてない」
「なら、話せばいいじゃん」
「何を?」
「それが分からないから、変なんじゃない?」
女子はそれだけ言うと、装飾班の方へ戻っていった。
しのぶは一覧表へ目を落とす。最終確認は一人でもできる。昨日までの自分なら、そう考えただろう。
けれど、これは最初から二人でやると決めていた仕事だった。一人でできることと、一人でやらなければならないことは違う。
しのぶは一覧表を持ち、悠真のもとへ向かった。
「相良くん」
呼びかけると、悠真の手が止まった。
何日も声をかけていなかったわけではない。作業中、必要な連絡はしていた。それでも、お願いをするために名前を呼んだのは久しぶりだった。
「何だ?」
「最終確認、一緒にお願い」
悠真はすぐには返事をしなかった。しのぶの持つ一覧表を見て、それから眼鏡の奥の目を確かめるように視線を上げた。
「一人でやるんじゃなかったのか?」
「一人でもできるよ」
「じゃあ、何で俺に頼むんだ?」
責めるような口調ではなかった。ただ、答えを求めている。
しのぶは一覧表を胸の前で握った。
「相良くんとやるって、最初に決めたから」
「それだけ?」
「それだけじゃない」
しのぶは声を小さくした。教室にはまだ多くの生徒がいる。ここで話すことではない気がした。
「確認しながら、話したい」
悠真はしばらく黙ったあと、無線機を机へ置いた。
「分かった」
二人は教室を出て、まず廊下へ続く非常口の前へ向かった。扉の上には誘導用の札が貼られ、通路には物が置かれていない。しのぶが一覧表へ印をつける。
「問題なし」
「次は?」
「受付の人数」
教室へ戻り、受付担当の出席予定を確認する。午前と午後に三人ずつ。休憩時間の交代要員も決まっていた。
「これも大丈夫」
「鉛筆は?」
「教卓の中」
箱には、削られた鉛筆が二十本と、予備の消しゴムが入っている。どの項目にも問題はなかった。
一つずつ確認するたびに、一覧表の空欄が埋まっていく。残りが少なくなっても、二人の会話は作業のことだけだった。
最後に残ったのは、暗い通路の安全確認だった。
教室の照明を落とし、仕掛け用の小さな明かりだけをつける。二人で段ボールの壁の間を歩いた。外の賑やかな声は遠くなり、足元の蓄光テープだけが薄く光っていた。
以前、教師から逃げるように二人で身を潜めた用具倉庫ほどではないが、通路は狭い。並んで歩けば、肩が触れそうになる。
「ここ、壁が少し出てる」
悠真が段ボールの端を押した。
「テープで固定する」
「今やるか?」
「あとで忘れるかもしれないから」
しのぶはポケットからテープを取り出し、しゃがみ込んで壁の端へ貼った。立ち上がったとき、すぐ隣に悠真がいた。
以前なら、何も気にしなかった距離だった。今は、近いことが嬉しくて、同時に怖かった。
「忍津家」
「なに?」
「話って何だよ」
しのぶはすぐに答えられなかった。何度も考えたはずだった。お願いをすること、頼ること、悠真がいなくてもできるようになること。
けれど、本当に伝えたかったことは、どれとも少し違う。
「私、相良くんに頼りすぎてたと思う」
「またその話か」
「最後まで聞いて」
「分かった」
悠真は壁へ寄り、しのぶの正面へ立った。
「一人でできることを増やしたかった。相良くんがいなくても困らないように」
「うん」
「家庭科部にも一人でお願いできた。高いところも、ほかの人に手伝ってもらえた」
「見てたよ」
「ちゃんとできた」
「ああ」
しのぶは一覧表の端を握りしめた。
「でも、嬉しくなかった」
悠真が眉を寄せる。
「できたのに?」
「できたことは嬉しかった。でも、相良くんにお願いしなくなったことは、嬉しくなかった」
暗い通路の中で、しのぶの声だけが響いた。
「私、相良くんが断らないからお願いしてたんじゃない」
「じゃあ、何で?」
「相良くんと一緒にやりたかったから」
ようやく言えた。
プリントを運ぶことも、職員室へ入ることも、買い物へ行くことも、文化祭を作ることも。一人でできるかどうかだけなら、ほかの方法はいくらでもあった。
「一人でも行ける場所に、相良くんと行きたかった」
あの日、甘味処からの帰り道で口にした気持ちを、もう一度確かめるように続ける。
「一人でもできることを、相良くんと一緒にしたかった」
悠真は黙っている。しのぶは不安になり、俯いた。
「それは、頼りすぎ?」
「……違うだろ」
悠真が答えた。
「でも、いつも引き受けてもらってる」
「俺は、断れないんじゃなくて、断ってないんだよ」
しのぶは顔を上げた。暗い中でも、悠真がまっすぐ自分を見ていることは分かった。
「嫌なら断るって、最初から言ってただろ」
「うん」
「お前が何か頼むたびに、面倒だとは思ってる」
「思ってるんだ」
「そこは思うよ」
悠真は少しだけ笑った。
「でも、引き受けたいとも思ってた」
「どうして?」
「お前に頼られるのが、嫌じゃないから」
「それだけ?」
以前、悠真へ尋ねられた言葉を返す。悠真は一瞬言葉に詰まった。
「それだけじゃない」
今度は、悠真が視線を逸らした。
「お前と一緒にいる理由になるから」
しのぶの胸が、大きく鳴った。
「理由がないと、一緒にいられない?」
「いられるよ。幼なじみなんだから」
「じゃあ、お願いしなくてもいい?」
「だから、ゼロか百かで考えるなって」
悠真は小さく息を吐いた。
「お願いがなくても、一緒に帰っていい。店にも行けばいい。お前が一人でできることを、わざわざ一人でやる必要もない」
「相良くんも、一緒にしたい?」
「全部じゃないけどな」
「全部じゃないんだ」
「全部だったら、俺の時間がなくなるだろ」
しのぶは少しだけ笑った。何日ぶりかに、悠真と普通に話せた気がした。
「じゃあ、嫌なときは断ってね」
「そうする」
「断らなかったら、一緒にしてくれる?」
「ああ」
「これからも?」
「無茶じゃなければな」
何度も交わした答えだった。けれど、今までとは意味が違って聞こえた。
しのぶがお願いを押し付け、悠真は仕方なく引き受けている。周囲には、そう見えていた。しのぶ自身も、いつの間にかそう思い始めていた。
けれど、悠真は選んで隣にいた。
「相良くん」
「まだ何かあるのか?」
「名前で呼んでもいい?」
悠真の表情が固まった。
「急だな」
「おばあちゃんが、大切なことは、ちゃんと伝えないといけないって言ってたから」
「名前で呼ぶことが?」
「相良くんは、相良くんだけど」
しのぶは言葉を探した。
「ずっと一緒だったのは、相良くんじゃなくて、悠真だから」
名字は、クラスの誰もが呼ぶ。けれど、幼い頃から知っている名前は、しのぶの中ではもっと近いものだった。
「嫌?」
「嫌じゃない」
「じゃあ、呼ぶね」
しのぶは一度息を吸った。
「悠真」
たった二文字の名前が、狭い通路の中へ落ちる。
呼び慣れているはずだった。幼い頃には何度もそう呼んでいた。いつから名字に変わったのか、二人とも覚えていない。それでも今は、初めて呼んだように胸が騒いだ。
「……何だよ、しのぶ」
悠真も、同じように名前を返した。しのぶは目を見開く。
「もう一回」
「何でだよ」
「ちゃんと聞きたい」
「しのぶ」
今度は、はっきり聞こえた。前髪の奥で、しのぶの目元が柔らかく緩んだ。
「うん」
「返事だけかよ」
「呼ばれたから」
しのぶは嬉しさを隠すように眼鏡を押し上げた。
そのとき、通路の外から声が聞こえた。
「相良ー、忍津家さーん! 確認終わった?」
二人は同時に教室の入口へ顔を向けた。
「終わった!」
悠真が答える。しのぶも一覧表の最後の欄へ青い印をつけた。
すべての確認が終わった。明日は文化祭本番である。
二人で明るい教室へ戻ると、何人かのクラスメイトがこちらを見た。
「遅かったね」
「壁が一か所出てたから直してた」
悠真が答える。文化祭委員の女子が、しのぶの顔を覗き込んだ。
「話せた?」
「うん」
「何の話?」
「大事なこと」
しのぶが答えると、女子は面白そうに笑った。
「じゃあ、もう喧嘩は終わり?」
「喧嘩はしてないよ」
「そういうことにしておく」
最後の片づけを終え、教室を出る。昇降口で靴を履き替え、校門を抜けた。
帰り道は、いつものように二人並んでいた。昨日まであった隙間は、もうない。
「悠真」
しのぶが名前を呼ぶ。
「何だ?」
「明日、朝早く来るよね」
「準備があるからな」
「私も早く来る」
「知ってる」
「一緒にお願い」
「登校からかよ」
「待ってる」
「家を出るときに呼びに行くよ」
しのぶは足を止めた。
「本当?」
「ああ。その方が早いだろ」
「じゃあ、お願いしなくても一緒?」
「そういうこと」
しのぶは嬉しそうにうなずき、また歩き出した。
「悠真」
「今度は何だよ」
「呼びたかっただけ」
「用事がないなら呼ぶな」
「でも、返事してくれた」
「結果論だろ、それ」
以前と同じ言葉に、しのぶは笑った。
お願いしてもいい。お願いしなくても、隣にいていい。一人でできることを増やしても、一緒にしたいことまで手放す必要はない。
「しのぶ」
今度は悠真が呼ぶ。
「なに?」
「明日、頑張ろうな」
「うん。一緒に頑張る」
しのぶは迷わず答えた。
文化祭が終わっても、頼む仕事がなくなっても、二人が一緒にいる理由までなくなるわけではない。
忍津家しのぶは、これからも幼なじみにお願いをする。同じ時間を過ごしたいと、きちんと伝えるために。
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