第12話 「忍津家さんは、おしつけたい!」
文化祭当日の朝。
相良悠真が忍津家の家の前へ着くと、しのぶはすでに門の内側で待っていた。制服の上には大きな鞄を背負い、その手には文化祭で使う確認表と、予備の文房具を詰めた袋を抱えている。
「おはよう、悠真」
「おはよう、しのぶ」
名前を呼び合うことには、まだ少し慣れない。昨夜から何度も口にしているのに、呼ぶたびに以前とは違う距離を感じる。
しのぶは眼鏡を押し上げ、悠真の手元を見た。
「何も持ってないね」
「お前が持ちすぎなんだよ」
「これは必要なもの」
「半分よこせ」
「一人で持てるよ」
「一人で持てるかどうかじゃないだろ」
悠真はしのぶの返事を待たず、文房具の袋を取り上げた。
「一緒に行くんだから、一緒に持てばいい」
しのぶは何度か瞬きをしたあと、小さく笑った。
「うん。一緒にお願い」
「もう引き受けてるよ」
二人は並んで学校へ向かった。まだ朝の早い住宅街に、二人分の足音が続いていく。
これまでと同じ道。それでも今日は、少しだけ違って見えた。
学校へ着くと、二年三組の教室にはすでに何人かの生徒が集まっていた。
「忍津家さん、相良、おはよう!」
「看板、ちゃんとついてるよ」
「無線も動いた。仕掛けも問題なし!」
次々に報告を受け、しのぶは確認表へ印をつけていく。
「受付の鉛筆は?」
「二十本、削ってある」
「予備のヒントは?」
「教卓の中」
「非常口の前は?」
「何も置いてないよ」
青い印が増えるたび、しのぶの表情が少しずつ柔らかくなった。
悠真は教室の中央へ立ち、全員へ声をかける。
「開場まであと二十分。衣装に着替える奴は先に着替えて、受付と案内役は流れをもう一回確認しよう」
「了解!」
「忍津家さん、最初の組が入る前に仕掛け見てくれる?」
「今行く」
「しのぶ、俺も行く」
「受付は?」
「確認終わった。最初の案内役だから、中も見ておく」
二人は段ボールの壁の間へ入った。
黒い模造紙に囲まれた通路では、足元の蓄光テープが細く光り、壁には暗号の札や隠し扉が取り付けられている。二週間前には何もなかった教室が、クラス全員の手で忍者屋敷へ変わっていた。
「ここ、最初に考えてたより広くなったな」
「机の置き方を変えたから」
「黒い紙も足りなかったのに、よく形になったよな」
「みんなが作ってくれたから」
「お前が考えたんだろ」
「悠真が伝えてくれたよ」
しのぶは通路の奥へ目を向けた。
「二人で作ったね」
「クラス全員で、だろ」
「それもそうだけど」
しのぶは悠真を見る。
「私の中では、最初に悠真と作ったから」
「またそういうことを普通に言う」
「本当のことだよ」
悠真は何も返さず、少し先へ歩いた。暗いため、顔が赤くなっていても分からない。
すべての確認を終える頃、校内放送が文化祭の開場を告げた。
最初の客が受付へやってくる。
「二名様ですね。中は暗くなっていますので、走らず、壁には触れないでください」
悠真が注意事項を説明する。しのぶは少し離れた場所から、進行表と時計を確認していた。
「それでは、忍者屋敷からの脱出へどうぞ」
客が暗い通路へ入っていく。
文化祭が始まった。
開場から一時間もしないうちに、教室の前には列ができた。
「待ち時間、十五分です!」
「次の二人、入れて大丈夫?」
「中に二組いるから、三十秒待って」
「三問目で詰まってる!」
「ヒント二を渡して」
しのぶは教室の内外を行き来しながら、状況を確認していく。仕掛けが外れれば直し、列が長くなれば受付へ入場を調整するよう伝える。客の進みが遅れれば、案内役へヒントを出すよう無線で知らせた。
目立つ場所には立っていない。けれど、しのぶの判断によって、忍者屋敷全体が動いていた。
「しのぶ」
通路の出口から、悠真が戻ってくる。
「三問目の箱、蓋が開きづらい。次の組が入る前に見てくれ」
「分かった」
「俺が受付に伝える」
「うん。一緒にお願い」
「了解」
悠真は短く答えて、すぐに動いた。
しのぶも、それを当然とは思わない。悠真が自分で引き受けてくれていることを、もう知っている。
午前の部が終わる頃には、二人とも休む暇がなかった。
「忍津家さん、相良、交代!」
文化祭委員の女子が二人の背中を押す。
「昼休憩、ちゃんと取って。午後もあるんだから」
「でも、まだ箱が――」
「直ったよ。仕掛け班が見てくれた」
「受付は?」
「私たちがやる」
「進行表は?」
「もう覚えた。二人がいなくても大丈夫」
しのぶは教室を見回した。
受付では別の生徒が注意事項を説明し、案内役も、しのぶが作った進行表に沿って動いている。仕掛け班は、自分たちで不具合を直していた。
以前なら、すべてを確認するまで離れられなかったかもしれない。けれど今は、仕事を任せられる。
「行こう、しのぶ」
「うん」
二人は人の多い廊下を抜け、校舎裏のベンチへ向かった。
しのぶは母親が作った弁当を開き、悠真は購買で買っておいたパンを取り出す。
「朝からすごかったな」
「思ったより、お客さんが多いね」
「午後はもっと増えるかもな」
「ヒント、足りるかな」
「休憩中まで仕事の話をするなよ」
しのぶは箸で卵焼きをつまんだ。しばらく黙って食べたあと、悠真を見る。
「楽しい?」
「文化祭が?」
「うん」
「楽しいよ。忙しいけどな」
「私も」
しのぶは少しだけ笑った。
「人が多いところは苦手だけど、今日は嫌じゃない」
「裏方だから?」
「それもあるけど」
しのぶは教室のある校舎を見上げた。
「みんなで作ったものを、みんなが楽しんでくれてるから」
「お前、ちゃんと頭領やってるよな」
「頭領じゃないよ」
「みんな、お前に聞いてるぞ」
「頼られてるだけ」
「それを頭領って言うんだよ」
「忍びの頭領は、もっと威厳があるよ」
「お前も眼鏡を押し上げると、それっぽいけどな」
しのぶは試すように眼鏡を押し上げた。
「どう?」
「小さい」
「身長は関係ないよ」
「かわいい」
言ってから、悠真は固まった。しのぶも箸を止める。
「……今、なんて?」
「何でもない」
「聞こえたよ」
「なら聞くな」
「かわいいって言った」
「確認するなよ」
しのぶは眼鏡の奥で目を瞬かせ、それから少しだけ俯いた。
「ありがとう」
「普通に返すな」
「あ、あの……嬉しかったから」
悠真のパンに視線を落とす。お互い、耳まで赤くなっていることを隠せなかった。
午後も忍者屋敷は盛況だった。最後の客を送り出した頃には、受付に置いた入場者数の表が予想を大きく上回っていた。
「終わったー!」
教室のあちこちから歓声が上がる。
「来場者、三百人超えてる!」
「三年のお化け屋敷より多いんじゃない?」
「忍津家さんの忍者屋敷、大成功じゃん!」
「私のじゃないよ」
しのぶはすぐに否定した。
「みんなで作ったから」
「そういうことにしておくけど、中心は忍津家さんだったよ」
「相良もお疲れ!」
「俺は案内しただけ」
「二人とも同じこと言うよな」
笑い声が広がる。
しのぶは困ったようにしながらも、以前ほど俯かなかった。自分がやったことを否定しすぎず、みんなと同じように笑っている。
悠真は、その姿を少し離れたところから見ていた。
片づけが終わる頃には、外は暗くなり始めていた。段ボールの壁は翌日に解体することになり、今日は危険な物だけを片づけて解散となった。
「忍津家さん、相良、お疲れ!」
「また月曜ね!」
クラスメイトたちが次々に教室を出ていく。
最後まで残ったのは、しのぶと悠真だった。
しのぶは黒板の作業表を見上げる。すべての項目に、青い磁石が付いていた。
「全部終わった」
「ああ」
「本当に終わったね」
「寂しいのか?」
「少しだけ」
しのぶは黒板から最後の赤い磁石を外した。使われることのなかった予備の磁石である。
「明日から、お願いすることが減る」
「文化祭のことはな」
「悠真、困らない?」
「何が?」
「私がお願いしなくなったら」
悠真は苦笑した。
「またその話に戻るのかよ」
「ゼロにはしないよ」
「ならいいだろ」
「でも、大きなお願いは終わったから」
「別に、お願いがなくても一緒にいればいいって話しただろ」
「うん」
しのぶはうなずいた。それでも、どこか落ち着かない様子で眼鏡を触っている。
「何かあるなら言えよ」
「まだ、よく分からない」
「何が?」
「大切な人に、大切だって伝える方法」
悠真は言葉を失った。
祖母の家で聞いた教えを、しのぶはずっと考えていたらしい。
「お願いするだけじゃ、ちゃんと伝わらないと思う」
「誰に伝える気だよ」
分かっているくせに、悠真は尋ねた。
しのぶは答えず、鞄からスマートフォンを取り出した。
「おばあちゃんに聞いてみる」
「今?」
「困ったときは、教えを聞くのが一番だから」
「直接聞くのかよ」
しのぶは祖母へ電話をかけた。数回の呼び出し音のあと、穏やかな声が聞こえる。
「おばあちゃん?」
しのぶは教室の隅へ移動した。
「文化祭、終わったよ。うん、大成功だった」
祖母へ報告する声は、嬉しそうだった。
「それで、聞きたいことがあるの」
しのぶは一度、悠真を見る。
「大切な人を逃がさないためには、どうすればいい?」
悠真は思わず顔を逸らした。聞いてはいけない話を聞いている気分になる。
電話の向こうで、祖母が何かを答えた。しのぶは真剣な顔で相槌を打つ。
「けーぼうじゅつ?」
悠真の肩が、ぴくりと動いた。
「うん。前にも教えてくれた? そうだったかな」
しのぶはさらに話を聞き、何度かうなずいた。
「悠真に使えばいいの?」
「待て」
悠真は思わず口を挟んだ。しのぶは電話を耳へ当てたまま、こちらを見る。
「今、俺の名前出たよな」
「おばあちゃんが、悠真に使いなさいって」
「何を?」
「けーぼうじゅつ」
「どういう字を書くんだ?」
「分からない」
「意味は?」
「それも分からない」
「分からないものを使うな」
電話の向こうで、祖母が笑っているらしい。
しのぶは少しだけ首をかしげたあと、
「分かった。やってみる」
と答え、電話を切った。
「何を分かったんだよ」
「使い方」
「聞いたのか?」
「昔、教えてもらったのを思い出した」
しのぶはスマートフォンを鞄へ戻し、それから悠真の前へ立った。身長差があるため、顔を見ようとすると自然に見上げる形になる。
「悠真」
「何だよ」
「少し、じっとしてて」
「嫌な予感しかしない」
「大丈夫。おばあちゃんの教えだから」
「それが一番不安なんだよ」
しのぶは一歩近づいた。悠真は反射的に一歩下がる。
「動かないで」
「何をする気だ」
「けーぼうじゅつ」
「だから、それが何なんだよ」
背中が教卓へぶつかり、悠真はそれ以上下がれなくなった。しのぶは、さらに近づく。
黒い前髪の奥から、真剣な目が悠真を見つめていた。照れている様子はない。本人は本当に、祖母から伝授された忍びの技を実行しようとしているらしい。
「大切な人を逃がさないための術だって」
「それ、絶対に忍術じゃないぞ」
「忍びは、使えるものを何でも使うから」
「急に説得力を出すな」
しのぶは悠真の腕を両手で取ると、自分の胸元へ引き寄せた。
「……しのぶ?」
悠真の声が裏返る。
しのぶは腕を抱え込んだまま、満足そうにうなずいた。
「できた」
「何が?」
「押し付けた」
「何をだよ!」
問い返したものの、悠真には意図が分かってしまった。
これまで袖をつかむ程度だったしのぶが、こんな距離まで近づいてきたことはない。
悠真の顔が、一気に熱くなった。
「離せ!」
「逃げるの?」
「逃げるというか、離れろ!」
「おばあちゃんが、大切な人は逃がしちゃ駄目だって」
「ばあちゃんは絶対、意味を分かって言ってるだろ!」
「私はまだ、よく分からない」
「分からないのにやるな!」
しのぶは腕を放さない。むしろ、逃げられないよう抱える力を少し強めた。
「でも、悠真に使えって言われたから」
「だからって――」
「嫌?」
その一言で、悠真の反論が止まった。
しのぶは真剣に尋ねている。嫌なら断る。嫌なら引き受けない。二人で何度も確かめたことだった。
「嫌なら、離すよ」
しのぶの腕の力が、少しだけ緩んだ。
悠真は答えられなかった。嫌ではない。ただ、どう反応すればいいのか分からないだけだ。
「……嫌じゃない」
ようやく答える。
「本当?」
「ああ」
「じゃあ、このままでいい?」
「それは、少し待て」
「どうして?」
「慣れてないんだよ!」
「何に?」
「全部だよ!」
しのぶはしばらく悠真を見上げていた。やがて、前髪の奥で目元が柔らかく緩む。
「悠真、困ってる」
「誰のせいだと思ってるんだ」
「私?」
「お前以外に誰がいる」
「じゃあ、頼ってくれてる?」
「どういう解釈だよ」
「困ったときは、助け合うものだから」
「この状況で俺に何を助けろって言うんだ」
しのぶは少し考えた。
「逃げないで」
悠真は言葉を失った。
しのぶは相変わらず、自分が何を言っているのか完全には理解していないのだろう。けれど、その願いだけはまっすぐだった。
「逃げないよ」
悠真は静かに答えた。
「少なくとも、お前が嫌だって言うまでは」
「言わないよ」
「即答だな」
「悠真は、大切だから」
今度こそ、はっきり伝わった。
しのぶは祖母に言われたからではなく、自分の言葉で悠真を大切だと言った。
「……しのぶ」
「なに?」
「少し力を緩めてくれ」
「嫌だった?」
「違う。心臓に悪い」
「胸が痛いの?」
「そういう意味じゃない!」
しのぶは、きょとんとした。
数秒後、ようやく何かに気づいたのか、自分が抱えている悠真の腕へ視線を落とす。
「……あ」
白い頬が、みるみる赤くなった。
「これ、胸を押し付ける術?」
「今さら気づいたのかよ!」
「おばあちゃん、そういう意味で……」
「どう考えてもそうだろ!」
しのぶは慌てて悠真の腕を放した。勢いよく後ろへ下がり、教卓の反対側まで逃げる。
両手で胸元を押さえ、真っ赤な顔で俯いた。
「ご、ごめんなさい」
「いや……」
「嫌じゃないって言った」
「言ったけど!」
「じゃあ、押し付けてもいい?」
「確認するな!」
しのぶはますます顔を赤くした。けれど、完全に嫌がられたわけではないと分かり、少しだけ安心したようでもあった。
「これが、けーぼうじゅつ」
「漢字を調べるなよ」
「どうして?」
「絶対に学校で検索するな」
「家ならいい?」
「よくない!」
悠真の反応を見て、しのぶはようやく笑った。恥ずかしさは残っている。それでも、笑いをこらえきれないらしい。
「忍びの末裔だからね」
「今は関係ないだろ」
「けーぼうじゅつだよっ」
しのぶは胸を張った。
「ふんす」
「意味を知ったあとで威張るな!」
誰もいなくなった教室に、二人の声が響いた。
忍津家しのぶは、これまで幼なじみにいろいろなものを押し付けてきた。大量のプリント、人前で説明する役目、帰り道や放課後の予定、自分一人では踏み出せないときの最初の一歩。
けれど、本当に押し付けたかったものは、仕事でも役目でもなかったらしい。
「悠真」
「今度は何だよ」
しのぶは教卓の向こうから、まだ赤い顔で悠真を見た。
「帰り道、一緒にお願い」
「それはもう、お願いしなくても一緒だろ」
「うん」
しのぶは教卓を回り、悠真の隣へ並ぶ。今度は身体を寄せすぎず、ただ制服の袖を指先でそっとつまんだ。
「じゃあ、これはお願いじゃないね」
「そうだな」
「一緒に帰りたいだけ」
「ああ」
二人は教室を出た。
文化祭を終えた校舎には、まだ遠くから生徒たちの声が響いている。廊下を歩く二人の距離は、これまでで一番近かった。
忍津家しのぶは、今日も幼なじみに何かをお願いする。そして相良悠真は、今日もやれやれと言いながら、それを引き受ける。
ただし、これから先、しのぶが押し付けてくるものが、仕事や荷物だけとは限らない。
忍びの末裔が覚えたばかりの「けーぼうじゅつ」に、悠真が振り回されるのは、また別のお話。
忍津家さんと相良くんのお話は、ここでおしまい。
この教室、本当に二人きりだったのかな?
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