第08話 「忍津家さんは、一緒に作りたい!」
文化祭まで、あと二週間。
二年三組の教室は、放課後になると普段とは違う場所へ姿を変えていた。机と椅子は廊下側へ寄せられ、床には切りかけの段ボールが並んでいる。教室の後方では黒い模造紙を壁へ貼る作業が進められ、窓際では数人の生徒が暗号に使う札を書いていた。
黒板の中央には、大きな文字でこう書かれている。
『忍者屋敷からの脱出』
その横には、作業内容と担当者の名前が細かく並べられていた。装飾、問題作成、仕掛け、衣装、受付、安全確認。さらに、完了した項目には青い磁石、作業中の項目には黄色、遅れている項目には赤い磁石が付けられている。すべて、忍津家しのぶが考えたものだった。
「忍津家さん、段ボール足りない!」
教室の後ろから声が上がり、しのぶは手元の一覧表を確認した。
「今日使える分は、廊下の奥に三箱あるよ」
「さっき見たけど、なかったぞ」
「美術室へ運ぶ分と間違えて、倉庫の前に置かれてるかも」
「見てくる!」
「二箱だけ持ってきて。残りは明日の壁に使うから」
「了解!」
男子生徒が教室を飛び出していくと、今度は窓際から女子生徒が紙を掲げた。
「忍津家さん、三問目の暗号、難しすぎない?」
「どれ?」
しのぶは机の間を縫うように移動し、問題用紙へ目を通して鉛筆で小さく書き込みを加える。
「最初の文字だけ、赤くした方がいいと思う」
「それだけで分かる?」
「分からなかったら、受付でヒントを渡す」
「ヒントも作るの?」
「もう作ってあるよ」
「早っ」
しのぶは鞄から小さな封筒の束を取り出した。それぞれに、問題番号と難易度が記されている。
「昨日、家で作った」
「いつ寝てるの、忍津家さん」
「普通に寝てるよ」
「普通に寝てる人の仕事量じゃないって」
しのぶは首をかしげた。自分では、必要なことを先に終わらせただけだと思っているらしい。
「忍津家」
教室の前方から悠真が呼び、しのぶが振り返る。
「なに?」
「廊下に出してる机、先生に注意された。通れる幅をもう少し空けろって」
「何センチ?」
「最低でも九十」
「今は?」
「七十くらい」
しのぶは黒板の作業表へ目を向けた。
「装飾班の机を二つ、中に戻せば空くと思う」
「中は作業中だぞ」
「窓際の長机を使えば大丈夫」
「分かった。俺が動かす」
「一緒にお願い」
「お前はこっちを見てろ。呼ばれすぎだ」
「でも、重いよ」
「ほかの奴も呼ぶから」
悠真は近くにいた男子二人へ声をかけ、廊下へ出ていった。しのぶはその背中を見送る。以前なら、自分もついていこうとしたかもしれない。けれど今は、教室のあちこちから名前を呼ばれている。
「忍津家さん、こっちもお願い!」
「今行く」
しのぶはすぐに声のした方へ向かった。
文化祭の準備が始まってから、しのぶを頼る生徒は目に見えて増えた。何を作ればいいのか、材料はどこにあるのか、作業の順番は合っているのか。困ったとき、教室の中で最初に探されるのは文化祭委員ではなく、いつの間にかしのぶになっていた。
それでも、しのぶは人前で指示を出すのが得意になったわけではない。大勢へ向かって声を張ることは、今もできないままだ。だから、一人ずつ話を聞いて必要なことを整理し、教室全体へ伝える必要があれば、悠真へ頼むのだった。
「相良くん」
「今度は何だ?」
廊下から戻った悠真へ、しのぶが紙を差し出す。
「作業を一度止めたい」
「何かあったのか?」
「仕掛けの位置が変わったから、動線を確認したい」
「全員に言えばいいだろ」
しのぶは教室を見渡した。段ボールを切る音、話し合う声、椅子を動かす音。普段より賑やかな教室で、しのぶの声が全員へ届くとは思えない。
「一緒にお願い」
「一緒というか、俺が言うんだろ」
「私は説明するよ」
「分かった」
悠真は教室の中央まで進み、手を叩いた。
「一回、作業止めて! 動線の確認するぞ!」
よく通る声に、ばらばらに作業していた生徒たちが次第に手を止めた。
「忍津家から説明がある」
一斉に視線が集まり、しのぶの肩がわずかに固くなる。悠真はその隣へ立った。
「大丈夫。聞こえなかったら、俺が言い直す」
「うん」
しのぶは眼鏡を押し上げ、手元の見取り図を広げた。
「最初は、入口から右へ進む予定でした。でも、壁を置くと通路が狭くなるので、左回りに変えます」
声は小さい。それでも教室が静かになっているため、十分に届いた。
「二問目を解いたあと、この印のところで一度止まってもらいます。次の組が近い場合は、案内役がここで待たせてください」
「待たせる時間、長くならない?」
女子生徒の問いかけに、しのぶが答える。
「一分以内にする。問題に時間がかかった場合は、受付から無線で伝えて、次の組を入れるのを遅らせる」
「無線なんてあるの?」
「先生に借りられるか確認したよ。二台なら大丈夫だって」
「そこまで済んでるのか」
「それから、暗い場所で転ばないように、床の角へ蓄光テープを貼ります」
「雰囲気、壊れない?」
「足元だけなら目立たないと思う」
続く質問へ、しのぶは一つずつ答えていった。途中で言葉に詰まると悠真が補い、話が脱線すれば本題へ引き戻す。二人の説明が終わる頃には、作業の変更点が全員へしっかりと行き渡っていた。
「じゃあ、配置を直してから再開しよう」
悠真がまとめると、教室に再び音が戻った。しのぶは小さく息を吐く。
「緊張した」
「普通に話せてたぞ」
「相良くんがいたから」
「またそれか」
「聞こえなかったところ、言い直してくれた」
「二回だけな」
「二回も」
しのぶにとっては、十分に大きな助けだったらしい。
***
その日の作業は予定より順調に進み、段ボールの壁が組み上がり、暗号の問題も半分以上が完成した。しかし、終了予定の時刻が近づいた頃、装飾班から困ったような声が上がった。
「これ、全然足りなくない?」
教室の後ろに集められていたのは黒い模造紙だった。壁全体を覆う予定だったが、実際に貼ってみると半分にも届かない。
「注文した枚数、間違えた?」
文化祭委員が焦ったように言う。しのぶは納品書を確認した。
「注文は合ってるよ。予定より壁が増えたから、足りなくなった」
「追加で買えるかな」
「明日なら。でも、予算が少し超える」
「どうする?」
教室の空気が重くなる。順調に進んでいた準備が、ここで止まりかけていた。しのぶは黒い壁と残っている材料を交互に見つめる。床には、段ボールを切ったあとの細長い端材が積まれていた。
「全部を黒くしなくてもいいかも」
しのぶが呟いた。
「どういうこと?」
「段ボールの色を残して、木の板みたいに線を描く。黒い紙は、隠し通路と暗い場所だけに使う」
「忍者屋敷っぽくなる?」
「むしろ、その方が和風に見えると思う」
しのぶは余った端材を壁へ当ててみせた。
「細い段ボールを横に貼れば、柱に見える。紙が足りないところを隠せるよ」
「それ、いいかも」
「予算も増えないし」
「やってみよう!」
止まりかけていた作業が再び動き始める。何人かが端材を集め、別の生徒が茶色の絵の具を用意する。悠真は、その様子を少し離れたところから見ていた。
「さすが裏方の頭領」
声をかけると、しのぶが振り返った。
「頭領じゃないよ」
「みんな、お前の指示で動いてるぞ」
「相談されたから、考えただけ」
「それを頭領って言うんじゃないか?」
「忍びの頭領は、もっと強いよ」
「十分強いと思うけどな」
しのぶは褒められたと気づいたのか、眼鏡を押し上げて俯いた。
「でも、一人じゃできないよ」
「そりゃ文化祭だからな」
「そうじゃなくて」
しのぶは教室の中を見渡した。端材へ線を描く者、壁へ貼る者、配置を調整する者。それぞれが自分の作業を進めている。
「私が考えても、作る人がいないと形にならないから」
「それでいいんだよ」
「相良くんも、伝えてくれる」
「まあな」
「だから、一緒に作ってる」
しのぶは小さく笑った。
「みんなで?」
「うん。みんなで」
それから少し間を置いて、悠真を見る。
「相良くんとも」
「俺だけ別に言う必要あったか?」
「最初から一緒だから」
悠真は返事をしなかった。照れたわけではない。ただ、しのぶにとって自分がクラスの一員である前に、「最初から一緒にいる相手」なのだと、改めて突きつけられた気がした。
準備を終えた頃には、外はすっかり暗くなっていた。片づけを済ませ、生徒たちが順番に教室を出ていく。
「忍津家さん、明日の作業って何だっけ?」
「入口の看板と、衣装の確認」
「材料は?」
「教卓の下にまとめてあるよ」
「了解。明日もよろしく!」
声をかけた生徒が帰っていくのを見送り、しのぶは黒板の作業表へ近づいて、今日終わった項目の磁石を黄色から青へ動かした。
「ずいぶん青が増えたな」
鞄を持った悠真が隣へ立つ。
「予定より早いよ」
「お前が何でも先に用意してるからだろ」
「みんなが動いてくれたから」
「それも、お前が分かりやすくしてるからだ」
「相良くんが説明してくれるから」
「褒め合っても終わらないぞ」
「じゃあ、二人とも頑張った」
「最初からそう言えよ」
しのぶは満足そうにうなずいた。
作業表の端には、明日の予定が細かな字で書かれている。悠真はそれを見て眉を寄せた。
「明日も多くないか?」
「看板、衣装、問題の試験、受付の練習」
「一日で全部やる気かよ」
「できるところまで」
「また帰らなくなるだろ」
「相良くんが止めて」
「それも俺の仕事か?」
「一緒にお願い」
「仕事を増やすなよ」
しのぶは黒板から離れ、鞄を持った。
二人で教室を出て廊下を歩いていると、後ろから文化祭委員の女子が声をかけてきた。
「相良、忍津家さん、明日も頼んだね」
「俺たちだけに押し付けるなよ」
「違う違う。二人がいると安心するってこと」
女子は笑いながら階段を下りていった。悠真が隣を見ると、しのぶはその言葉を何度か頭の中で確かめているようだった。
「二人がいると、安心するって」
「聞こえてたよ」
「私たち、二人で一つだと思われてる?」
「作業の話だろ」
「作業じゃなかったら?」
「何の話になるんだよ」
しのぶは考え込んだが、答えは出なかったらしい。
「分からない」
「なら聞くなよ」
「でも、嫌じゃないよ」
「何が?」
「相良くんと一緒だと思われること」
悠真は足を止めた。しのぶは数歩先へ進んでから振り返る。
「相良くん?」
「お前、最近そういうことを普通に言うよな」
「普通のことだから」
「お前にとってはな」
悠真は追いつき、再び隣を歩いた。しのぶもそれ以上は尋ねなかったが、歩く位置がいつもより少しだけ近い。
文化祭の準備は、まだ終わっていない。作るものも決めることも、いくつも残っている。けれど、しのぶが一人で抱えている仕事は以前より少なくなっていた。
誰かへ任せること、困ったときには助けを求めること、自分の考えを悠真と一緒に届けること。それもまた、しのぶが少しずつ覚え始めた新しい裏方の仕事だった。
「相良くん」
「何だ?」
「明日も、一緒に作ろうね」
「お願いじゃないんだな」
「うん」
しのぶは前を向いたまま答えた。
「相良くんも、作りたいと思ってるから」
勝手に決めるなと言いかけて、悠真はやめた。教室に残してきた段ボールの壁も、完成を待つ暗号も、明日になればまた続きを作る。自分がそこにいることまで、すでに当然のように考えていた。
「まあ、最後まで付き合うよ」
「ありがとう」
二人の背後で、文化祭の準備を終えた教室の扉が静かに閉まる。
忍津家しのぶは、幼なじみに何かをしてもらいたいだけではない。同じものを見て、同じ場所に立ち、同じ時間を使いたい。
その願いはまだ、本人の中でも「一緒にお願い」という言葉にしかなっていなかった。
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