第06話 「忍津家さんは、信じたい!」
忍津家しのぶの言う「忍びの教え」は、たいてい祖母から教わったものだった。
高い場所で無用な危険を冒さないこと。任務の前には周囲の状況を確認すること。目立たずとも、自分にできる仕事を最後までやり遂げること。
悠真には、祖母が孫へ伝えた生活上の心得を、しのぶが「忍びの教え」として受け取っているようにしか思えない。けれど、しのぶは一度も疑ったことがなかった。
自分は忍びの末裔である。祖母がそう言うのだから、きっと間違いない。
「相良くん」
土曜日の午前。自宅の玄関を開けた悠真は、門の前に立っているしのぶを見つけた。
今日は制服ではない。白いブラウスに紺色のスカート。長い黒髪はいつも通り背中へ流れ、眼鏡の上には前髪が少しかかっている。両手には、大きな紙袋を抱えていた。
「何だよ、朝から」
「これ、お願い」
しのぶは紙袋を差し出した。
「また荷物か」
「半分だけ」
受け取ってみると、思ったより重い。中には、小麦粉や砂糖、牛乳の箱が入っていた。
「買い物帰りか?」
「これから行くところ」
「じゃあ、何で材料を持ってるんだよ」
「お母さんに分けてもらった」
「どこへ持っていくんだ?」
「おばあちゃんの家」
忍津家の祖母は、二人の家から歩いて十五分ほどの場所に住んでいる。幼い頃、両親が仕事で家を空けることの多かったしのぶは、学校が終わると祖母の家で過ごしていた。悠真も何度か一緒に遊びに行ったことがある。
「一人で持てただろ」
「持てるよ」
「じゃあ、何で俺を呼んだ」
「一緒に行くから」
「俺も行くことになってるのか?」
「昨日、言ったよ」
「聞いてない」
「帰り際に、おばあちゃんの家へ行くって言った」
「お前が行く予定しか聞いてないぞ」
しのぶは首を傾げた。
「相良くんも来ると思ってた」
「思うなよ」
悠真はため息をついた。けれど、紙袋は返さなかった。
「何を作るんだ?」
「おまんじゅう」
「その材料で?」
「皮は蒸しパンみたいにするって」
「ばあちゃんが作るのか?」
「私が教わる」
「俺は?」
「試食」
「それなら悪くないな」
しのぶが笑う。
二人はそのまま、住宅街を歩き始めた。
***
祖母の家は、古い木造の一軒家だった。門の脇には季節の草花が植えられ、庭には小さな物干し台がある。
玄関へ近づくと、扉が内側から開いた。
「いらっしゃい、しのぶ」
姿を見せた祖母は、白髪を後ろで一つにまとめた、小柄な女性だった。柔らかな笑顔は、しのぶとよく似ている。
「おばあちゃん」
しのぶの声が、学校にいるときより明るくなる。
「材料、持ってきたよ」
「ありがとうねえ」
祖母は悠真へ目を向けた。
「あら、悠真くんも一緒なのね」
「連れてこられました」
「一緒にお願いしたの」
「俺は聞いてませんでしたけど」
「しのぶは、昔から説明が少ないからねえ」
祖母は楽しそうに笑った。
「でも、悠真くんなら来てくれると思ったのでしょう」
「おばあちゃんも分かる?」
「ええ。よく分かりますよ」
しのぶは満足そうにうなずいた。理解者を得たつもりらしい。
「二人とも上がって。もう餡は用意してありますから」
台所には、大きなボウルや蒸し器が並べられていた。
しのぶは手を洗い、エプロンを身につける。祖母から作り方を聞きながら、粉を量り、砂糖と混ぜていく。動作は慎重で、計量器の数字を何度も確かめ、粉の表面まできっちり平らにならす。
「そこまで正確じゃなくても大丈夫だぞ」
横から覗き込んだ悠真が言う。
「同じ大きさにしたいから」
「味は変わらないだろ」
「任務では、小さな違いが結果を分けるよ」
「饅頭作りは任務なのか?」
「おばあちゃんの技を受け継ぐ任務」
「それは大事な任務ねえ」
祖母までうなずく。悠真には、どこまで本気なのか分からなかった。
しのぶが生地を混ぜている間、悠真は餡を丸めるよう言われた。
「俺、試食係じゃなかったのか?」
「作らない人は、たくさん食べちゃ駄目」
「そんな条件、聞いてないぞ」
「今、言ったよ」
「またそれか」
結局、悠真も餡を丸め始めた。
生地ができあがると、今度は餡を包んでいく。しのぶは手のひらで生地を広げ、中央へ餡を置いた。
ところが、生地の端がうまく閉じない。指先にはべたべたと生地がくっつき、包んだはずの餡が横から顔を出した。
「難しい」
「最初はそんなものよ」
祖母が隣で手本を見せる。
しのぶはその手元をじっと見てから、もう一度やってみた。今度は、さっきより形が整っている。
「できた」
「ずいぶん平たいな」
「伏せてるの」
「何からだよ」
「敵の目」
「蒸し器の中に敵はいない」
「油断は禁物だよ」
しのぶは平たい饅頭を蒸し器へ並べた。その隣には、悠真が包んだ歪な饅頭がある。
「相良くんの方が目立つね」
「形が悪いだけだろ」
「陽動に使える」
「食べ物を作ってるんだよな、俺たち」
祖母が笑った。
蒸し器の蓋を閉じると、しばらく待つことになった。祖母が茶を淹れ、三人は居間へ移る。
壁には、古い家族写真が何枚も飾られていた。幼いしのぶが祖母の膝へ座っている写真、庭で水遊びをしている写真、小学校の入学式で少し緊張した顔をしている写真。そのほとんどで、しのぶは祖母の近くにいた。
「忍津家は、小さい頃からおばあちゃん子だったよな」
「うん」
「幼稚園から帰ると、毎日ここに来てた」
「悠真くんも、よく一緒に来てくれましたねえ」
「忍津家が帰してくれなかったので」
「帰っちゃダメとは言ってないよ」
「今も変わらないな」
しのぶは湯飲みを両手で包み、祖母の隣へ座っている。学校で見るより、ずっとくつろいだ顔をしていた。
「しのぶ、学校は楽しい?」
祖母が尋ねた。
「うん」
「お友だちとは、うまくやれていますか?」
しのぶは少し考える。
「みんな、優しいよ。話しかけてくれる」
「それはよかった」
「でも、自分から話すのは、まだ少し苦手」
「無理に上手にならなくてもいいのよ」
祖母はいつもの調子で答えた。
「人の輪の真ん中に立つ人もいれば、少し離れたところから見ている人もいます。どちらが立派ということではありません」
「うん」
「しのぶは、よく見ているでしょう。誰かが困っていることも、誰にも見つからずに残っている仕事も」
「それなら、分かるよ」
「それが、しのぶの得意なことです」
しのぶはうなずいた。
悠真は黙って二人を見ていた。
目立たない仕事を見つけては、「忍びの任務」と呼ぶしのぶ。昔から、こんなふうに祖母に言われてきたのだろう。人前に出るのが苦手でも、それで駄目だとは言われなかった。
なるほど、と悠真は思った。それなら、しのぶが「忍び」を気に入るのも分かる気がした。
「でも、おばあちゃん」
しのぶが言った。
「裏方ばかりじゃ、駄目なときもあるよ」
「そうねえ」
「この前、後輩に相談されたの。私だけだと、うまく話せなかった」
「それで、どうしたの?」
「相良くんにお願いした」
祖母は悠真を見る。
「悠真くんが助けてくれたのね」
「俺は話を聞いただけです。考えたのは忍津家なので」
「二人でやったよ」
しのぶが訂正した。
「私が考えて、相良くんが話したの」
「まあ」
祖母は目を細める。
「昔から、二人はそうでしたねえ」
「昔から?」
「しのぶが何かを見つけて、悠真くんを連れていくのです。悠真くんは文句を言いながら、最後までついていく」
「今と同じですね」
「何も変わってないよ」
「少しは変われよ」
しのぶが悠真を見る。
「変わった方がいい?」
「いや、そういう意味じゃない」
悠真は湯飲みへ口をつけた。祖母は二人を見て笑っている。
「しのぶ」
「なに?」
「人にお願いすることは、悪いことではありませんよ」
「うん」
「でも、お願いした相手が、いつまでもそこにいてくれるとは限りません」
しのぶの手が止まった。祖母は壁の写真へ目をやる。小学生のしのぶが、ランドセルを背負って立っている。
「いなくなるの?」
「誰でも、少しずつ進む道が変わりますからねえ」
しのぶは湯飲みに目を落とした。
「大切な人には、きちんと大切だと伝えないといけません」
祖母は続けた。
「気づかれないことが忍びの美徳でも、大切なものまで見失ってはいけませんよ」
しのぶは黙った。やがて、隣に座る悠真を見る。
「何だよ」
「いなくなる?」
「今すぐはいなくならないよ」
「今すぐじゃなければ?」
「何の話だ」
「相良くんが、違う道に進む話」
悠真は答えに詰まった。
高校二年生の今、卒業後のことはまだ具体的に決めていない。しのぶと同じ進学先になるかどうかも分からない。
「まだ決まってない」
「そう」
しのぶは前を向いた。いつもより返事が短い。
「でも、家は近いだろ」
「うん」
「進路が別でも、会おうと思えば会える」
しのぶが悠真を見る。
「お願いしたら、一緒にいてくれる?」
「内容による」
「無茶じゃなければ?」
「まあな」
いつもと同じ答えで納得したらしく、しのぶは湯飲みを持ち直した。祖母は何も言わず、二人を見ていた。
台所から、蒸し器の鳴る音が聞こえる。
三人で戻り、蓋を開けると、白い湯気の向こうに丸く膨らんだ饅頭が並んでいた。しのぶが作った平たい饅頭も、蒸されるとふっくらしている。
「伏せてたのに、目立ってる」
「膨らんだだけだろ」
「任務失敗」
「饅頭は目立ってもいいのよ」
祖母が笑う。
三人で皿へ移し、少し冷ましてから食べる。しのぶは自分の作った饅頭を半分に割った。中の餡が、片側へ寄っている。
「失敗した」
「味は同じだろ」
悠真が、自分の歪な饅頭を口へ運ぶ。
「うまい」
「本当?」
「ああ」
しのぶは自分の饅頭を見てから、その半分を悠真へ差し出した。
「じゃあ、こっちも食べる?」
「お前の分だろ」
「半分、一緒にお願い」
「食べるのを頼むなよ」
そう言いながら、悠真は受け取った。しのぶも残りを食べる。
祖母はそれを見て、何も言わなかった。
***
帰り道。
空になった紙袋を、今度はしのぶが持っている。
「相良くん」
「何だ?」
「おばあちゃんの話、覚えてる?」
「大切な人には伝えろって話か?」
「うん」
「お前、誰か大切な人がいるのか?」
しのぶの足が止まり、悠真も振り返る。
しのぶは何かを言いかけて、やめた。前髪の奥で、目だけが迷っている。
「まだ、分からない」
「何だそれ」
「でも、見失わないようにする」
しのぶはまた歩き出し、悠真の隣へ並んだ。
「相良くん」
「今度は何だよ」
「これからも、一緒にお願い」
「何を?」
「いろいろ」
「大ざっぱすぎるだろ」
「まだ決まってないから」
「決まってから頼めよ」
「決まってなくても、お願いしておきたい」
悠真は息を吐いた。
「無茶じゃなければな」
「うん」
しのぶは満足そうにうなずいた。
祖母の言葉を、しのぶがどこまで理解したのかは分からない。ただ、隣にいる相手を見失ってはいけないことだけは、覚えたらしい。
忍津家しのぶは、祖母の教えを信じている。忍びの末裔であることも、目立たず働くことの尊さも、そして、大切なものを逃がしてはいけないという新しい教えも。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
評価、感想を頂けるととても嬉しいです!




