第04話 「忍津家さんは、一緒に帰りたい!」
放課後、忍津家しのぶは帰り支度を終えていた。
教科書は時間割の順番に鞄へ収まり、机の中にも忘れ物はない。窓の鍵が閉まっていることまで確認し、あとは席を立つだけだった。それなのに、帰ろうとはしない。
窓際の席に座ったまま、教室の前方をじっと見ている。視線の先では、相良悠真がクラスメイトに呼び止められていた。
「相良、今日の数学の課題って、どこまでだっけ?」
「教科書の六十四ページ。三番から八番まで」
「プリントもあったよな?」
「いや、あれは来週まで猶予がある」
「助かった。ありがとう」
質問した男子が教室を出ていく。
悠真は自分の鞄を肩へ掛け、ようやくしのぶの席へ目を向けた。
「何だよ」
「なにが?」
「さっきから見てただろ」
「待ってた」
「またか」
しのぶがじっとしているときは、大抵何かを頼む相手が来るのを待っている。その相手が誰なのかは、考えるまでもなかった。
「今度は何をどうしたんだ?」
悠真が尋ねると、しのぶは立ち上がった。
「帰り道、一緒にお願い」
「一緒に帰ろう、でいいだろ」
「同じじゃないの?」
「最近、そればっかりだな」
しのぶは自分の鞄を持ち、悠真の隣へ並んだ。
二人で教室を出る。昇降口へ向かう途中、悠真は隣を歩くしのぶへ視線を落とした。
「何か手伝うような荷物はないのか?」
「ないよ」
「高い場所の物を取る予定は?」
「ない」
「職員室にも行かない?」
「行かないよ」
「じゃあ、本当に帰るだけか」
「途中まで」
しのぶの答えに、悠真の足が止まった。
「途中まで?」
「寄るところがあるから」
「先に言えよ」
「今、言ったよ」
「教室で言え」
しのぶは上履きを脱ぎながら、小さく首をかしげた。言う時期が少し違うだけで、同じ話だと思っているらしい。
二人は校門を出た。
学校から自宅までは、歩いて二十分ほどかかる。普段は住宅街を通る近道を使うが、その日のしのぶは駅前へ続く広い通りへ向かっていた。
「そっち、遠回りだぞ」
「うん」
「寄るところって、駅前か?」
「商店街」
「何を買うんだ?」
尋ねられたしのぶは、すぐには答えなかった。鞄の持ち手を握り直し、歩道の先へ視線を向ける。
「状況を確認する」
「何の?」
「新しくできたお店」
「店の状況?」
「人の出入りとか、商品の種類とか」
「普通に店へ行きたいだけじゃないのか」
しのぶの歩みが、ほんの少しだけ鈍くなった。
「調査だよ」
「何の調査だよ」
「地域に新しくできた施設は、確認しておいた方がいいって、おばあちゃんが言ってた」
「またばあちゃんか」
「忍びは、周辺の状況を把握しておかないといけないから」
「今度は何屋だ?」
「甘味処」
「忍びに甘味処の情報が必要か?」
「糖分は疲労回復に必要だよ」
「そこだけ妙に現実的だな」
悠真は呆れながらも、しのぶが向かっている店に心当たりがあった。
一週間ほど前、商店街の入り口に新しい店ができた。和菓子と洋菓子を組み合わせた甘味が売りらしく、店頭には色鮮やかな写真が並んでいる。放課後になると高校生が列を作り、休日には家族連れも多い。
「一人で入りづらかったのか?」
「入れるよ」
「なら、俺はいらないだろ」
「調査は二人一組が基本だから」
「そうなのか?」
「たぶん」
「ばあちゃんに確認しろよ」
しのぶは返事をせず、少しだけ歩調を速めた。その反応で、だいたいの事情は分かる。
一人で入れないわけではない。けれど、賑わっている店へ自分から入るには、少し勇気が必要なのだろう。
しのぶは、できないことが多いわけではない。むしろ勉強も運動も人並み以上にこなせる。ただ、人の視線が集まる場所や、自分から誰かの輪へ入っていくことを苦手としていた。
悠真が隣にいれば、その最初の一歩を踏み出せる。
「それで、俺に何をお願いするんだ?」
「一緒に入って」
「それだけ?」
「注文も一緒にお願い」
「注文くらい自分でしろ」
「ちゃんと言うよ」
「じゃあ、何で一緒なんだ」
「相良くんが先に注文すれば、やり方が分かるから」
「初めてのお使いかよ」
***
商店街へ着くと、甘味処の前には十人ほどの列ができていた。白い暖簾の奥から、甘い香りが漂っている。
しのぶは店頭の看板を見上げた。季節限定の苺大福、抹茶のソフトクリーム、小豆と生クリームを挟んだどら焼き。どれも写真付きで紹介されている。
しのぶの視線は、一番下にある抹茶クリームあんみつで止まった。
「それが食べたいのか?」
「調査対象として興味がある」
「食べたいんだな」
「味を知らないと、正確な報告はできないから」
「誰に報告するんだよ」
「おばあちゃん」
「ばあちゃん、ただ感想を聞きたいだけだろ」
列の最後尾へ並ぶ。
しのぶは人の流れを邪魔しないよう、悠真の斜め後ろに立った。店員の声や、注文を相談する客たちの声が飛び交っている。
悠真は振り返った。
「忍津家」
「なに?」
「そこにいると、次の人が並びづらいぞ」
しのぶは周囲を見回し、悠真の隣へ移動した。肩が軽く触れそうな距離で並ぶ。
すぐ離れるかと思ったが、しのぶはそのままだった。
「近くないか?」
「後ろの人の邪魔になるから」
「前は空いてるだろ」
「列を乱すと、敵に隙を見せる」
「甘味処にどんな敵がいるんだよ」
「限定品を狙う人」
「それはただの客だ」
しのぶは真剣な顔で看板を見ていた。
列が少しずつ進む。店頭へ近づくにつれて、しのぶの口数は減っていった。
「緊張してる?」
「してないよ」
「じゃあ注文、先にしろよ」
「相良くんが先」
「やっぱり緊張してるじゃないか」
「手順を確認してるだけ」
「店員に食べたいものを言って、金を払うだけだぞ」
やがて二人の順番が来た。
悠真は店員に向かって、抹茶ソフトクリームを一つ注文する。支払いを終えると、隣のしのぶへ場所を譲った。
しのぶは前へ出て、眼鏡の位置を直した。
「抹茶クリームあんみつを、一つお願いします」
声は小さい。それでも、店員にはきちんと届いた。
商品を受け取ったしのぶは、少しだけ誇らしげに悠真を見た。
「むふー」
「見てたよ」
「相良くんが先にやったから」
「俺がいなくてもできただろ」
「できたかもしれないけど、いた方が早いよ」
「プリントを運んだときも同じこと言ってたな」
「一回で終わるから」
二人は店の脇にある休憩用のベンチへ座った。
しのぶは透明な容器の蓋を開ける。抹茶の寒天、白玉、粒あん、生クリームが整然と並んでいた。
しばらく眺めてから、小さなスプーンで寒天をすくって一口食べる。眼鏡の奥の目が、わずかに大きくなった。
「うまい?」
「これはすごい」
「調査結果は?」
「もう一回食べた方が正確になると思う」
「気に入っただけだろ」
しのぶは二口目を食べた。
学校では、いつも周囲の様子を気にしている。誰かが困っていないか、頼まれた仕事を忘れていないか。目立たないようにしながら、それでも教室全体を見ている。
けれど今は、甘味に夢中になっていた。その表情は、教室にいるときよりも柔らかい。
「そんなに食べたかったなら、最初から言えばよかったのに」
「言ったよ」
「調査したいとしか聞いてない」
「一緒に来てほしいって言った」
「それは聞いた」
しのぶはスプーンを止めた。
「一緒に来てほしいって言えば、同じじゃないの?」
悠真は答えかけ、口を閉じた。
しのぶの中では、甘味処へ行きたいことと、悠真に一緒に来てほしいことは、別々のお願いなのかもしれない。あるいは、後者の方が大切なのかもしれなかった。
「今度からは、店に行きたいって言え」
「そうしたら、一緒に来る?」
「予定がなければな」
「じゃあ、お願いする」
「今日みたいに忍びの任務とか言わなくていいから」
「でも、忍びの調査も大事だよ」
「そこは譲らないんだな」
しのぶはあんみつを食べ終えると、満足そうに蓋を閉じた。
「相良くんは、それだけで足りる?」
「ソフトクリームだけで十分だよ」
「一口食べる?」
しのぶは自分の容器を差し出しかけ、すでに空であることに気づいた。
「もうないだろ」
「食べ終わってた」
「夢中になりすぎだ」
「おいしかったから」
しのぶは少しだけ恥ずかしそうに、空の容器を袋へ戻した。
***
帰り道。
商店街を離れ、いつもの住宅街へ入る。夕方の道には、二人の足音だけが静かに続いていた。
「相良くん」
「今度は何だよ」
「今日、ありがとう」
「店に付き合っただけだろ」
「一人でも行けたと思う」
「なら、次から一人で行けるな」
「でも」
しのぶは一度言葉を切り、前髪の奥から隣を歩く悠真を見上げる。
「相良くんと一緒だと、行ける場所が増えるね」
悠真は足を止めそうになった。
しのぶは何気なく言っただけなのだろう。そのまま前を向き、いつもと変わらない歩調で進んでいる。
「それ、一人じゃ行けない場所が多いって意味か?」
「少し違うよ」
「じゃあ、どういう意味だ?」
しのぶはしばらく考えた。
「一人でも行けるけど、相良くんと行きたい場所が増える」
今度こそ、悠真の足が止まった。
数歩先で、しのぶも立ち止まる。
「相良くん?」
「お前、そういうことを普通に言うよな」
「変だった?」
「変じゃないけど」
悠真は視線を逸らし、再び歩き出した。
「帰るぞ」
「うん」
しのぶが隣へ追いつく。肩が触れそうな距離だったが、悠真は何も言わなかった。
「相良くん」
「まだ何かあるのか?」
「次は、駅前のクレープ屋さんを調査したい」
「調査じゃなくて、食べに行きたいって言え」
「クレープ屋さんに行くの、一緒にお願い」
「もう次の予定を決めるのかよ」
「忘れないように」
「忘れるのはお前だろ」
「相良くんが覚えてて」
悠真は呆れたように息を吐いた。それでも、断りはしなかった。
しのぶが押し付けてくるものは、仕事や雑用だけではないらしい。一緒に歩く時間や、これから行きたい場所まで、当然のように悠真へ預けてくる。
それが面倒かと聞かれれば、悠真にも答えは分からない。ただ、次に駅前を通るとき、クレープ屋を探してしまう程度には、そのお願いを覚えているのだろう。
「来週なら空いてる」
「本当?」
「調査するんだろ」
「うん」
しのぶは嬉しそうにうなずいた。
忍津家しのぶは、今日も幼なじみにお願いをする。けれど、これまでのお願いとは少しだけ違う。
何かをしてほしいのではなく、ただ同じ場所へ行きたい。
その違いに、二人はまだ気づけていなかった。
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