第03話 「忍津家さんは、忍びの末裔!」
忍津家しのぶは、運動が苦手そうに見える。
身長は百四十八センチ。黒い前髪は眼鏡の上へかかり、体育の授業が始まる前から、なるべく目立たない場所に立っている。準備運動では列の後ろ、教師が説明している間も、ほかの生徒の陰に半分ほど隠れていた。
いかにも、運動より教室で本を読んでいる方が似合いそうな少女だった。少なくとも、二年三組の大半はそう思っていた。
「次、忍津家」
体育教師に名前を呼ばれ、しのぶは静かに前へ出た。
本日の授業は、体力測定の続きである。校庭の隅には、ソフトボール投げの計測用に白い線が引かれていた。
しのぶはボールを受け取ると、眼鏡の位置を直した。
「眼鏡、大丈夫か?」
「はい」
「外してもいいぞ」
「見えなくなるので」
「そうか。無理に遠くへ飛ばそうとしなくていいからな」
教師は、しのぶの細い腕を見ながら言った。周囲で順番を待っている生徒たちも、似たような視線を向けている。
しのぶは気にした様子もなく、白線の手前に立った。
数歩の助走から、小柄な身体がしなやかにひねられる。次の瞬間、放たれたボールは高く浮かぶことなく、鋭い軌道で校庭を横切った。
地面へ落ちたのは、女子の平均記録を大きく越えた先だった。
見守っていた生徒たちが、そろって黙る。
「……計測係、今の何メートル?」
教師が尋ねると、計測係の生徒が巻き尺を確認した。
「三十二メートル」
「えっ」
「すご」
「野球部の女子より飛んでない?」
声が上がる中、しのぶは眼鏡を押し上げた。
「狙ったところより、少し右でした」
「距離よりそっちを気にするのかよ」
列の後ろから相良悠真が突っ込んだ。
しのぶは彼を見て、わずかに首をかしげる。
「的を外したから」
「的なんてないだろ」
「あそこの白い小山」
ボールが落ちた付近には、ライン引きからこぼれた石灰の小さな山があった。
「まさか、あれを狙ったの?」
近くにいた女子が聞く。しのぶは小さくうなずいた。
「少し外れたけど」
「少しどころか、ほとんど当たってない?」
「忍津家さんって、運動できるんだ」
感心するクラスメイトたちに囲まれ、しのぶは視線を落とした。注目されること自体は、やはり苦手らしい。
「忍びの末裔だから」
それでも、少しだけ胸を張って答えた。
周囲の空気が止まる。
「……忍び?」
「忍者ってこと?」
「うん」
しのぶは真剣だった。冗談を言った顔ではない。
誰も反応を決めかねている中、悠真がため息をついた。
「正確には、自称な」
「自称じゃないよ」
「証拠がないだろ」
「おばあちゃんが言ってたから」
「それを自称って言うんじゃないか?」
しのぶは不満そうに悠真を見た。しかし、強く反論するより先に次の生徒が呼ばれたため、列の後ろへ戻っていく。
その後も、しのぶは周囲の予想を裏切り続けた。
短距離走では合図と同時に滑るように飛び出し、五十メートルの記録は女子ではクラス一位。立ち幅跳びでも、小柄な身体からは想像できない距離を飛んだ。
ただ、反復横跳びだけは、なんだか調子が悪そうだった。記録を見たしのぶは、わずかに眉を下げる。
「これは、仕方ない」
「何が?」
「なんでもない」
どの種目でも、しのぶは歓声を浴びるたびに居心地が悪そうに俯いた。けれど、記録を確認するときだけは、眼鏡の奥の目が少しだけ輝いていた。
「本当に運動できるんだな」
授業を終え、教室へ戻る途中。悠真が声をかけると、しのぶは隣を歩きながら答えた。
「忍びの末裔だから」
「それ以外の説明はないのか」
「小さい頃から、おばあちゃんに教わったよ」
「何を?」
「走るときは足音を立てない。投げるときは、相手じゃなくて逃げ道を狙う。高い場所から飛び降りる前に、着地点を確認する」
「最後のは普通に大事だな」
「忍びの心得だよ」
「ばあちゃんの生活指導じゃないのか?」
しのぶは足を止め、眼鏡越しにじっと悠真を見上げる。
「おばあちゃんを疑ってる?」
「疑ってるというか……」
悠真は言葉を選んだ。
しのぶが祖母を慕っていることは、昔から知っている。両親が忙しい時期、しのぶの面倒を見ていたのは主に祖母だった。
転んで泣けば背中をさすり、失敗して落ち込めば、忍びの修行だと励ました。人前で話せずに俯くしのぶへ、目立たないことは悪いことではないと教えたのも祖母である。
しのぶにとって、祖母の言葉は単なる昔話ではない。
「忍者が本当かどうかは知らないけど、ばあちゃんがお前にいろいろ教えたのは本当だろ」
「うん」
「なら、それでいいんじゃないか」
「忍びの末裔も本当だよ」
「そこは譲らないんだな」
しのぶは当然だという顔で歩き出し、悠真もその隣へ並んだ。
***
教室へ戻ると、担任の高橋先生がしのぶの席の近くに立っていた。
「忍津家、ちょうどよかった」
呼びかけられたしのぶの足が止まる。
「放課後、少し時間はあるか?」
「……放課後?」
「ああ、あとで職員室に来てほしい」
その言葉を聞いた瞬間、しのぶは悠真を見た。眼鏡の奥の目が、わずかに揺れている。
「何か頼まれるんだろうか」
悠真が小声で言う。
「分からない」
「悪いことはしてないだろ」
「体育の時間、並ぶのが遅かった」
「それで呼び出しはないだろ」
「反復横跳び、ダメだった……」
「いや、関係ないだろ」
高橋先生は二人の会話に気づかず、教卓の方へ戻っていった。
しのぶは自分の席へ座ったが、その後も落ち着かない様子だった。授業中は、いつもなら一度で取れるノートを二度も鞄から落とし、昼休みには箸でつまんだ卵焼きを弁当箱へ戻す。
「何でそんなに気にしてるんだよ」
向かいの席へ座った悠真が尋ねる。
「先生に呼ばれること、あまりないから」
「普通に頼み事じゃねぇの?」
「先生は、叱る前に話があるって言うこともあるよ」
「何をした心当たりがあるんだ」
しのぶは考え込んだ。
「朝、誰もいない教室に入った」
「登校しただけだろ」
「窓の鍵を開けた」
「いつものことだな」
「こぼれてた石灰で、小さな山を作った」
「あれ、お前だったのかよ」
しのぶは答えず、卵焼きを口へ運んだ。
それでも不安は消えなかったらしい。放課後になると、しのぶは担任に見つからないよう、教室の後方から廊下へ出た。
「おい、忍津家」
悠真が声をかける。
しのぶは振り返らず、廊下の角を曲がった。足音がほとんど聞こえず、悠真が追いかけたときには、すでに姿が消えていた。
「本当に気配を消すなよ」
呆れながら階段へ向かう。
しのぶの行動は、ある程度予想できた。人の多い昇降口には行かず、職員室の近くも避ける。校舎裏へ出るには昇降口を通る必要があるため、残るのは特別教室の並ぶ旧校舎側だった。
悠真が廊下を進むと、わずかに開いた用具倉庫の扉が目に入った。
「忍津家」
返事はない。悠真は扉へ手をかけた。
「いないなら開けるぞ」
「待って」
扉の隙間から、小さな声が聞こえた。
「やっぱりいるじゃないか」
「声が大きい」
「教師から逃げるなよ」
「逃げてない。隠れてるだけ」
「もっと悪いだろ」
悠真は倉庫へ入った。中には掃除用具や折り畳み机が詰め込まれ、人一人が立てる場所も限られている。
奥へ進むと、モップの陰にしのぶが立っていた。
「何してるんだ」
「気配を消してる」
「眼鏡が光ってるぞ」
しのぶは慌てて顔を伏せた。
「そういう問題じゃない」
「相良くんも隠れて」
「何で俺まで」
「廊下にいたら、ここにいるって分かる」
「俺はお前を連れ戻しに来たんだよ」
そのとき、廊下から足音が聞こえた。
しのぶが悠真の袖をつかみ、倉庫の奥へ引く。二人の身体が、折り畳み机と棚の隙間に収まった。
「狭い」
「静かに」
「これ、見つかったら余計に怒られるぞ」
しのぶは唇の前へ人差し指を立てた。
すぐ近くを誰かが通り過ぎる。しのぶは息を潜めていて、悠真の袖をつかむ指には思いのほか力が入っていた。
忍びの末裔を名乗る割に、教師へ呼ばれることは随分と怖いらしい。
足音が遠ざかると、悠真は小声で言った。
「もう行ったぞ」
「まだ分からない」
「お前、いつまで隠れる気だ」
「先生が帰るまで」
「長期戦を覚悟するな」
倉庫の扉が開いたのは、その直後だった。
「忍津家、こんなところにいたのか……って、相良も何をしてるんだ?」
高橋先生が呆れた顔で立っている。しのぶは悠真の袖をつかんだまま固まった。
「俺は迎えに来ただけです」
「そうか。忍津家」
「……はい」
「頼みたかったのは、来月の学校説明会のことだ」
しのぶが恐る恐る顔を上げる。
「説明会?」
「来校者へ配る資料の準備を手伝ってほしい。いつも頼んだことを丁寧にやってくれるし、忍津家なら任せられると思ってな」
叱られる話ではなかった。それどころか、頼られていた。
しのぶはしばらく黙っていたが、やがて袖をつかんでいた手を放した。
「人前に出ますか?」
「いや。資料の確認と封入作業が中心だ」
しのぶは小さく息を吐いた。
「それなら、頑張れます」
「助かるよ。詳しい話は明日する」
高橋先生はそう言い残し、倉庫を出ていった。
しのぶも続こうとしたが、悠真はその背中へ声をかけた。
「忍津家」
「なに?」
「呼ばれた理由、予想と全然違ったな」
「うん」
「逃げる必要なかっただろ」
「結果としては」
「結果論で済ませるなよ」
しのぶは少しだけ気まずそうに目を逸らした。
「でも、見つかるまでは隠れられたよ」
「見つかってるだろ」
「相良くんが来なければ、もう少し隠れられた」
「俺のせいにするな」
しのぶは倉庫を出ると、眼鏡を押し上げた。
「忍びの末裔としては、まだ修行が足りなかった」
「そこを反省するのかよ」
「次は気をつける」
「次を作るな」
二人で教室へ戻る廊下を歩く。しのぶは教師から頼られたことを、少し嬉しく思っているらしく、歩調が先ほどよりも軽かった。
「相良くん」
「今度は何だよ」
「明日、先生の話を聞くの、一緒にお願い」
「お前一人で聞けるだろ」
「大事な任務だから」
「俺は関係ない」
「そばにいるだけでいいよ」
悠真は足を止めた。
しのぶも数歩先で振り返る。前髪の奥に見える目は、何の含みもなく悠真を待っていた。
「……分かったよ」
「ありがとう」
しのぶは小さく笑い、再び歩き出す。
忍津家しのぶが、本当に忍びの末裔なのかは分からない。ただ、誰かに気づかれない場所で働くこと、頼られれば自分にできることを最後までやり遂げること、そして困ったときには幼なじみを巻き込むこと。
少なくとも、その三つだけは、祖母から立派に受け継いでいるようだった。
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