第02話 「忍津家さんは、気づかれない!」
忍津家しのぶは、気づかれない。
朝、誰よりも先に登校して窓を開けていても、黒板の隅に残っていた日付を書き直しても、床に落ちていた消しゴムを拾って持ち主の机へ戻しておいても。
誰かが教室へ入ってくる頃には、しのぶは窓際の自分の席に座り、何事もなかったように本を読んでいる。だから、誰も気づかない。少なくとも、本人はそう思っていた。
「忍津家」
朝のホームルームが終わると、相良悠真が一冊のノートを手にやってきた。
「これ、お前のだろ」
「うん」
しのぶは差し出されたノートを受け取る。表紙には、整った文字で『古典文法まとめ』と書かれていた。
「どこにあった?」
「俺の机の上」
「置いたから」
「何で?」
「昨日、古典の先生に当てられたとき、助動詞の活用が分からなかったでしょ」
「見てたのかよ」
「前の席だから、見えるよ」
しのぶは悠真の前の席だ。昨日の授業で、悠真が黒板の前で考え込み、結局よく分からないまま答えたところまで見られていたらしい。
「だからって、勝手に置くなよ」
「いらなかった?」
「いらなくはないけど」
悠真がノートを開く。授業で扱った範囲が見やすくまとめられ、間違えやすいところには付箋が貼られていた。
数ページめくったところで手が止まる。昨日、自分が間違えた箇所にだけ赤い線が引いてある。
「これ、俺用にまとめ直した?」
「少しだけ」
「何分かかった?」
「二十分くらい」
「そういうのを先に言えよ」
「言ったら、受け取らないかもしれないから」
「俺を何だと思ってるんだ」
「遠慮する人」
「お前にだけは言われたくない」
しのぶは首をかしげた。心当たりがないらしい。昨日の朝、大量のプリントを悠真へ差し出したのは誰だったのか。
「これ、借りていいのか?」
「うん。そのつもりでまとめたから」
「じゃあ借りる。ありがとうな」
「うん」
しのぶは眼鏡を押し上げ、自分の席へ戻った。
悠真がノートを鞄へ入れようとした、そのとき、横から手が伸びてきた。
「相良、それって忍津家さんのノート?」
同じクラスの女子だった。
「そうだけど」
「ちょっと見せて」
「何で俺の許可なんだよ。本人に聞けよ」
女子はしのぶへ顔を向ける。
「忍津家さん、私も見せてもらっていい?」
「いいよ」
すると、その後ろにいた別の生徒まで寄ってきた。
「何々、試験対策?」
「忍津家さんの古典ノート」
「見たい。前の小テスト、忍津家さんのまとめのおかげで助かったんだよね」
「俺のためのノートなんだけど?」
「相良なら、忍津家のノート見せてもらえよ」
「何でお前が決めるんだ」
ノートはあっという間に悠真の手を離れ、教室の中央へ運ばれていった。しのぶは自分の席に座ったまま、それを眺めている。
「取り返さなくていいのか?」
「みんなで使った方がいいから」
「俺用じゃなかったのかよ」
「相良くんが最初」
「その言い方なら、少しは特別っぽいな」
しのぶが瞬きをする。
「相良くんは、昨日間違えてたから」
「特別扱いの理由は嬉しくないな」
悠真が肩を落としたところで、教室の後ろから声が上がった。
「誰か、ホチキス知らない?」
文化委員の男子が、机の上を探している。
「昨日までここにあったんだけど」
「赤い箱の中」
しのぶが答えた。
「赤い箱?」
「教卓の下にあるよ」
男子が教卓の下を覗き込む。
「あった。ありがとう、忍津家さん」
「何で場所を知ってるんだ?」
悠真が尋ねる。
「昨日、針が切れてたから補充した」
「誰かに頼まれたのか?」
「誰も」
「何で?」
「使えないと困るから」
しのぶはきょとんとしていた。
その数分後、今度は窓際の掲示物が剥がれかけているのを見つけ、鞄から透明なテープを取り出した。下の方はすぐに直せたが、問題は上の角だ。
しのぶは背伸びをする。届かない。一度踵を下ろしてもう一度試してみたものの、やっぱり届かなかった。
「相良くん」
「見てたよ」
「これ、お願い」
「はいはい」
悠真はテープを受け取ると、剥がれた角を貼り直した。
「ありがとう」
「こういうときは、素直に人を呼ぶんだな」
「高い場所で無用な危険を冒さない」
「またばあちゃんの教えか」
「忍びは、任務の途中で怪我をしないから」
「忍びなら壁くらい登れそうだけどな」
「学校の壁を登ったら怒られるよ」
「そこは常識的なんだな」
しのぶは貼り直された掲示物を見上げ、満足そうにうなずいた。
その後も、教室のあちこちでしのぶの手が動いていた。提出物が机の端に置かれたままなら持ち主へ声をかけ、欠席者の机にプリントが積まれていれば教科順に揃えておく。雑巾が足りなければ、昼休みに職員室へ行く。
誰かに頼まれたわけではない。しのぶが見つけて、しのぶがやっているだけだった。
「お前、よく見てるよな」
***
昼休み。
悠真は購買で買ってきたパンを机に置きながら言った。しのぶの机には、小さな弁当箱が広げられている。
「何を?」
「教室のこと。ホチキスとか、掲示物とか」
「見えるから」
「見えても、普通はいちいちやらないだろ」
「困る人がいるかもしれないから」
「それで自分がやるのか?」
「誰かがやらないと終わらないよ」
しのぶは卵焼きをつまみ、口へ運ぶ。
「忍びは、気づかれないうちに任務を終わらせるものだって、おばあちゃんが言ってた」
「また忍びの教えか」
「大事なことだよ」
「じゃあ、誰にも気づかれなくていいのか?」
「うん」
返事は早かった。
「終わってるなら、それでいいから」
悠真はパンの袋を開けながら、教室を見回す。古典のノートはまだ何人かの生徒の間を回り、文化委員の男子は補充されたホチキスで資料を綴じている。貼り直された掲示物の前では、二人の女子が行事予定を見ていた。
「それにしては、お前、よく頼られてるけどな」
「私が?」
「気づいてないのかよ」
悠真が古典のノートへ視線を向ける。ちょうど一人の女子が、こちらへ戻ってきた。
「忍津家さん、ありがとう。すごく分かりやすかった」
「役に立ったならよかった」
「これ、コピーしてもいい?」
「うん」
「今度、数学のノートも見せてほしい」
「私のでよければ」
女子が離れると、入れ替わるように今度は文化委員の男子がやってきた。
「忍津家さん、針まで補充してくれてたんだな。助かった」
「次に切れたら困るから」
「ほんと気が利くよね」
男子も戻っていく。
しのぶは箸を持ったまま、悠真を見た。
「何?」
「今のだよ」
「何が?」
「お前が思ってるより、みんな見てるってこと」
しのぶは教室を見渡した。ちょうど目が合ったクラスメイトが、こちらへ手を振る。
しのぶは一瞬止まってから、手を振り返した。
「気づかれてた?」
「結構な」
「忍びとしては、修行不足かも」
「そういう結論になるのかよ」
しのぶは少し考える。
「でも、困ってないなら大丈夫」
「お前らしいけどさ」
「相良くんも困ってない?」
「何で俺?」
「古典のノート」
「ああ」
悠真は、いまだ帰ってこないノートを見る。
「むしろ、俺が一番困ってるかもしれない」
「もう一冊作る?」
「二十分かけて?」
「今度は十五分でできると思う」
「そこじゃない。お前が大変だろ」
「でも、相良くんが困ってるから」
しのぶは真顔だった。悠真はパンを一口かじる。
「放課後、戻ってきたノートを一緒に見る。それでいい」
「一緒に?」
「俺が覚えるまで付き合ってくれ」
しのぶの目が丸くなり、少しして口元が緩む。
「うん。任せて」
「何だか嬉しそうだな」
「頼られたから」
悠真は一瞬だけ黙った。
「……そっか」
「うん」
「忍津家さん、英語のノートもお願いしていい?」
教室の向こうから声が飛んでくる。しのぶは顔を上げた。
「うん。明日でいいなら」
「助かる!」
しのぶはうなずき、また弁当へ視線を戻した。悠真が息を吐く。
「また引き受けてる」
「頼られたから」
「無理するなよ」
「大丈夫。裏方なら、頑張れるから」
そう言って、しのぶは残っていた卵焼きを口に入れた。
教室の向こうでは、まだ誰かがしのぶのノートを開いている。
しのぶはそれを気にする様子もなく、次のおかずへ箸を伸ばした。
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