第01話「忍津家さんは、お願いしたい!」
忍津家しのぶは、朝から教室の隅で途方に暮れていた。正確には、そう見えた。
窓際にある自分の席の横に立ち、両腕には大量のプリント。机の上には何冊ものファイルが積み重なっている。黒い前髪が眼鏡の上へかかり、伏せた瞳を半分ほど隠していた。小柄なしのぶが抱えるには、どう見ても多すぎる量だ。
けれど、助けを求めて辺りを見回す様子はない。
朝のホームルームまでは、まだ時間があった。登校している生徒もまばらで、友人と話している者もいれば、机に突っ伏して眠っている者もいる。誰も、しのぶの方を気にしていなかった。
しのぶも、それで困っている様子はない。ずれてきたプリントの端を顎で押さえ、落ちないよう器用に揃えながら、教室の前の扉を見ていた。
やがて、その扉が開く。
「相良くん」
しのぶはすぐに歩き出した。
「おはよう、忍津家」
相良悠真は教室へ入るなり、自分へ迫ってくる紙の山を見て足を止める。
「何だ、それ」
「これ、お願い!」
しのぶは返事も待たず、抱えていた束を差し出した。
「俺、まだ鞄も置いてないんだけど」
「待ってる」
「そういうことじゃない」
悠真はため息をついたが、驚きはしなかった。
二人は物心がつく前からの幼なじみだ。幼稚園から高校までずっと一緒で、家も歩いて数分。しのぶが何かあるたび悠真のところへ来るのは、昔から変わらない。
「どこへ持っていくんだ」
「職員室」
「全部?」
「プリントをお願い。私はファイルを持つ」
「そっちの方が重くないか?」
「持ちやすいから大丈夫」
しのぶはそう答えると、机に積んでいたファイルを両腕で抱え上げた。
「一緒に持っていくのか」
「うん。これ、一緒にお願い」
「だったら最初からそう言えよ」
「最初に言ったよ」
「最初は『これ、お願い』だっただろ」
「同じじゃないの?」
「だいぶ違う」
しのぶは首をかしげた。本人の中では、たぶん同じなのだろう。
悠真が鞄を置くのを待ってから、二人は教室を出た。
***
プリントには、教科ごとに色の違う付箋が貼られていた。提出先の教師名と部数まで書かれていて、それぞれの束には一覧表も添えられている。
「これ、忍津家が整理したのか?」
「昨日、先生に頼まれたから」
「何枚あるんだよ」
「二百八十四枚。ファイルは十二冊」
「数えたのか」
「抜けがあったら困るから」
しのぶは何でもないことのように答えた。
こういう作業になると、妙に細かい。大勢の前で話すのは苦手なくせに、誰も見ていないところでは手を抜かない。資料をまとめるのも、足りないものを探すのも、最後まできっちりやる。
今回も面倒なところは全部終わっていて、悠真が頼まれたのは、持っていくことだけだ。
「相良、朝から大変そうだな」
階段の前で、同じクラスの男子生徒とすれ違った。
「忍津家に押し付けられた?」
「本人も持ってるだろ」
悠真が答えると、男子生徒はしのぶの腕に抱えられたファイルを見る。
「でも、相良が来なかったら?」
「二回に分ける」
しのぶが答えた。
「そこはほかの誰かに頼めよ」
「頼んだよ」
「相良にだけどな」
「相良くんが来ると思ってたから」
「ほかの奴もいただろ?」
悠真が口を挟むと、しのぶは黙った。眼鏡の奥で、目が泳ぐ。
「ほら、やっぱり相良に押し付けてるじゃん」
「押し付けてない」
しのぶはすぐに否定した。
「ちゃんとお願いしたから」
「相良、返事した?」
「いや」
「でも持ってくれたよ」
「はいはい、ごちそーさま」
男子生徒は笑いながら先へ行ってしまった。
しのぶはその背中を見送り、腕の中のファイルへ目を落とす。
「私、相良くんに押し付けた?」
「気にしてたのか」
「押し付けは、よくないと思う」
「別に押し付けられてないよ。嫌なら断る」
「断らないよね」
「無茶じゃなければな」
悠真は隣を歩くしのぶを見る。
「お前、俺なら断らないと思ってないか?」
「思ってないよ」
「本当か?」
「たぶん」
「たぶんなのかよ」
しのぶは逃げるように歩調を速めたが、すぐに追いつかれた。
***
職員室の前へ着くと、しのぶの足が止まった。扉の向こうから教師たちの話し声が聞こえてきて、しのぶは抱えていたファイルを持ち直す。
「忍津家」
「なに?」
「ここから先、どうする?」
「押し付けない」
「じゃあ入れ」
「一緒にお願い」
「結局、俺も入るんじゃないか」
「一緒だから、押し付けてないよ」
「便利な理屈だな」
悠真が扉を開け、先に中へ入る。しのぶは半歩遅れて、その後ろをついてきた。
「失礼します。二年三組の相良です。高橋先生に頼まれていた資料を持ってきました」
声をかけると、担任が顔を上げた。
「もう整理してくれたのか」
「忍津家が全部やりました」
悠真が横へずれる。しのぶは一度息を吸ってから、前へ出た。
「教科ごとに分けました。青い付箋が一年生、黄色が二年生、赤が三年生です。ファイルも同じ順番に並べてあります」
声は小さい。それでも、最後までちゃんと続ける。
「一覧表と枚数が合わない場合は、一番下の予備を使ってください」
「そこまで用意してくれたのか。助かったよ」
しのぶは眼鏡を押し上げて俯いた。
「裏方なら、頑張れます」
「十分だよ。相良もありがとう」
「俺は運んだだけです」
「それでも一人では大変だっただろう」
担任にそう言われ、しのぶがうなずく。
「相良くんがいたから、一回で終わりました」
悠真としては、本当にそれだけだった。持ってきただけ。けれど、しのぶはそういうところを妙に律儀に数える。
職員室を出ると、しのぶは息を吐いた。
「緊張した」
「普通に話せてたじゃん」
「相良くんがいたから」
「俺、途中から何も言ってないけど」
「そばにいたよ」
しのぶは当然のように言った。
「……そうかよ」
悠真は、それ以上何も言わなかった。
***
教室へ戻ると、数人のクラスメイトがしのぶを呼び止めた。
「忍津家さん、昨日の資料、もう終わった?」
「さっき職員室に持っていったよ」
「早っ。結構な量だったでしょ?」
「分けただけだから」
「その分けるのが大変なんじゃん」
別の生徒も会話に加わる。
「昨日休んでた人のプリントもまとめてくれた?」
「うん、大丈夫」
「ありがとう。助かる」
「掲示物を直してくれたのも忍津家さん?」
「端が剥がれてたから」
「そういうの、よく気づくよね」
次々と声をかけられ、しのぶは困ったように立っていた。
自分から輪へ入るのは苦手なのに、いつの間にか周りに人がいる。頼まれたことを放り出さず、誰かが困っていれば、気づいたところだけ手を出す。そういうところを、クラスメイトたちは案外見ているらしい。
しのぶ本人は、たぶん気づいていない。
ようやく席へ戻ってくると、しのぶは悠真の前で頭を下げた。
「相良くん、ありがとう」
「別に。いつものことだろ」
「じゃあ、次もお願いしていい?」
「もう次があるのかよ」
「今日の日直、黒板を消す係なんだけど」
「自分でやれ」
「上の方、届かない」
「椅子を使え」
「危ない」
「運動神経いいだろ、お前」
「おばあちゃんが、高い場所で無用な危険を冒すなって」
「忍びの教えを都合よく使うな」
しのぶは黙って悠真を見上げる。
「一緒にお願い」
「俺が上で、お前が下な」
「うん」
「全部やらせるなよ」
「分かってる」
本当に分かっているのかは怪しい。それでも悠真は、教室後方の黒板へ向かった。しのぶも当たり前のようについてくる。
「相良くん」
「今度は何だよ」
「昼休み、購買も一緒にお願い」
「まだ朝だぞ」
「相良くんが覚えてて」
「それまで俺に押し付けるなよ」
しのぶはきょとんとしてから、少し笑った。
「押し付けてないよ」
「その話、まだ続くのか」
悠真が黒板消しを手に取り、しのぶはその隣で下の方へ手を伸ばした。
たぶん今日も、この調子だ。しのぶが頼んで、悠真が文句を言い、それで結局、一緒にやる。
今の二人には、それくらいがちょうどよかった。
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