第9話 家族ですから
少しジメジメした水曜日の朝。不快な湿気が身体を包み込んだ。
起床と共に、ひどい空腹感に襲われた。
昨日のお昼にコンビニで買ったおにぎりを二つ食べたのが最後で、食べなくても何とかなると思った昨日の俺を呪ってやりたいくらいだった。
幸い、いつもより30分ほど早く起きた。
「よし、行けるか」
淡々と朝の準備を進め、少し急いで家を出る。
いつもならギリギリまで家に居たいところなのだが、今日のこの空腹感を放置することはできなかった。
いつもより早くても十分混み合っている電車を、会社の最寄駅で降りる。
普通なら会社に直行するところなのだが、今日は少しだけ寄り道して、駅前のカフェに入った。
いつもは外から中の様子を眺める程度だったが、今日は時間があるので、空腹を満たそうと思う。
7時から開いているそうで、既に何人かの客が席に座っていた。
適当にモーニングを頼み、スマホで今日のタスクをチェックする。今日も忙しそうだ。でも、今日は早く帰らなきゃいけない。
『早く帰ってきてくださいね』
昨日ケンジさんに言われた言葉が頭の中にこだまする。
多分、何かお裾分けしてくれるのだろう。気を遣ってもらってばっかりで申し訳ないが、助かっているのは事実だ。
「さ、今日も頑張りますか」
そう呟いたと同時に、頼んでいたモーニングセットが届いた。一口サイズのサンドイッチが3つとコーヒー。もう少しボリュームが欲しいところかもしれないが、普段朝食を食べない俺からしたら、ちょうど良い量だった。
値段も高くなく、店内の居心地も良い。これはもしかしたらこれからも通うかもしれない。
ケンジさんから健康にも気を遣うように言われたし、朝食は食べた方がいいだろうし。
朝食を食べたからか分からないが、仕事にも集中して取り組むことができ、とても順調に進んだ。
午後の営業も特に問題もなく進み、残すは最後の一件だった。
ここの会社には、先代の社長からずっとうちの会社がお世話になっているらしく、今日は担当者変更の挨拶も兼ねているらしい。
「お世話になっております。田中に変わって担当を務めさせていただきます、清水と申します。今日は補佐の宇野と共に挨拶に伺わせていただきました」
「あぁ、清水さんね、よろしく。俺さ、全然そっち系のこと詳しくなくてな。世話になるよ」
社長は人当たりの良い五十過ぎのおじさんで、接しやすそうで安心した。これなら手こずることなく仕事を終えられそうだ。
「あ、清水さん、もしかして直帰?」
「そうですね。今日はこれで最後です」
「やっぱり。前の田中君もうちがいつも最後だったよ。ほら、うちって君たちんとこから遠いでしょ。だから、うちが最後だと直帰でいいよって言われるって」
「そうですね」
ここで、『実はこの後会社に戻って残業することの方が多くて今日はたまたまなんですよ』なんて言う勇気は俺にはなかった。
きっと田中さんという人も残業があるなんて顧客に愚痴ることもできなかったのだろう。可哀想に。
「じゃあさ……」
社長がニヤニヤしながら近づいてくる。
あ、これ嫌な予感……
「みんなで飲みに行こー!」
どうしてどこの上司も飲み会が好きなのでしょうか?
というわけで、断れるわけもなく、俺と宇野は飲み会に連行された。
「先輩、これって俺が来る意味ありますか?」
「付き合いも大切なんだよ。それに、支店長と来るよりはマシだろ。それより、ちょうどいいタイミング見つけて帰るぞ」
宇野と結託して社長にお酒を勧めたおかげで、飲み会は8時ほどで解散となった。二次会だと盛り上がっている社長は他の社員さんに託し、俺たちはその場で解散した。
帰りの電車でユウコさんに連絡を入れる。
まるで俺からの連絡を待っていたかのようなスピードで、『大丈夫ですよ〜』と返ってきた。
とはいえ、待たせているのは事実だ。俺はできるだけ急いで家に帰る。
やっと家が見えてきた。時刻は9時前。前よりは早いからギリギリセーフか?
「あれ?」
家が大きくなってきたところで、思わず声を出してしまった。もしかしたらまた家の前で待っているのかと思っていたが、家の前には誰の姿も見えなかった。
まぁ、事前に連絡してたし、後で来てくれるのかもしれない。
家の中に入って靴を脱ぐ。家の鍵を閉めて、解放感に身を任せて真っ暗な家の中を進む。
そして、リビングの電気を点けたときだった――。
「うわ!」
明るくなったリビングの真ん中に、突然三人の人影が現れた。
「……黒崎さんたち?」
「お帰りなさい」
立っていたのはケンジさん、ユウコさん、そしてアキラ君。ただいつもとは、全く違う雰囲気が感じられた。
「な、何でうちの中にいるんですか?」
「何で? だって、待ってるって言ったじゃないですか?」
「言ってましたけど……。ていうか、鍵は?」
「鍵、そんなものいらないでしょ。だって私たち――」
「「「家族ですから」」」
三人の声が揃う。いつもの笑顔はなく、ただただ無表情で。
「と、とりあえず出てってください」
「ダメです。まだ、まだ、守らなきゃ!」
ユウコさんが耳をつんざくような大きな声を出す。
「な、なんで……」
全く状況が分からない。守る? 何の話だ?
何分か無言の時間が続いた。これは警察を呼んだ方がいいのか?
静寂が部屋を包む。その間も三人はずっと無表情だ。
「あと10秒……」
静寂を破ったのはケンジさんの小さな呟きだった。
「10、9、8、……」
突然、ケンジさんがカウントダウンを始めた。
何かが起きるということか?
「3、2、1、……0」
何も起きない。
ただ一つ変わったことは、三人の顔にいつも通りの無邪気な笑顔が戻ったことだった。
それと同時に、三人は玄関に向かって歩き出した。
「ちょっと、一体どういう……」
三人を追いかけて廊下に出た――
え?
玄関に続く廊下には、誰の姿も見えなかった。そればかりか、鍵も閉まっている。この一瞬で外に出たのか?
そんな訳は……。
全く状況が理解できない中、俺はただただ廊下に立ち尽くしていた。




