第8話 帰り道
朝に見た不審者情報がずっと頭に引っかかっていた。
ちょうど俺とアキラ君が公園にいた時間に目撃されたらしく、もし何かに巻き込まれていたと今でも背筋がゾッとする。
ただ、不思議なことに、そのような男がいたという記憶が全くない。
2時間近く、しかも色々な遊具を代わる代わる遊んでいたアキラ君。アキラ君をずっと見ていたにもかかわらず、不審者らしき人物が視界に入ることはなかった。
たまたま俺が気づかなかっただけなのか?
……まぁ、アキラ君になんの影響もなくて良かった。
モヤモヤしていた気持ちは仕事の忙しさに掻き消された。昨日と同じように重い疲労感を残して、時間はすぐに過ぎていった。
学生時代は授業中に時間がもっと早く進んで欲しいと思っていたが、社会人となった今は忙しすぎてそれどころじゃない。
若い頃は無機質な毎日に嫌気がさしていたが、30歳が目前となった今、生きていけてるからいいかという気持ちが強くなってきた。
スキルアップしてどんどん新しい自分を見つけようと若者たちは励んでいるが、新しいことを始めたとして成功する保証はないし、失敗した時に誰かが助けてくれる訳でもない。
だったら、安定が一番だ。ちょっとばかりブラックでも。辞める勇気はない。
パワハラ、セクハラで溢れているこの職場も、慣れてしまえばどうってことはない。キツいノルマも、面倒くさい飲み会も何とかなるだろう。
残業中に色々と考えを巡らせていると、いつの間にか、会社に残っているのは俺一人になっていた。
異動してきてから一週間しか経っていないのにこの社畜ぶりは、もはや俺の性格のせいなのかもしれない。
◇
電車に乗ってすぐは立っている人もいたが、郊外に近づくにつれて、どんどんと人が減っていった。
家が近づいてくると席も空いてきて、腰をかけることができた。疲れていたから座れるのはありがたい。
とてつもない疲労感が睡魔を連れてやってくる。
あーやばい、寝そう。
「――湊斗さん?」
「んぇ?」
「もしかして……寝てましたか」
「え、あっ、ケンジさん?」
顔を上げると、いつも通りの爽やかな笑顔を浮かべているケンジさんの姿があった。
「はい、湊斗さんもここで降りますよね」
「あれ、もしかして……そうっすね。はい」
「降りましょうか」
ぼんやりしたままケンジさんと一緒に電車を降りると、まさに家の最寄駅だった。乗り過ごしていたら危ないところだった。
「すみません、本当に助かりました」
「いえいえ、気づけて良かったです」
「乗り過ごしてたら最悪でした。本当に疲れてて……すみません」
「まぁ、帰りますか」
駅構内で謝り倒しても迷惑なだけだ。ケンジさんと一緒に家へと向かう。
「ていうか、ケンジさんも今日は遅かったんですね」
「そうですね、普段はもっと早く帰れるんですけど。でも、湊斗さんはこないだもこれくらいの時間でしたよね?」
「まぁ、簡単に言えば……ブラックなんですよ」
「辞めようとは思わないんですか?」
「若い頃はそんなことを考えたこともあったんですけど、今となってはもう。慣れちゃったところもありますし、転職も面倒くさいですし」
他の人に仕事について話したことはあまりなかったが、ケンジさんが優しく聞いてくれるおかげで本音が漏れた。
「それは分かります。新しいことをやるのって怖いですよね。でも、自分の身体は大事にしてくださいね」
「はい、気をつけます」
「いつでも頼ってくださいね。私たちが一緒にいますから」
「ありがとうございます」
ケンジさんは家に着くまで俺の話を一心に聞いてくれた。おかげでちょっと荒んでいた心が和らいだ気がする。
「今日は本当にお世話になりました」
「いえいえ。本当に気をつけてくださいね。まだ死ぬ時じゃありませんよ」
「そうですね、気をつけます」
「それじゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
家の前で別れて、玄関の扉に手をかける。
「あっ、そうだ、湊斗さん」
「はい?」
「明日もお仕事ですよね?」
「はい、もちろん」
「それじゃあ、家族で待ってますから。早く帰ってきてくださいね」
「あ、はい。分かりました」
話し終えると、ケンジさんはいつも通りの笑顔を浮かべてペコリと頭を下げた。
俺も頭を下げて家の中に入る。
少しだけ、最後の会話が引っかかったが、先週のことを思い出した。
この前も『早く帰ってきてくださいね』と言われたが遅くなってしまった。その時はお裾分けと言って煮物をもらった。
今回も同じなのだろうか。
もしお裾分けを用意していてくれるなら、今度こそは早く帰ってこなくては。こないだみたいに待たすわけにはいかない。
明日の仕事的にはそこまで時間がかからないだろうが、一応残業が長引かないよう注意しよう。
「まぁ、寝るか」
お腹が空いていたが、スーパーにもコンビニにも寄るのを忘れたので、何も食べるものがない。
かと言って今から買いに行く元気もない。
寝てしまえば空腹も関係ないだろう。ケンジさんに身体を大事にするよう言われたばかりだったが、今日だけなら大丈夫だろう。
心の中でケンジさんに謝りながら、俺はゆっくりと眠りについた。




