第2話 お裾分け
ピピピピピ。ピピピピピ。ピピピ――。
新居で迎える初めての朝。俺は聞き慣れたアラーム音で目が覚めた。
今日から新しい支店での勤務が始まる。「新天地で頑張るぞ!」なんて気分になるはずもなく、いつも通りの憂鬱な朝を迎えた。
ギリギリまで寝ていたいので、朝はコーヒーだけ。夏場は冷蔵庫に常備してあるペットボトルの無糖ブラックを飲んでいる。元々ブラックコーヒーは苦手だったが、目が覚めやすいからと飲みまくっていたら、いつの間にか好きになっていた。
「……行きたくねぇな」
こんなことを呟きながらネクタイを締める。あからさまにクールビズに逆行している気がするが、お手本のようなブラック企業なので仕方がない。
ここから職場までは電車と徒歩で30分ほど。今までよりは若干早く家を出る必要があるが苦になるほどではない。
外に出ると、真夏の蒸し暑い空気が体を包んだ。今日は酷暑日になるところもあるらしい。ここはそこまで暑くなるわけではないが、それでも35度は超えて来るようだ。
こんな暑い中営業とか。あー、やだやだ。
玄関から道路に出ると、左から見覚えのある男性が歩いてきた。
「あっ、清水さんじゃないですか〜。おはようございます」
「あー、昨日の、おはようございます」
挨拶をしてくれたのは、アキラ君のお父さんだった。この暑さに似合わない清涼感を纏っている。
「お仕事ですか?」
「そうなんですよ。今日から新しい支店で」
「あー、そうなんですか。暑いですから気をつけてくださいね」
「ありがとうございます。えっと……すみません、そういえばお名前を伺ってませんでしたね」
「あぁ、確かにそうでしたね。黒崎と申します」
「黒崎さんですね、改めてよろしくお願いします」
「よろしくお願いします。黒崎じゃ堅いですし、『ケンジ』でもいいですよ?」
黒崎さんが爽やかな笑顔と共に冗談を飛ばす。朝から少し気持ちが緩むような気がしてありがたい。
「いや、さすがに……。あっ、すみません、そろそろ行きますね」
気がつくとギリギリの時間になっていた。一発目から遅刻はまずい。
「お呼び止めしてしまってすみませんでした。また今度」
「はい、それじゃあ」
「あっ、清水さん――」
振り向いて歩き出したところで黒崎さんに呼び止められた。何かあっただろうか。
「今日は、早く帰ってきてくださいね?」
◇
新しい支店は、噂通り、いや、噂より酷かった。
佐々木に言われて色々情報を集めてはいたのだが、想像していた数倍はキツい。
まずは朝。一応皆の前で挨拶を済ますと、特に仕事の説明もされずに『これ今日中に』と押し付けられ、終わらせて見せに行くと、フォーマットが違うだの、今まで担当させていた奴の方が上手かっただの、ぐちぐちと説教された。
後から文句言うなら先に言っとけよクソが。
面倒くさい上司だとは聞いていたが、ここまでは思わなかった。
結局昼休みは説教で潰れ、昼を食いそびれてしまった。それなのに午後からは営業周り。なんで初日からこんなにハードなんだよ。
同行した後輩も客の前でも普通にスマホいじってるし、注意しても無視してくるし。
初日だけどもう前の支店が恋しい。佐々木の言う通り、異動を断っておけば良かったのか?
いや、でも暮らしていくにはこの職は手放せない。
◇
最後の仕事が終わった時、時計は9時を指していた。初日からサービス残業じゃこの先が思いやられる。
「あー、疲れた。もうこんな会社辞めてやろうかな」
現実にならない願望を呟きながら、一人家へと向かう。今日はお昼食べれなかったから夜ちゃんと食べないと。暑さで死んじまう。
「あれ?」
家まであと少しのところ。もう時刻は10時ごろになっていたが、街頭に照らされて人影が見えた。あれ、うちの前か?
近づいていくとはっきりと顔が見えるようになってきた。
「……黒崎、さん?」
「こんばんは。清水さん」
俺の家の前には、黒崎さん夫妻が立っていた。
「あのー、俺になんか用ですか?」
「実はですね、今日はちょっとお裾分けできればなって」
「お裾分け?」
不思議そうな顔をしている俺の前で、奥さんは風呂敷を開いた。美味しそうな香りがお腹を刺激する。
「簡単な煮物ですけど、良かったら」
奥さんが俺に耐熱容器に入った煮物を渡す。
「うちの妻が作ったので。味は私が保証します!」
「そんな……わざわざありがとうございます」
お礼とともに容器を受け取って、ペコリと頭を下げる。黒崎夫妻は昨日と変わらずに笑顔を浮かべている。
「良かったです。ご無事で」
「ご無事で?」
「いえいえ、こちらの話です。暑いので夜も気をつけてくださいね」
「あっ、ありがとうございます。それじゃあ、いただきますね」
もう一度頭を下げて家の中に入った。
容器ごと煮物を温めて、コンビニ飯の隣に並べる。
「うん、美味い」
誰かの手料理を食べたのはいつぶりだろうか。前のアパートとは隣人との関わりはほとんどなかったし、こういうご近所付き合いは新鮮だ。
「あっ、早く帰って来てって……」
煮物をつつきながら、朝の黒崎さんの言葉を思い出した。
わざわざ俺のためにこれを渡そうとしてたのか。俺、そんなに疲れてそうな顔してたかな?
「お礼言わなきゃなぁ、容器も返さなきゃ」
ペロリと食べてしまった煮物の容器を洗いながら、ぼんやりとある考えが浮かんだ。
『今日は早く帰ってきてくださいね』。そう言われたのに、帰宅したのは夜10時近く。それでも二人は、俺の家の前で待っていた。
あれ?
二人はいつから待っていたんだろう?




