第1話 初めまして
「よし、これで最後だな」
8月に入り、夏本番といった蒸し暑さに包まれた昼下がり。
中に入っている物を出して、最後の段ボールを畳む。一人暮らしの男にしては普通の量の荷物だったが、それでも全てを解体するには半日以上かかってしまった。
「にしても、ちょっと広すぎるよなぁ……」
ものを一通り全て出したのだが、リビングを見渡してみると、まだまだスペースがあるように見える。
四畳半の狭いアパートから4LDKの一軒家に引っ越すことになるなんて、1ヶ月前の俺は夢にも思っていないだろう。今でも信じられないくらいだ。
ただの社会の歯車と化した悲しいアラサー会社員の俺が、こんなだだっ広い一軒家に住むことになったのか。その理由は、ちょうど1ヶ月前に遡る。
◇
「えぇ? 異動ですか?」
「あぁ、急ですまんな。でも新居の家賃とかはある程度サポートしてくれるみたいだぞ」
上司の淡白な対応に抗う気力も湧かず、目の前に突きつけられた辞令を受け入れるしかなかった。
地元の大学を出て、内定をくれたこの保険会社に入社したものの、待っていたのは無機質な毎日だった。
平日は朝早く会社に行って、帰ったらコンビニで買ったメシを食って寝る。休日はダラダラ起きてスマホを眺めていたら1日が終わる。
こんなはずじゃなかったのになぁ……と思っていたら、入社してから初の支社異動。
「あー、めんどくさい」
口をついて出た言葉は、隣の佐々木にも聞こえていたようで。
「先輩、異動ってどこにですか?」
「ん? あぁ、そんな遠くじゃないよ。隣の市の一番でかいとこ――」
「青山支店ですか!?」
「……なんだ急におっきな声出して」
佐々木の声に周りから視線が飛んでくる。俺こういうの苦手なんだよな……
「いや、すみません。でも、先輩、青山の支店長の噂、聞いたことないですか?」
「ないな、全く」
わざわざ他の支店のことまで気を遣ったことはなかった。そんな余裕、俺は持ち合わせてない。
「そうっすか。いや、実はね――」
佐々木の話をまとめると、青山の支店長は本店で何かをやらかして支社に飛ばされた挙句、部下を人とも思わない横暴ぶりで、今の支店よりもブラックらしい。
「だから、今からでも断れないんすか?」
「うーん、無理だな。俺の代わりなんて誰にでも居るんだぞって脅されて終わりよ。ここ切られたら、こんなアラサーのくたびれ会社員、どこも拾ってくんねぇよ」
「……確かに」
「おいおい、そこは『そんなことないですよ!』とか、『先輩まだ若いじゃないですか〜』とか、気ぃ遣うとこだろ」
「あ、さーせん」
ポリポリと頬を掻きながらペコっと頭を下げて、佐々木は仕事に戻っていった。
異動が決まってから2週経った後の土曜、俺は不動産屋さんを訪れていた。
「――という訳なんですけど、良いとこありますかね?」
「うーん、ちょっと厳しいかもしれないですね……」
対応してくれた長谷川さんが難色を示す。それでも『調べてきますね』と言って奥の方へと消えていった。
まぁ、そりゃそうだよな。8月からという季節外れの異動に加えて、新しい職場の近くは無駄に栄えていて、駅と近く、でかい商業施設もある。かと言って、少し離れたところもファミリー層が多く住んでいて人気の住宅街だ。
もう既に、どこのアパートも部屋が埋まってしまっているようで。このまま朝早く起きて今のアパートから通った方が良いのかなぁ。でもなー、朝早いのはキツい。
一人で色々と考えを巡らせていると、長谷川さんが書類を持って戻ってきた。
「ありましたよー、ちょうど良い所が。ただ、アパートじゃなくて戸建てなんですけど」
「戸建て? 賃貸ですか?」
「そうなんですよ、なかなか買い手がつかなくて、結局賃貸に回そうかってことになったんです」
だが、いくら賃貸といえども、戸建てならそこそこの家賃がするのだろう。いくら会社の支援があるとはいえ、微々たるもんだ。ここはやんわりと断って……
「家賃は大分安くなっていて、月6万なんですけど――」
「決めます!」
思わず大きな声が出てしまった。月6万? それなら全然払える。
「あのー、お客様。安いのにはそれなりの理由がありましてね。本来なら倍くらいとってもおかしくないんですよ。築年数もそこまでですし、ファミリー向けの4LDK物件ですからね」
確かにそれもそうだ。住み始めてからどこか不便なことが見つかっても良くない。
「それで、安い理由は何なんですか?」
「まぁ、平たくいえば心理的瑕疵、ですかね」
「……やっぱりここで決めます」
「もうちょっと詳しく聞かなくていいんですか?」
心配そうな顔をしている長谷川さんには申し訳ないが、心理的瑕疵なら、気にしなければ良いだけだ。どこかが壊れてるとかよりは全然マシ。
「はい、もう大丈夫です。内見とかも別にやんなくてもいいんですけど……」
一秒でも早く決めちゃいたい。他に取られたら毎日1時間通勤が現実味を帯びてきてしまう。
「それは一応やってもらってもいいですか? あとは、この入居申込書に必要事項を書いてもらって、諸々管理会社に確認したら、その後に契約になります」
「分かりました」
数日後には不動産屋から連絡があり、無事に契約が済んだ。心理的瑕疵の原因は、前の入居者が亡くなったことらしい。男性の一人暮らしで、詳しいことは聞かなかったが、それくらいなら全く問題ない。幽霊の一人や二人くらい友達になってやろう。
◇
こうして俺はこの一軒家に引っ越してくることになった訳だが、家が広すぎても疲れるんだなと実感していた。
「ちょっと外出てみるか」
お昼も過ぎてジリジリと日差しが照りつけるなか、俺は住宅街を歩いてみようと玄関を出た。
「あっ、そういえば表札」
一度家の中に戻り、最後の段ボールに入っていた表札を取り出す。
「えっと、ここかな」
ポストの上にある突起に表札を引っ掛ける。
清水湊斗
自分の名前なのに、なぜか少しだけ違和感があった。あまり馴染んでない気がするけど、まあいずれ慣れるだろう。
気を取り直して、住宅街に足を踏み入れる。
適当に歩みを進めていくと、『ゴミ捨て場』と書かれたブースが目に入る。近くにあって便利だ。
「あのー、こんにちは」
「え、あっ、こんにちは」
突然声をかけられて振り返ると、一組の家族が立っていた。
「初めまして、ですよね?」
「あー、そうですね。実は今日越してきて」
「あらー、そうなんですね」
柔らかな喋り方の奥さん。後ろでずっと笑みを浮かべているご主人。そして……
「ぼく、アキラ!」
「あぁ、よろしく」
大きな声で挨拶をしてくれた『アキラ』君。小学校に上がる前だろうか? あまり小さい子と接する機会がないので分からない。
「お家はどちらなんですか?」
「あー、あそこっす。あの、外壁がベージュで、屋根が黒い……」
「あらー、そうなんですね!」
「はい……」
「私たち隣にいるので、もし何かあったら頼ってくださいね」
何だ、お隣さんか。それならこれから関わることも多いだろうから色々仲良くなっといた方が良いな。
ちょっと距離が近い気がするが、俺が積極的に人と関わってこなかったからそう感じるだけなのだろう。
「じゃあ、これからお世話になるかもです」
「いえ、こちらこそお願いします、清水さん」
「じゃ、今日はここで」
「おにーちゃん! 今度遊んでね!」
最後まで元気いっぱいだったアキラ君に少し圧倒されながら、俺は暑さに負けて来た道を戻っていった。
まずはお隣さんと仲良くなれたのかな?これからはご近所付き合いも頑張んないとなー。




