第12話 前の住民
「今日も大丈夫か……」
仕事を終えた俺は、まだ少しだけ緊張しながら家に帰ってきた。
今日も黒崎家に会うことなく一日が過ぎた。家の中も何ら変なことは無く、一昨日のあの夜だけが謎のままだった。
スーパーで買ってきた、ペットボトルに入ったブラックコーヒーを冷蔵庫にしまう。
夏場はほとんどコーヒを冷やすためだけに存在しているようなこの冷蔵庫。生憎料理は全くしないので、料理を作り置きしといて冷蔵庫に、なんていうことは社会人になってから一回もやったことがない。
「あれ? なんだこれ?」
冷蔵庫を閉めようとした時、少しの違和感を抱いた。
コーヒーしか入ってないはずの冷蔵庫の奥に、一本の缶ビールが入っていた。
「昨日買ったんだっけ?」
缶を掴むと思ったより冷えていなかった。冷蔵庫に入れていたとは思えない、妙な生ぬるさが残っていた。
正直買った記憶もないのだが、ビールは好きなので、もしかしたら前に買っていたのかもしれない。最近疲れていたので忘れてたのだろうか。
「もうちょい冷やそ」
冷蔵庫を閉めて、スーパーの袋から弁当を取り出す。
毎日同じことの繰り返し。
でも、慣れてしまえば、こっちの方が楽な気がする。
弁当を一瞬で平らげ、冷蔵庫からビールを取り出す。俺が一番好きな銘柄の350ml缶だ。いつかの俺、ナイス!
明日も仕事だが、これくらいの量なら問題ないだろう。酒はそこまで強くないが、上司に付き合って飲んでいるうちにだんだんと飲めるようになってきた。
飲み会が好きじゃないのも、お酒がというより、あの雰囲気に上手く馴染めないのが一番の理由だと思う。
缶ビールを手に取り、プルタブに指をかける。指先に力を込めると、プシュッと小さな音がした。開いた口から、わずかに泡が覗く。
そのまま缶を傾け、一口飲んだ。
「あぁー! うめぇ!」
金曜日の夜、一人、部屋で飲むビール。
これで明日が休みだったら最高なのになぁ。
一人でぼんやりと現実にならない希望を思い描きながらビールをぐっとあおる。
夏場のジメジメとした暑さと共に、金曜日の夜が更けていった。
◇
世間では休日とされる土曜日。こんな日にも働いている大人がいるから、世界が回っているわけで。
俺はその中の一人として、今日も責務を全うしようとしていた。
「よっしゃ、行くか」
気合いを入れて外に出る。
「あらー、清水さん!」
玄関の扉を開くと、ちょうど福田さんがうちの前を通り過ぎようとしていた。
「おはようございます。今日は何か用事でもあったんですか?」
今まで福田さんとは、ゴミ捨て場でしか会ったことがなかった。
「ほら、今日はいい天気でしょ? ちょっとウォーキングでもしようかなって思ったの。歳をとると、こういう小さな積み重ねが大事なのよ?」
「すごいですね。俺なんか会社と家の往復だけで。全然運動なんてしてないし」
「忙しいと大変よね〜。今日も仕事?」
「はい、明日は休みなので今日だけ頑張ります」
「まぁ、無理はしないでね」
福田さんの優しい言葉が身に沁みる。よし、今日も一日頑張るぞ!
「そういえば……黒崎家とはどう?」
「そうですね。ここ何日かはあんまり会えてないです」
福田さんから黒崎家の話題を振ってくるのは初めてな気がする。
「あのー、福田さん。昨日の朝『あんなこと』っておっしゃってましたよね」
「え、ええ」
「あれってどういう意味だったんですか?」
福田さんが少しだけ考えて、ゆっくりと口を開いた。
「実はね、前にここに住んでた人。死んじゃったの」
「あっ、それは知ってます。ここ借りる時に不動産屋の人が言ってました」
「そう。その理由がね……」
「理由ですか?」
不動産屋からはあまり詳しく話は聞いていないので、そこまでは知らない。
「……やっぱりやめておきましょう」
「何でですか?」
「あなた、黒崎家には会っているのよね」
「は、はい」
「じゃあ、何か変なことはなかった?」
「……いえ、まだ」
水曜日のことがチラついたが、黒崎家側の思惑がわからない以上、まだ他の人に話せない。
話してしまってもいいのだが、これで変な噂が立ってしまっても困る。
「そう。じゃあ、まだ話せないわ」
「あの、もし変なことがあったら、話してくれるんですか?」
「うーん、どうかしらね。実は私もあまり詳しくないの」
「そうですか……」
ここまで話して、どちらも黙ってしまった。
福田さんにも、何か話せない理由があるのだろう。それを強要はできない。
「じゃあ、福田さん。俺、もう行きますね」
「あっ、そうね。今日もお仕事なのよね。行ってらっしゃい」
「あ、はい。行ってきます」
「ねえ、清水さん」
「はい?」
ゆっくりと歩き出した俺を福田さんが呼び止めた。
「私からは話せないけど……もし気になるんだったら、調べてみるといいと思うわ」
「調べてみる、ですか?」
「ええ、もし詳しく知りたいなら、私よりもっと詳しい人を紹介することもできるわよ」
「あ、ありがとうございます」
俺は福田さんにお礼を言って再び歩き出した。
調べてみる、か。時間があったらやってみよう。
福田さんの言葉が頭の中を回りつつも、俺は会社に向かって歩みを進めた。




