06. 決めつけは良くない
翌日、僕は昼休みになるのを待って、日々瀬さんを人気のない渡り廊下の端に呼び出した。
クラスの中で切り出せる話ではないし、かといって放課後まで抱えているには、昨日の出来事はいささか僕の処理能力を超えていた。
「実は昨日、あの旧図書館に入ったんです」
「え……」
僕がそう口にした途端、日々瀬さんの顔から、いつもの柔らかい表情がすっと引いていく。
まずい、忠告を無視してあそこに行ったことで、気分を害しただろうか。
「ああ、えっとですね、それには理由がありまして——」
慌てて昨日の顛末、下駄箱の前で見かけた赤い着物の女の子のこと、追いかけたら旧図書館に消えてしまったことを付け加えた。
「それでですね、中に入ってみると、そこに女の人がいまして」
「女の人? それはこの学校の生徒っていうこと?」
「はい、制服を着てましたから。学年やクラスは聞けなかったけど、綾御門 柘榴さんという名前でした」
「綾御門さん? 聞いたことない名前だけど、もしかしたら先輩かしら」
この学校は、制服は一緒だけど、男子はネクタイ、女子はリボンの色が学年ごとに違う。
僕たち一年生は男子も女子も紺色だ。
僕の脳裏に、昨日見た柘榴さんの胸元の光景が蘇る。リボンをせずに、ボタンを開けていた胸元は、それは苦しそうなボリュームで。
「えっと、リボンはしてなかったから分からなくて……。でも、あの態度からして、先輩な気がします」
胸も大きかったけど、態度も大きかったので、僕の言っていることは嘘じゃない。
なぜか日々瀬さんの視線が厳しい色になっていた気がして、僕は話題を進めることにした。
「それで、さっき話した女の子のことを聞いたんですが、誰も来てないと。……それから、僕の目を見て、困っていることがあるんじゃないのか、って言ったんです」
本当は、面倒ごと、と言われたのだけど、日々瀬さんが誰にも言えず抱えてきたものは、面倒なことなどではない。
「なんだかおかしな人ね」
否定できない。まさか美人だから信用できると思います、などと言えるはずはないし、そんなこと言ったら僕の社会的死が待っているだけだ。
「えっと、確かに怪しくはあるんですが、例の件はなかなか手掛かりが掴めずにいますし……。もしこの学校に詳しい人なら、遠回しにでも、このことを相談してみるのもありなのではないかと」
正直、根拠が薄いのはよく分かっている。結局僕は、柘榴さんが言った「そのままだと、君は危ないぞ」という言葉が引っかかっているだけなんだ。いや、あの人の底知れなさが、妙に気になることもあるけど。
「もちろん、被害者が日々瀬さんだと言う必要はないと思うんです。なにかアドバイスがもらえたらラッキーくらいで――」
「行けない!」
最後まで言い終わらないうちに、日々瀬さんの声が、僕の言葉を遮った。
いつも穏やかな日々瀬さんからは想像もつかない、固く、拒むような響きに、僕は思わず口をつぐんでしまう。
なんだか様子がおかしいぞ。
日々瀬さんは、両手を胸の前でぎゅっと握り締めて、一歩、僕から後ずさっていた。
それは、校内を案内してもらったあの日、旧図書館を前にしたときと、同じ仕草。
「あ……ごめんなさい。そうじゃなくて、その」
自分でも驚いているのか、日々瀬さんは握った手に視線を落として、そこから言葉を探すように、たどたどしく続ける。
「うまく、言えないんだけど……あそこには、行きたくないの。近づこうとすると、胸のあたりが、ざわざわして」
噂を怖がっているとか、僕が勝手をしたことに怒っているとか、そんな分かりやすいものじゃない。
僕は久しぶりに思い出した。
この光景、この感覚は――もう忘れかけていた《《あれ》》だ。
「……分かりました。変な話をしてすみません」
僕がそう言うと、日々瀬さんはようやく、ほっとしたように肩の力を抜いた。
* * *
放課後、僕はひとりで、再び旧図書館を訪れていた。
悲鳴みたいな音を立てる扉を押して、埃っぽい書架の間を進んでいくと、昨日と同じ一角に、同じ読書灯の明かりが灯っている。
「こんにちは〜」
思ったよりも間の抜けた声に、自分でも驚いた。
「昨日ぶりだな、千歳君」
柘榴さんは、今日も手元に分厚い本を広げて座っていた。ちらりと見える胸元には、やはりリボンがなかった。
「もう少し時間がかかると思っていたが、早かったな」
からかっているようにも聞こえるけれど、その声には笑いの色がなくて、ただ事実を並べているだけのようにも聞こえる。
感情が込められていないわけではないのに、妙に平坦に響く声だ。
「あの、昨日の……面倒ごとの話で、やはり相談したいなと思いまして」
「ひとりか?」
「え?」
「いや、てっきり誰かと一緒に来るものだと思っていたんでな。まあいい、向こうで話そうか」
言われるまま近くのテーブルに、柘榴さんと向かい合って座る。
うーん、真正面に向き合うと落ち着かない。視線を決して首より下に向けてはいけない。でも、その上に乗っている顔も、直視するには整いすぎていて難しい。
結局、視線を柘榴さんの眉間に向けることで、僕はなんとか話を続けた。
「……知り合いが、困っているんです。学校で、その、嫌がらせみたいなことをされていて。でも、誰がやっているのか分からなくて。ここ数日僕自身で調べてみたんですが、何も手がかりがなくて」
「そんなもの、嫉妬したクラスの愚か者がやっているんじゃないのか。そういうやつがやることなんぞ、すぐにボロがでるだろう」
そのストレートな物言いは嫌いじゃないです。
僕もつい数日前は同じようなことを考えていた。けれど、事態は思ったよりも簡単じゃなかった。
「まあ、僕もそう思って張り切って調査を引き受けたんですが……」
「君は転校してきたばかりだと言っていたな。それなのに、そんなことに首を突っ込むとは、よほど暇なのか」
辛辣!
あながち間違えていないところが、また厳しい!
「あはは……。暇なのはそうなんですが、あの、ちょっと放っておけないといいますか」
「ふん、なるほど、色恋かね」
今度は決めつけ!
でも、違います、と言い切れないのが悔しい……。
「つまり、君はその面倒ごとを見事に解決して、いいところを見せたいということだな」
「いえ、あの、困っている人が女の子だとは言ってませんよ」
「おや、そうだったな。では聞こう、いじめを受けているのは男なのか?」
「……女の子です」
「無駄なやり取りは好まんな」
柘榴さんはふんと小さく鼻を鳴らした。
なんだか、うまくはめられた気がする。
がっくり項垂れる僕を尻目に、柘榴さんは、制服のポケットから小さな箱を取り出した。
「君はいずれここに戻ってくると思っていた。ほら、これを貸してやろう」
箱の中に入っていたのは、赤茶けた紐が結ばれた小さな鈴だった。
「これは?」
「『八衢の鈴』だ。――それが君の助けになる」




