05. 視線は絶対下げないように
扉の前までは来たものの、僕はそこからしばらく動けずにいた。
木々に囲まれた平屋は、近くで見るとますます古びていて、板張りの壁は色が抜けきっているし、窓ガラスには埃が積もっているのが見える。
まあ、肝試しの会場としては満点だ。
ここに入るということは、せっかくの日々瀬さんの忠告を無視することにもなるわけだけど。……いや、やっぱり気になる。
もしあの子が迷子なら、こんな危険そうな場所に入っていったのを見てそのままにはしておけない。
偉そうなことを考えているけど、これは僕の善性に由来するものじゃなく、自分が責められるかもしれないことに対する防御なだけだ。
「よし、とにかく入ってみよう」
両手で自分の頬を軽く叩いてから、体重をかけて扉を押すと、錆びついた蝶番が悲鳴みたいな音を立てて、思わず飛び上がりそうになる。
中に足を踏み入れると、埃と、古い紙が長いこと湿気を吸い込んだような匂いが鼻の奥にまとわりついてきて、咳き込みそうになるのをなんとかこらえた。
「……電気はどこだろう。これかな」
入り口の横に電気のスイッチらしきものを見つけて、何度か上下させてみたものの、天井の蛍光灯はうんともすんとも言わない。
頼りになるのは、背の高い窓から差し込んでくる夕日だけで、それも並んだ書架に遮られてしまい、床に細長い光の帯がぽつぽつと落ちているだけだ。
「…………」
こういうとき、映画やドラマだと、入ってきた扉が急に開かなくなって逃げられなくなる、というパターンが多い。
なので、念のため入り口の扉は少しだけ開けておいてから奥に進むことにする。いや、臆病なのではない、何事も用心することは大切だ。
軋む床を踏みながら書架の間を進んでいくと、通路の奥に、そこだけ切り取ったように明かりのついた一角が見えて、僕の足は自然と速くなった。
「誰だ」
「うわ!!」
思っていたよりずっと近くから声が飛んできて、僕は自分でも情けなくなる声をあげてしまった。心臓が口から出るかと思ったし、たぶん寿命も何年か分削られた。
小さな読書灯の明かりの下、机に頬杖をついてこちらを見ているのは、この学校の制服を着た女の人だった。短く切りそろえた黒髪と、こちらを射抜くような目つきのせいか、薄暗がりの中でもその人の輪郭だけがくっきりと浮かび上がって見える。
シャツは上のボタンがふたつほど外されていて、前のめりになった姿勢のせいなのか、そこから覗く胸元が、その、なんというか、ずいぶんと主張してきているというか。
……いや、僕は暗がりで何を観察しているんだ。得体の知れない相手と鉢合わせして、真っ先に確かめるところがそこなのだとしたら、この場でいちばん怪しいのは間違いなく僕のほうじゃないか。
「あ、す、すみません! 勝手に入って! 女の子を追いかけてきたら、この建物に入っていくのが見えたので、それで、その……すぐ出ていきますので!」
もう、ここに入ってきたことへの言い訳なのか、おかしなところに視線を飛ばしてしまったことの誤魔化しなのか、自分でも分からない。
「待て。何を慌てているのか知らんが、ここは別に立ち入り禁止ではない」
手元で開いていた本を閉じると、その人はすっと立ち上がる。
なんというか、独特の雰囲気のせいで大きく見えるけど、身長は僕と同じくらいだろうか。
「さっき、女の子と言ったか? その子は、どんな格好をしていた」
「えっと、赤い着物で、袖のところにひらひらしたフリルがついていて、あと、裸足でした。たぶん小学生くらいの子だと思います……」
訊かれるままに答えてしまったけど、赤い着物にフリルで裸足の小学生なんて、口に出してみると、寝ぼけて見た夢の話をしているみたいだ。
「なるほどな。……だが、ここには誰も来ていない」
「そ、そうですか」
入り口からここまでは、他の出口もなかったし、だとすると、もっと奥に行ったのだろうか。
「それにしても、ここに入ってくるとは珍しい。君の名前は?」
「え? あ、祀乃目、祀乃目 千歳です。五月に転校してきたばかりで、まだこの学校のことはよく分かっていなくて……」
誰も訊いていない転校の経緯まで喋ってしまうのは、緊張すると口が勝手に動き出す、僕の悪い癖だ。
「祀乃目? なるほど……ちょっとこっちへ来い」
その人は僕の名前を繰り返すと、くいくいっと手招きした。
こんな電気もつかないような場所で読書だなんて、ヤバい人なんじゃないだろうな。
でも、ここの制服を着ているし、いわゆる読書中毒とかビブリオマニアとか呼ばれる類の変じ……いや、ちょっと変わった人なのか。
「なんでしょうか、えっと」
「……綾御門だ。綾御門 柘榴。名字は嫌いでな、呼ぶなら下の名で呼んで構わん。とにかくこっちに来い」
恐る恐る僕が近づいていくと、その人、柘榴さんも、すっと距離を詰めてきた。
「えっ、な、なんですか」
筋の通った鼻筋に、切れ長の目、形のいい唇――間近に迫った顔は驚くほど整っていて、思わずのけ反った僕の頭を、柘榴さんはがしっと両手で挟み込んだ。
そして、僕の目をまじまじと覗き込む。
これはどういうことだ、何が起きるんだ。
頭を固定されているせいで俯くことはできないが、視界の下のほうで柘榴さんの胸元が主張しているのが、状況をいっそう混乱させてくる。
「君は何か面倒ごとを抱えているな」
しかし、柘榴さんは手を離すと、一歩下がって距離をとった。何を考えたかは言わないが、僕のドキドキを返して欲しい。
いや、それどころじゃない。今柘榴さんは僕が面倒ごとを抱えていると言った。
「なぜ、それが……」
分かったのですか、と言いかけて慌てて口をつぐんだ。
実際に抱えてはいるけれど、それは日々瀬さんが誰にも言えずに飲み込んできたものを、僕がたまたま預かっているだけの話で、初対面の人にべらべらと喋っていいものじゃない。
「……いえ、特には」
「そうか」
あっさり引き下がられて、逆に僕のほうが拍子抜けしてしまう。
柘榴さんは僕から視線を外すと、再び机の上で本を広げ始めた。
追い出されるわけでも、引き止められるわけでもなく、ただ、そこに僕がいないみたいな扱いをされている。
「……失礼しました」
頭を下げて来た道を戻ろうとした僕の背中に、まったく興味のなさそうな声がかかる。
「気が変わったら来い。そのままだと、君は危ないぞ」
振り返っても、あの人はもうこちらを見ておらず、ページをめくる音だけが、埃っぽい空気の中に小さく響いた。




