37. まだ何も言えていない
「……朱音ちゃん?」
朱音ちゃんの身体が、なんか薄く光ってる?
赤い着物、袖から覗いたフリル、頬にかかった髪も、少しずつ淡い光に縁取られていく。
そして、ゆっくりと目を開いて立ち上がった。
「だ、大丈夫!?」
「さっきは油断したが、問題ない。千歳、お前は白雪から離れるなよ」
僕が白雪さんからって、それは逆が良かったな。
頼りないと思うけど、僕だって白雪さんを……。
「朱音ちゃん、千歳君は任せて」
白雪さんが力強く頷きを返してる。
まあ、適材適所っていう言葉があるし、僕の活躍の場は他にあるのかもしれない。
もう一度、しゃらん、という鈴の音が響くと、朱音ちゃんを包む光が強くなっていった。
「——忌々しい一族の眷属か」
朱音ちゃんが前に出ると、久世御霊が再びもやを揺らしながら近づいてきた。
「今度は全力だ!」
飛びかかった朱音ちゃんが、伸ばされたもやをかいくぐり、勢いを殺さず体当たりすると、今度は久世御霊の体が壁際まで押し込まれていく。
「——何をした、貴様」
「じっとしていろ!」
朱音ちゃんは、あっという間に久世御霊を床に叩きつけて動きを封じてしまう。
あのもやもやを掴むなんて、いったいどうなってるんだろう。
「——調子に乗るな!」
叫びとともに、久世御霊を中心に、黒いもやが床を這うように広がってきた。
「きゃあ!」
「白雪さん、こっちに!」
悲鳴をあげた白雪さんを引き寄せて、部屋の隅まで下がったものの、逃げ場なんてすぐになくなりそうだ。
じわじわと黒いもやが迫ってくる。
「千歳君、ダメよ!」
これに触ったらどうなるのか分からないけど、良くないことは間違いなさそうだ。
でも、今さら僕が触ったところで、これ以上悪いことにはならないんじゃないかな。
これが適材適所ってやつだよ、うん。
柘榴さんに清めてもらった右手なら、もしかして……。
「千歳君動くなよ。……朱音はそのまま押さえていろ」
「柘榴さん!」
声の方に目を向けると、扉の前に柘榴さんの姿があった。
「掛けまくも畏き、祓戸の大神等。諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ、清め給へ」
柘榴さんが手に持った白木の棒を大きく振ると、先端についた紙から光が広がっていく。
「——恐み、恐みも白す」
足元の床を走った光が壁へ上り、低い天井まで照らしていくと、部屋中に明るさが満ちていく。
「千歳君、あれ!」
部屋の奥にあった祠、その正面の扉が、ぱっくりと開いていた。
奥までは見えないけど、中から柔らかな明かりが漏れている。
「この床も……どうなってるんだろ?」
さっきまで埃っぽかったはずの床が、今は水を打ったように綺麗で滑らかになってる。
「柘榴さんが言ってた準備って、きっとこのことだったのね」
そうか、ここが、神様を迎える場所。
良かった、僕はちゃんと目的地まで久世御霊を連れて来れたんだ。
「——憎き綾御門……!」
床に押さえつけられた久世御霊の声は、低く、言葉の間に、唸るような音が混じっている。
「そこの少年を甘くみたな」
騙した形になったけど、やっぱり怒ってるかな。
そりゃ、少しは迷ったけど……。
「——まだ足りぬか! 我を閉じ込め、永く捨て置いたのは、貴様らだろう!」
「その通りだ、久世御霊。綾御門に連なるものとして、今こそ、その過ちを正そう」
「——愚かなことだ。再び封じたところで同じこと、人の弱き心は変わらぬぞ」
人の弱い心は変わらない、か。
確かにそうかもしれないな。
こうであったらいいなと思う時、すでにそうある人を妬んだり、もっとこうなりたいと願う時、邪魔になるものを恨んだり。
僕はせめて、他人を恨んだり、羨ましがったりしないようにと、言い聞かせてきた。
でも、本当にうまくやれてきただろうか……。
光に照らされている人を羨ましいと思ったことは? その明るさに思わず手を伸ばしてしまったことは?
自分が一歩踏み出せないことを、他人のせいにしたことは、今まで一度もなかっただろうか。
「……千歳君、あなたが手を伸ばす先は、あっちじゃないわ」
いつの間にか震え出した僕の手を、白雪さんが握りしめてくれる。
この暖かさに、僕は甘えていいのだろうか。
完璧に見える白雪さんにだって悩みはある。
人は誰だって弱さを抱えて、悩みを抱えて生きている。僕だけが例外じゃないと知ることができた。
そして、僕だって変わっていけるかもしれないということを、白雪さんは教えてくれた。
「——小僧、お前は求めぬのか! 呪われた身のままで良いのか!」
良いわけないよ。今だって、何も心配せずに暮らせるなら、そうしたいと思ってる。
でも、もう僕は、今の自分をそんなに悪くは思ってないんだ。
「僕は……やっぱりあなたには頼みません。だって、僕は自分で歩いていけるから。あそこから、一人で出ていくことができるから」
柘榴さんは、僕の体質は人の役に立つものだと教えてくれた。結局は使い方次第なんだって、そう思わせてくれたんだ。
なんやかんやで、朱音ちゃんはいつだって僕たちを助けてくれて、今だって体を張って守ってくれた。
まあ、ちょっとやりすぎなところはあるけどね。
だから——。
「柘榴さん、お願いします。みんなで帰りましょう」
「……ああ、そうだな、千歳君」
しゃらん、しゃらん。
「久世御霊、遅くなったが、私は真の名を見つけてここにきた。今、その名をこそ送ろう——」
涼やかな鈴の音に、柘榴さんの不思議な言葉が重なっていく。
「掛けまくも畏き、久世比古命の大前に、恐み、恐みも白さく。」
「久しく御名は忘られ、御祭は絶え、荒び給いて禍事をなし給いしを、今、清き斎庭を設け、御名を正しく称え奉り、御前に仕え奉る」
「ここを御座と定め給い、荒ぶる御心を和め給い、諸々の禍事を止め給いて、神ながら鎮まり坐せ」
次第に床に広がっていた黒いもやが薄れていく。
「——おお、おお。——再び我に名を……」
「今より後、久世の御神として斎き奉らむ。かく白す事を聞こし食せと」
朱音ちゃんはもう久世御霊を押さえつけていなかった。
久世御霊の黒いもやに包まれた姿は、月明かりのような淡い光へと変わっている。
「——恐み、恐みも白す」
しゃらん。
久世御霊の姿が、少しずつ、祠の奥に満ちた光と重なっていく。
顔に当たる部分がこっちを見たような気がしたけど、それは気のせいかな。
「……終わったんですか?」
光が収まったあとも、僕はしばらく祠を見ていた。
「ああ。御霊は、新たに久世比古命として、ここに鎮まった」
「良かった……」
白雪さんがそう呟いたことを聞いて、ようやく僕もほっとした。
「千歳君、大丈夫? どこも怪我してない?」
「うん、白雪さんこそ。……ありがとう」
朱音ちゃんにも、柘榴さんにも、ちゃんとお礼を言わなくちゃ。須藤君が目を覚ましたら、みんなで上へ戻って、それから——。
「あれ?」
手の中に握っていた紐、御統の緒が動いた。
何重にも絡み合っていた紐が勝手に緩んで、指の間から長い端が滑り落ちていく。
「柘榴さん、どうしましょう。これ、ほどけちゃってます!」
慌てて結び目を押さえようとしたけど、掴んだところまで、するりと伸びてしまった。
僕はほどいてないよ。ずっと持ってただけなのに!
「千歳君、それはもう結んでおく必要はない。封印は、役目を終えたんだ」
「……そうなんですか」
「千歳君、白雪君。君たちには、世話になった」
そんな、世話になったのは僕たちのほうです。
そう言いかけて、柘榴さんの肩の向こうに、祠の柱が透けて見えることに気づいた。
あれ? 明かりのせいかな。
少し顔を動かしてみても、同じだった。白い紙の垂れた棒も、柘榴さんの手も、その向こうにあるものを隠してくれない。
「その御統の緒は、私をここにつなぎ留めるものでもあった。今ようやく、私も役目を終えられたよ」
役目を終えたって、どういうこと?
もう久世御霊を心配しなくていいんだから、明日からも、いつもの机のところで——。
「我も楽しかったぞ。二人とも、元気でな」
朱音ちゃんが笑顔で手を振っていて……。
え? ちょっと待って!
僕も白雪さんも、あまりのことに何も言えないし、動けなかった。
その間にも、柘榴さんと朱音ちゃんの姿は薄れて、そして消えていった。
そんな……。
まだ、ちゃんとお礼も言えてないんです。




