33. 約束は忘れずに
放課後、白雪さんと向かったコンサートホールには、もう何人もの生徒が集まっていた。
「千歳君、前のほう、まだ空いてるよ」
「あ、そうだね」
僕はこういう時、いつも端っこか後ろのほうを選びがちだから、あえて前の方にいくという発想には驚いた。
白雪さんについて前から三列目まで進んだものの、いざ隣に腰を下ろすとなると、どうも落ち着かない。
前にも並んで座ったはずなんだけど、あの時はお面のことばかり考えていて、白雪さんとの距離を気にする余裕なんてなかったよ。
「通し稽古は見たけど、本番でどうなるのか楽しみね」
「うん」
我ながら、すぐに会話を終了させる技術は少しも衰えてないね。
そんなことを偉そうに言ってる場合じゃなかった。公演が始まるまでもう少し時間があるから、何か話さないと……。
「あの、千歳君」
「な、なに?」
「そんなに端に座らなくても……」
言われて気づいたけど、僕のお尻は、座席から半分くらいはみ出していた。
少しでも白雪さんがゆったり座れればと思ったんですが、よく考えたら、これは一人ずつ分かれた席だったね。僕がどれほど身を縮めても、隣は広くならないよ。
「ほら、こっち」
白雪さんに袖を引かれて座り直すと、今度は向こうが、膝の上のパンフレットに目を落としてしまった。
「……もうすぐ始まるね」
「そうだね……」
もしかして、僕のポンコツっぷりが、白雪さんに伝染しちゃった?
でも、何か言おうとしたところで、客席の明かりがゆっくりと落ちていった。
うん、正直助かりました。
舞台に明かりがつくと、大きなカバンを提げた深山さんが、中央へと歩いてきた。
あの時も、こうして真っ直ぐに前を向いていたっけ。喉に手を当てて、何度も言葉を絞り出していた姿が頭をよぎる。
「私は、この町を出ていきます」
その堂々とした声は、僕たちにはっきりと届いた。
よかった。本当に、ちゃんと声が出てる。
思わず隣を見ると、白雪さんもこっちを見ていて、嬉しそうに頷いてくれた。
舞台の上では、出発しようとする深山さんのところへ、次から次へと人がやってきていた。
忘れ物を届けに来た人が、別の忘れ物をして帰っていく。引き止めに来たはずの人まで、一緒に行くと言い出す。
あの、深山さん、いつになったら出発できるんでしょうか。
笑い声が上がるたび、隣からも白雪さんの声が聞こえた。
僕も一緒になって笑っているうちに、さっきは何をあんなに緊張していたのか忘れてしまっていた。
* * *
「どうだった? 最後までちゃんと聞こえた?」
終演後、廊下で待っていた僕たちを見つけるなり、深山さんはそう尋ねてきた。
まだ舞台にいるみたいによく通る声で、近くにいた何人かまで振り向いている。
たぶん、今なら廊下の端からでも話ができそうだよ。
「うん、大丈夫でしたよ。途中から、声のことを気にしてたのも忘れて楽しんでました」
「私も。深山さんが本当に町を出ていっちゃうみたいで、最後はちょっと寂しかった」
「よかったあ。客席に二人が見えたから、なんか張り切っちゃった」
深山さんの顔は晴々としていて、これが彼女の本当の笑顔なんだな。
「もう、智紗ったら。衣装のままで走らないでよ……」
その声に振り向くと、能登さんが、ハンガーにかけた服を抱えて立っていた。
深山さんが自分の格好を見下ろして、あ、と声を上げる。
「ごめん、すぐ着替える。二人を見つけたから、つい」
「別に急がなくていいけど、歩く時は気をつけてね。裾、踏みやすいから」
能登さんに言われて、深山さんは慌てて裾を持ち上げた。
「能登さんも、お疲れさま」
「来てくれたのね、白雪さん。……観に来てくれて、ありがとう」
白雪さんに小さく頭を下げている能登さんの顔にも、すっかり明るさが戻っている。
二人とも舞台終わりで疲れてはいそうだけど、それはやり切ったって感じの疲れだ。
「若葉のおかげで大成功だったよ」
能登さんは、やめてよ、と小さく笑った。
あの夜、泣いていた能登さんに、深山さんが何を話したのか、僕たちは知らない。けれど、きっと良い方向に向かったんだということは分かる。
「……ねえ、智紗。次の公演のことなんだけど」
「うん?」
「わたしも、役をもらえるように、もう一度やってみようかなって。まだ、できるか分からないけど……」
「本当? じゃあ、一緒に練習しようよ!」
「だから、できるか分からないってば。しばらく声も出してないし」
「若葉なら大丈夫よ。さっそく明日、部活の前にどう?」
早くも練習の話になって、能登さんは少し困ったように笑ったけど、やがて、うん、と頷いた。
二人が揃って舞台に立つ時が来るなら、絶対に観に来たいな。
* * *
「深山さんたち、元気になったみたいで安心したよ」
「本当ね。これも千歳君のおかげよ、ありがとう」
「そんなことないよ! 白雪さんが深山さんのことを気にかけてたことがきっかけなんだし、白雪さんの友達を思う気持ちがあってこそだからね!」
「違うわ。困ってる人のために、体を張ったのは千歳君だもの。私の時も、深山さんの時も」
そんな真剣な眼差しで見つめられると、どう返していいのか困ってしまう。僕は少しでも力になれたらと思っていただけだし、体を張ったのも、僕から望んだことではないんです。
「白雪さん、あの……」
「なに?」
それでも最近、あることに気づいたんだ。
——もしかしたら、僕が白雪さんの近くにいてもいいのかもしれない、その理由に。
「えっと、実は……」
「あ、祀乃目君。ちょうどよかった」
ごくりと唾を飲み込んだタイミングで名前を呼ばれて、ずっこけそうになってしまった。
声をかけてきたのは、同じクラスの男子だった。例によって挨拶くらいしかしたことがないけどね。
「先生が呼んでるよ。職員室まで来てって」
「え、僕を? 分かった、ありがとう」
何だろう?
特に心当たりがないけど、何か忘れてることあったかな?
「白雪さん、ごめんね。職員室に寄っていいかな?」
「もちろんよ。私も一緒に行くわ」
白雪さんの言葉に頷いて、二人で職員室に向かおうとしたら、声をかけてきた子が僕たちの前に立ちはだかった。
「駄目だよ、日々瀬さんは、ここで待ってて。呼ばれてるのは、祀乃目君だけだから」
「私は一緒に行くだけよ? 職員室の前で待ってるから——」
「いや、駄目だ。祀乃目君だけ来ればいいんだ」
「……」
そこまで言われると、白雪さんにも何だか申し訳ない。用件を聞いて戻るだけなら、そんなに時間もかからないだろうし。
「白雪さん、よく分からないけど、とりあえずひとりで行ってくるよ。教室で待っててくれたらあとで行くから——」
「いいえ、私も行きます。もし何か言われても、私から説明するから問題ないわ。そこを通して」
そうですよね。
ひとりで行動しないようにという約束を、またもやうっかり破ってしまうところだった。でも、なにか事情があるのかもしれないし、どうしたらいいだろう。
「行こう、千歳君」
その子がもう一度口を開きかけたところで、白雪さんは僕の手を取った。
不意に手を握られて、返事が遅れた僕の前で、その子は何度も瞬きをしていた。ついさっきまで、白雪さんにあんなに言い張っていたのに、急に困ったような顔になっている。
歩き始めたところで、白雪さんが小声で囁いた。
「……何かおかしいわ」
「え?」
そう言われて振り返ると、声をかけてきた子は不思議そうな顔をして、ただぼうっと立っているだけだった。
「まさか……」
「とにかくここを離れましょう」
その後、念のため職員室に行ってみても、僕を呼んだという先生は見つからなかった。
職員室を出た僕と白雪さんは、顔を見合わせて頷いた。
うん、二人とも思ってることは同じだ。
「これって、久世御霊の仕業だよね?」
「そうだと思う。……柘榴さんに伝えておいたほうがいいかもしれないわ」
そういうと、白雪さんは自然にまた僕の手を取った。
「行きましょう、千歳君」




