03. むしろ巻き込んでほしい
ホームルームが終わると、クラスからはあっという間に人がいなくなる。
部活動やら帰りの寄り道の話をしながら、ひとりまたひとりと、楽しそうに教室を出ていく。
いつも僕を含め数人が残るのが定番だったが、一番最後にはならないように、明るく挨拶をして教室を出る。
やはり最後にポツンと居残るのは、ボッチを際立たせてしまう。
しかし、下駄箱で靴を履き替えようとして、数学の問題集を机の中に忘れたことに気づき、教室に戻る羽目になった。
面倒だけど仕方ない。この学校に来てまだ日は浅いけど、数学の先生がその日誰を当てるか、そのパターンはもう把握している。
そう、明日は絶対に僕が当てられる!
「…………」
昼間の喧騒が、嘘みたいに静まり返った教室。もう誰もいないと思っていたそこには、人影が残っていた。
窓際の席に立ちすくんだ日々瀬さんが、自分のカバンを覗き込んだまま、時間が止まってしまったみたいに固まっている。
日々瀬さんは、一度教室を出ていったはずだけど、もしかして、同じように忘れ物をして戻ってきたのだろうか。
傾き出した夕日が、薄茶色の髪を淡く縁取って、横顔のシルエットを強調している。それだけ切り取れば、いつぞや校内を案内してくれたときと同じ、映画のワンシーンみたいな場面だ。
でも、あのときと決定的に違うのは、誰にでも惜しみなく振りまかれるはずの笑顔が、今の日々瀬さんからは、すっぽりと抜け落ちてしまっていることだった。
「あの……日々瀬さん?」
ビクッと肩を跳ねさせて振り向いた日々瀬さんの顔には、もういつもの笑顔が浮かんでいたが、その笑顔は貼りつけているような不自然さだ。
「あ……祀乃目君。びっくりした、まだ残ってたんだ」
「すみません、驚かせて。忘れ物を取りに戻ってきて」
そう答えながらも、僕の視線は、日々瀬さんが抱えたカバンの中へと、吸い寄せられる。
そこには、くしゃくしゃに丸められたプリント、お菓子の空き袋、それらが無造作に突っ込まれていた。
几帳面そうな日々瀬さんの持ち物とは到底思えなくて、これは要するに、誰かが日々瀬さんのカバンにゴミを詰め込んだということだろう。
「……あの、これは」
僕の視線の先に気づいた日々瀬さんは、隠すように、そっとカバンの口を閉じた。
「ううん、なんでもないの。ちょっと、自分で散らかしちゃっただけ」
世の中には、自分のカバンにお菓子の空き袋を後生大事に溜め込む女子高生がいるかもしれないが、少なくとも目の前の日々瀬さんが、そういう業の深いタイプには見えない。
いや、本当に日々瀬さんがそういうタイプなら、それはそれでギャップがあって良いかもしれないけれど。
「そ、そうなんですね」
なんでもないなんて、そんなの嘘に決まってる。
とはいえ、それを問い詰める権利が、はたして僕にあるだろうか。僕はしょせん、転校してきて一ヶ月足らずの新参者——。
『ちょっと二人きりになったからって、いい気にならないでよね! あれは先生に言われて仕方なく案内しただけなんだから』
とか言われたらどうしよう。
その不安が頭をよぎり、結局、当たり障りのない相槌ひとつを残すのが精一杯だった。
日々瀬さんはカバンを抱えると、僕を置いてそのまま教室を出ていってしまう。
うん、やっぱりおかしい。
彼女はこういうとき、何も言わずクラスメイトを置いてけぼりにしていくような人じゃない。
自分の机から目的の問題集を回収し、慌てて日々瀬さんの後を追うと、彼女の姿はすぐに見つかった。
下駄箱の前で、靴を持ったまま固まっている。
「ひ、日々瀬さん」
今度ばかりは笑顔を取り繕う余裕もなかったのか、硬い表情のまま振り向いた日々瀬さんの手から、靴がぽとりと滑り落ちて、中から銀色に光る何かがばらばらと広がった。
……靴の中に画鋲とは、これまた古典的な手法を使う奴がいるものだ。
「あ……」
「ダメです、危ないですから。僕がやります」
日々瀬さんは、僕の言葉に何も返さず、しゃがみ込んだまま顔を伏せてしまった。
やっぱりこれは、放ってはおけない。
「日々瀬さん。もしかして、こういうの、今日が初めてじゃないんですか?」
「……最近、ずっとなの」
日々瀬さんの、弱々しく、消え入りそうな声。
白雪姫としてクラス中から慕われ、僕みたいな根暗な転校生にまで優しく接してくれる彼女が、どうして。
いや、完璧な彼女だからこそ、誰かの嫉妬を買っているのか。
それにしても、くだらないことをする奴は、どこにでもいるものだ!
「何か心当たりはないんですか。誰がやっているのか……」
日々瀬さんは、顔を伏せたまま首を横に振った。
「分からないの。だから、余計に怖くて」
僕が鈍感なだけで、もしかして、クラスにはいわゆるカーストとやらがあって、そこのボスが黒幕なのか。
などと思ってみるけど、実際のクラスの雰囲気は信じ難いほど穏やかで、そこにボスが潜んでいるとしたら、相当な役者だ。
「……僕、調べてみます」
「え?」
思わず勢いで言ってしまった僕の言葉に、日々瀬さんはきょとんとしている。
突然そんなこと言われても驚くよね。でも、これはまぎれもない僕の本心だ。
「誰がこんなことしてるのか、僕が調べます。転校してきたばっかりで、僕のことを気にしている人もいないし、えっと、ほら、《《まだ》》親しい人もいないので……誰のことでもフラットに見られると思うんです!」
思わず途中で寂しい本音が混じってしまったけど、最後の勢いで誤魔化せたはず。
しかし、その「親しい人もいない」僕が、いったいどんな伝手を頼ってクラスの内情を探るつもりなのか。
その矛盾を冷静に突っ込まれでもしたら、僕の心はすぐに折れてしまうかもしれない……。
「でも……祀乃目君を、巻き込むわけには」
「いえ、えっと、どちらかというと巻き込まれたいというか……」
あれ?
これは言葉選び間違えたか?
日々瀬さんはその大きな目を一瞬見開いて、それからふっと表情を緩めた。
「ありがとう、祀乃目君……」
もうその言葉だけで満足です。




