28. やましいことはありません
「手と顔を拭くの。柘榴さんが、お水を用意してくれたから」
白雪さんが示した机の上には、水の入った器と、白い布が置かれていた。
なるほど、お水と布。それなら何をするのかは分かるし、たぶん、僕が心配するようなことにはならなそうだ。
「これで拭くだけなんだね」
「そうよ。——千歳君、何だと思ったの?」
「いや、何をするのかなって。ほ、ほら、お祓いにもいろいろあるみたいだから」
おかしいな、間違ったことは言ってないはずだけど。少なくとも、僕が今までしてもらったものには、いろいろとありました。
「……もしかして、今まで柘榴さんにされたようなことを期待してた?」
「まさか、そんな! えっと、ほら、箱の中に入っちゃったみたいだからさ、これは相当しっかりとお祓いしないといけないかな、なんて思っただけで!」
「ふーん」
ここで目を逸らしてはいけない。やましいことがなければ、まっすぐに目を見返して問題ないんだから。
「このお水は、柘榴さんが清めてくれたものなんだって」
「そうなんだ。ありがたいね」
何がありがたいのかよく分からないけど、手間をかけて準備してくれてたことに対しては感謝だ。
「じゃあ、少し上を向いてくれる? 目、閉じててね」
「うん」
白雪さんの前で目を閉じる、こんなことがこの前もあったっけ。
でも、瞼に触れたものは、ちゃんと冷たい布だった。当たり前だよ、さっき自分で見たでしょ。
それなのに、すぐ近くで白雪さんが息をする気配を感じると、どうしてもあの時のことが頭をよぎる。
何も見えないというのは、余計な想像力をかきたててしまって、あまりよくないのかもしれない……。
「千歳君、力を抜いて。痛くないでしょう?」
「うん。大丈夫」
痛くはないです。むしろ、とても丁寧にしてもらっていると思います。
ただ、頬に添えられているほうの手は冷たくないので、どっちを意識すればいいのか分からなくなってきただけで。
目の周りから頬へと布が移って、ようやく息をつけたと思ったら、今度は耳の下を拭かれて、肩が跳ねそうになった。
「ごめんね、くすぐったかった?」
「ちょ、ちょっとだけ」
少し触られたくらいで落ち着かなくなるのもどうかと思うけど、こういうことに慣れる機会なんて、僕にはなかったんです。
違うよ、別に慣れるまでやってほしいという意味ではありません!
「……もう少しだけ、そのままでいてね」
布の冷たさが離れて、次はどこだろうと思っていたら、すぐそばで息を吸う気配がした。
続いて触れたものは、さっきまでの布とは違って、柔らかくて、温かくて——。
「……え?」
思わず目を開けると、白雪さんの顔がすぐそこにあった。
「あ、あの、白雪さん?」
「目を閉じててって言ったのに。だって、こ、こうしたほうが、いいかなって」
白雪さんの顔が、みるみる赤くなっていく。
これはどういうこと?
これも柘榴さんが指示したことなのかな?
「ほら、柘榴さんも、こうしてたじゃない……」
「そ、そうか、そうだよね」
そうだよね、じゃないよ!
さっきは拭くだけって言ってなかった? それに、柘榴さんがしていたことを期待してたのかと聞かれて、僕はちゃんと否定したはずなんですが。
もしかして、僕の顔はそんなにひどくやつれてたりするのかな。それで、気を利かせた白雪さんが、柘榴さんの真似をしたってこと?
「つ、次は腕ね。袖をまくってくれる?」
「はい、もちろん……」
何から何までしてもらっていると、だんだん小さな子どもになった気がしてくる。せめて袖くらいは、とボタンを外す僕の前で、白雪さんは布を水に浸していた。
「白雪さん」
「なに、千歳君?」
「さっき、引っ張り上げてくれたの、白雪さんだよね」
「そうよ。持ち上がるか心配だったけど、手を掴んだらすっと持ち上がって、不思議だったわ」
「あの箱の中に手を突っ込むなんて、怖くなかった?」
「怖かったわ。でも、柘榴さんが大丈夫だからって。タイミング合わせるの、うまくいくかドキドキしちゃった」
あそこで会った白雪さんは、柘榴さんや朱音ちゃんが僕たちを騙してると言っていた。でも、やっぱりそんなことはない。
白雪さんはきっと、人を疑うのが苦手なんだろう。それが良いことかどうかは別にして。
「それなのに、引き上げたら目を閉じたままだったから。返事もしてくれなくて……」
差し出した右腕を支える白雪さんの手に、少しだけ力がこもった気がした。
「ごめん。白雪さんの手に触ったあたりから、何も覚えてなくて」
「ううん。こうして話せてるから、もう大丈夫」
手首を拭いてくれている横顔を見ていると、つい、別の顔を重ねそうになってしまう。
「ねえ、千歳君」
「な、なに?」
「あの中はどんな感じだったの? なんだか随分大変そうだったけど」
あれ? 考えてることが口から漏れてた?
気まずいことを考えてるのが、白雪さんに筒抜けになってる?
「そうだね、えっと、砂漠とか公園とか、それに神社があって。それから——」
偽物の白雪さんまで出てきた。
いや、待て待て、これはまずい。僕の勝手な妄想が生み出したものだったとしても、白雪さんになんてことを言わせたんだ。
そんなこと、目の前の白雪さんに言うわけにはいかないよ。
「それから?」
「あーっと、とにかくいろんなことがあってね。全部話すと長くなるから、今度落ち着いたら話すよ」
その間に白雪さん向けに話すストーリーを準備しておこう。あのことは朱音ちゃんも知らないはずだけど、念のため朱音ちゃんとも食い違いがないようにしておきたい。
「それより、白雪さんは、大丈夫?」
「え、私?」
本当に聞きたいことは、まだうまく話せない。そもそも、僕なんかが踏み込んで良いのか分からないし。
「なんの役にも立たないかもしれないけど、白雪さんも、何かあったら言ってね」
布を持った白雪さんの手が止まって、思っていたよりまっすぐに目が合ってしまった。
「なんというか、あの、話を聞くくらいなら、できると思うから」
普通こういう場合の「話を聞くくらいなら」は、謙遜であって、しっかりとアドバイスできる自信がある人が言うんじゃないかな。
僕の場合、本当に聞くだけになっちゃいそうだ。
なんとなく言ってしまったけど、今からでも取り消した方が良いかもしれない——。
「……頼ってもいいの?」
「あ、うん、もちろん」
取り消すどころか、念押ししちゃったよ!
「じゃあ、遠慮しないでお願いするね」
期待に沿わない活躍をすることで名を馳せたこの僕が、果たして白雪さんの役になんて立てるのかな。
「はい、まずは、反対の手を貸して」
「あ、うん」
お祓いの途中だったことを、すっかり忘れていた。
机の上へ出した左手を白雪さんに預けると、腕から手首へ、布の冷たさがゆっくりと下りてくる。
「……あら?」
白雪さんが僕の手のひらと布を見比べていたので、つられて自分の手を確かめた。拭いてもらったばかりの皮膚は少し湿っているだけで、特に変わったところはなさそうだった。
「何かついてた?」
「うん……これ、何かしら」
広げられた白い布に、細い黒いものが見えた。
糸くずかと思ったけれど、布の上に乗っているというより、織り目に染み込んでいるように見える。
どこかで汚れたのかな。砂の上にも転がったし、木にも触ったし、心当たりならいくらでもある。
ただ、手についた汚れが、こんなに細い線になって残るものだろうか。
柘榴さんに聞いてみたいけど、朱音ちゃんとの話はまだ終わらないのかな。
「待たせたな。そっちは終わったか?」
「柘榴さん、ちょうど良かった。これ、なんでしょう?」
白雪さんが布を手渡すと、柘榴さんの眉間に軽く皺が寄った。
「……柘榴さん?」
布から目をあげた柘榴さんの視線は、僕の左手で止まった。
「千歳君。——櫃の中で、その手に何か触れたか?」
木々の間で、僕に向かって差し出された右手。
『私も、一度だけでいいから、誰かに手を差し伸べてほしかった』
あっちの白雪さんが差し出した右手に、僕は左手を重ねた。




