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図書館では声をひそめて  作者: 音鳴 凪
第三章【栲幡の糸】

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28. やましいことはありません

「手と顔を拭くの。柘榴(ざくろ)さんが、お水を用意してくれたから」


 白雪(しらゆき)さんが示した机の上には、水の入った器と、白い布が置かれていた。

 なるほど、お水と布。それなら何をするのかは分かるし、たぶん、僕が心配するようなことにはならなそうだ。


「これで拭くだけなんだね」


「そうよ。——千歳(ちとせ)君、何だと思ったの?」


「いや、何をするのかなって。ほ、ほら、お祓いにもいろいろあるみたいだから」


 おかしいな、間違ったことは言ってないはずだけど。少なくとも、僕が今までしてもらったものには、いろいろとありました。


「……もしかして、今まで柘榴さんにされたようなことを期待してた?」


「まさか、そんな! えっと、ほら、箱の中に入っちゃったみたいだからさ、これは相当しっかりとお祓いしないといけないかな、なんて思っただけで!」


「ふーん」


 ここで目を逸らしてはいけない。やましいことがなければ、まっすぐに目を見返して問題ないんだから。


「このお水は、柘榴さんが清めてくれたものなんだって」


「そうなんだ。ありがたいね」


 何がありがたいのかよく分からないけど、手間をかけて準備してくれてたことに対しては感謝だ。


「じゃあ、少し上を向いてくれる? 目、閉じててね」


「うん」


 白雪さんの前で目を閉じる、こんなことがこの前もあったっけ。

 でも、瞼に触れたものは、ちゃんと冷たい布だった。当たり前だよ、さっき自分で見たでしょ。

 それなのに、すぐ近くで白雪さんが息をする気配を感じると、どうしてもあの時のことが頭をよぎる。

 何も見えないというのは、余計な想像力をかきたててしまって、あまりよくないのかもしれない……。


「千歳君、力を抜いて。痛くないでしょう?」


「うん。大丈夫」


 痛くはないです。むしろ、とても丁寧にしてもらっていると思います。

 ただ、頬に添えられているほうの手は冷たくないので、どっちを意識すればいいのか分からなくなってきただけで。


 目の周りから頬へと布が移って、ようやく息をつけたと思ったら、今度は耳の下を拭かれて、肩が跳ねそうになった。


「ごめんね、くすぐったかった?」


「ちょ、ちょっとだけ」


 少し触られたくらいで落ち着かなくなるのもどうかと思うけど、こういうことに慣れる機会なんて、僕にはなかったんです。

 違うよ、別に慣れるまでやってほしいという意味ではありません!


「……もう少しだけ、そのままでいてね」


 布の冷たさが離れて、次はどこだろうと思っていたら、すぐそばで息を吸う気配がした。

 続いて触れたものは、さっきまでの布とは違って、柔らかくて、温かくて——。


「……え?」


 思わず目を開けると、白雪さんの顔がすぐそこにあった。


「あ、あの、白雪さん?」


「目を閉じててって言ったのに。だって、こ、こうしたほうが、いいかなって」


 白雪さんの顔が、みるみる赤くなっていく。


 これはどういうこと?

 これも柘榴さんが指示したことなのかな?


「ほら、柘榴さんも、こうしてたじゃない……」


「そ、そうか、そうだよね」


 そうだよね、じゃないよ!

 さっきは拭くだけって言ってなかった? それに、柘榴さんがしていたことを期待してたのかと聞かれて、僕はちゃんと否定したはずなんですが。


 もしかして、僕の顔はそんなにひどくやつれてたりするのかな。それで、気を利かせた白雪さんが、柘榴さんの真似をしたってこと?


「つ、次は腕ね。袖をまくってくれる?」


「はい、もちろん……」


 何から何までしてもらっていると、だんだん小さな子どもになった気がしてくる。せめて袖くらいは、とボタンを外す僕の前で、白雪さんは布を水に浸していた。


「白雪さん」


「なに、千歳君?」


「さっき、引っ張り上げてくれたの、白雪さんだよね」


「そうよ。持ち上がるか心配だったけど、手を掴んだらすっと持ち上がって、不思議だったわ」


「あの箱の中に手を突っ込むなんて、怖くなかった?」


「怖かったわ。でも、柘榴さんが大丈夫だからって。タイミング合わせるの、うまくいくかドキドキしちゃった」


 あそこで会った白雪さんは、柘榴さんや朱音ちゃんが僕たちを騙してると言っていた。でも、やっぱりそんなことはない。

 白雪さんはきっと、人を疑うのが苦手なんだろう。それが良いことかどうかは別にして。


「それなのに、引き上げたら目を閉じたままだったから。返事もしてくれなくて……」


 差し出した右腕を支える白雪さんの手に、少しだけ力がこもった気がした。


「ごめん。白雪さんの手に触ったあたりから、何も覚えてなくて」


「ううん。こうして話せてるから、もう大丈夫」


 手首を拭いてくれている横顔を見ていると、つい、別の顔を重ねそうになってしまう。


「ねえ、千歳君」


「な、なに?」


「あの中はどんな感じだったの? なんだか随分大変そうだったけど」


 あれ? 考えてることが口から漏れてた?

 気まずいことを考えてるのが、白雪さんに筒抜けになってる?


「そうだね、えっと、砂漠とか公園とか、それに神社があって。それから——」


 偽物の白雪さんまで出てきた。

 いや、待て待て、これはまずい。僕の勝手な妄想が生み出したものだったとしても、白雪さんになんてことを言わせたんだ。


 そんなこと、目の前の白雪さんに言うわけにはいかないよ。


「それから?」


「あーっと、とにかくいろんなことがあってね。全部話すと長くなるから、今度落ち着いたら話すよ」


 その間に白雪さん向けに話すストーリーを準備しておこう。あのことは朱音ちゃんも知らないはずだけど、念のため朱音ちゃんとも食い違いがないようにしておきたい。


「それより、白雪さんは、大丈夫?」


「え、私?」


 本当に聞きたいことは、まだうまく話せない。そもそも、僕なんかが踏み込んで良いのか分からないし。


「なんの役にも立たないかもしれないけど、白雪さんも、何かあったら言ってね」


 布を持った白雪さんの手が止まって、思っていたよりまっすぐに目が合ってしまった。


「なんというか、あの、話を聞くくらいなら、できると思うから」


 普通こういう場合の「話を聞くくらいなら」は、謙遜であって、しっかりとアドバイスできる自信がある人が言うんじゃないかな。

 僕の場合、本当に聞くだけになっちゃいそうだ。


 なんとなく言ってしまったけど、今からでも取り消した方が良いかもしれない——。


「……頼ってもいいの?」


「あ、うん、もちろん」


 取り消すどころか、念押ししちゃったよ!


「じゃあ、遠慮しないでお願いするね」


 期待に沿わない活躍をすることで名を馳せたこの僕が、果たして白雪さんの役になんて立てるのかな。


「はい、まずは、反対の手を貸して」


「あ、うん」


 お祓いの途中だったことを、すっかり忘れていた。

 机の上へ出した左手を白雪さんに預けると、腕から手首へ、布の冷たさがゆっくりと下りてくる。


「……あら?」


 白雪さんが僕の手のひらと布を見比べていたので、つられて自分の手を確かめた。拭いてもらったばかりの皮膚は少し湿っているだけで、特に変わったところはなさそうだった。


「何かついてた?」


「うん……これ、何かしら」


 広げられた白い布に、細い黒いものが見えた。

 糸くずかと思ったけれど、布の上に乗っているというより、織り目に染み込んでいるように見える。


 どこかで汚れたのかな。砂の上にも転がったし、木にも触ったし、心当たりならいくらでもある。

 ただ、手についた汚れが、こんなに細い線になって残るものだろうか。


 柘榴さんに聞いてみたいけど、朱音ちゃんとの話はまだ終わらないのかな。


「待たせたな。そっちは終わったか?」


「柘榴さん、ちょうど良かった。これ、なんでしょう?」


 白雪さんが布を手渡すと、柘榴さんの眉間に軽く皺が寄った。


「……柘榴さん?」


 布から目をあげた柘榴さんの視線は、僕の左手で止まった。


「千歳君。——櫃の中で、その手に何か触れたか?」


 木々の間で、僕に向かって差し出された右手。


『私も、一度だけでいいから、誰かに手を差し伸べてほしかった』


 あっちの白雪さんが差し出した右手に、僕は左手を重ねた。


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