27. 口約束も馬鹿にできない
「千歳君、ねえ、千歳君……!」
何度も名前を呼ばれている気がする。返事をしようにも、うまく声が出なくて、せめて目だけでもと瞼を持ち上げたら、視界いっぱいに白雪さんの顔があった。
「……し、白雪さん?」
「よかった……分かる? 私の声、聞こえる?」
「う、うん。聞こえるよ」
聞こえるし、見えてます。とてもよく見えてます。少しでも顔を上げたら、鼻と鼻がぶつかってしまいそうだ。
見開かれていた白雪さんの目が、僕の返事を聞いてゆっくりと細くなった。長い息が頬にかかって、ようやく目が覚めたというのに、また頭がぼんやりしてきてしまう。
顔に感じる温かさは、頬に添えられた白雪さんの手だと気づいて、今度は意識がはっきりしてきた。
目が覚めたりぼんやりしたり、頭がこんがらがってきちゃう。
「本当によかった……なかなか目を開けてくれないから」
「あの、ここ、図書館……?」
白雪さんの肩越しに見える天井には覚えがあった。背中に当たっているのも固い板の床だし、首を少し横へ向ければ、見慣れた書架が並んでいる。
空を裂いて現れた大きな口。
光る糸を登った先で差し伸べられた手に触れたところから覚えていないけど、どうやら無事に戻ってこれたみたいだ。
ちゃんと丸呑みしてくれたようで安心したよ。
「どこか痛くない? 起きられそう?」
「ありがとう、大丈夫だと思う」
「千歳君、熱っぽくない?」
それはあなたが体を密着させて肩を支えてくれているせいです。
戻ったら普通に話せるだろうかと心配はしていたけど、それは別の理由であって、せめてもう少し離れてもらえないと、何を話しても声が裏返りそうだ。
「あ、そうだ! 朱音ちゃんは?」
僕を先に上らせてくれた朱音ちゃんはどうなったんだろう。
ちゃんと戻ってこれたのかな——。
「我ならここにいるぞ」
声がしたのは、例の『禍津の櫃』のほうだった。
もちろん箱がしゃべったわけではなく、向こうからひょいと出てきた朱音ちゃんを見て、思わず肩の力が抜けてしまう。
良かった。僕がもたもたしたせいで、糸が切れちゃったりしてたらどうしようかと思った。
「ご苦労だった、朱音」
そしてその横には柘榴さんの姿もあった。その手には、神社の神主さんが手にするような、白木の柄の先から、折り重なった白い紙が幾筋も垂れている棒がある。
そういえば、空から聞こえてきた柘榴さんのあの言葉。あれは神主さんがお祓いをするときに言う言葉に近かったかな?
柘榴さんはやれやれというように、箱の蓋をポンポンと叩いている。
……もうあの箱は大丈夫なのかな。ただの箱じゃないのは身をもって知ったので、もう絶対にうかつには近づきません。
「朱音ちゃん、ありがとう。何度も助けてもらっちゃって」
「本当だ、まったく、手間のかかるやつだ」
「うん……ごめん」
いつもの調子で言い返してくれるのが、今は妙にありがたい。あそこで一人だったらと思うと、お尻を叩かれたことに文句なんて言えないよな。
「——千歳君」
すぐそばから名前を呼ばれて、つい背筋が伸びてしまった。
白雪さんの声にも表情にも、すっと冷たい何かが漂っていて、ぎこちなく振り向いたまま、目を逸らせなくなってしまった。
「ここにはひとりで来ないって、約束したよね?」
「は、はい、しました」
「じゃあ、どうして?」
白雪さんとの約束を忘れたわけじゃない。でも、どうしてもやらなきゃいけないと思ったんだ。
それはむしろ、白雪さんとこれからも仲良くできたらと思っていたからこそで。
けれど、白雪さんに説明する言葉は、何も用意していなかった。
「えっと、柘榴さんに、ちょっと聞きたいことがあって」
「私と一緒じゃ、だめだった?」
「そういうわけじゃ……」
いつか話せたらいいなと思わないわけじゃないけど、まだ心の準備ができてない。
いつもなら自分から離れていくことにためらいはないのに、なんでか白雪さんのことになるとうまくいかないな。
「…………」
言い繕う言葉がないわけじゃない。だけど、白雪さんの目を見ていると、適当な嘘を言う気にはなれない。
巻き込みたくないから、心配をかけたくなかったから。
「白雪さん、その……」
「約束を破った分は、ちゃんと埋め合わせしてね」
「……え?」
望みすぎた自分へのバチが当たったと思って、正直に話そうとしたところに、予想もしなかった返事が来て、僕は言葉に詰まってしまった。
「埋め合わせって、何をすればいいの?」
「それは、これから考えるわ。でも、埋め合わせをするってこと自体は約束して」
「そうだぞ、白雪。こんなに手間をかけさせたんだ、なんでも言うこと聞かせてやれ」
朱音ちゃんが、いつの間にか白雪さんの後ろに来て、肩を叩いて応援している。
もちろん僕が悪いので、反論するつもりはありません。ただ、内容を聞く前に約束するというのは、なかなか勇気がいることだと思うんですよ。
「えっと、僕にできることなら……」
「なんでもしてくれるってこと?」
白雪さんの口元が少し緩んで、それだけで、詰まっていた息がようやく通ったような気がした。
「はい! もちろん、なんでも!」
大丈夫かな? 白雪さんならそんなに無茶言わないよね、たぶん……。
でも、今度こそ、ちゃんと守るよ。
何をするのかは分からないままだけど、せめて、あんなふうに僕の顔を覗き込んで心配させるようなことは、もうしたくない。
「約束ね」
「うん」
小指での指切りだなんて、最後にしたのは子どもの頃だったかな。
指切りってこんなに緊張するものだっけ?
「ところで朱音。中はどうだった」
柘榴さんの声に、ようやくそちらをまともに見られた。聞きたいことがあるのは僕も同じだ。あの砂漠や教室が何だったのか、今なら少しは分かるのだろうか。
「はい、柘榴様。お話ししておきたいことが」
「私はしばらく朱音から話を聞く。白雪君、その間に千歳君を清めてやってくれ」
清める、と聞いて、ドキッとした。
お札を触った手を、穢れを覗いた目を、柘榴さんがお祓いと称して清めてくれた方法は……。
え? あれを白雪さんが?
「あの柘榴さん。清めるって、お祓いですか?」
「当然だ。千歳君、君は櫃の中から戻ったばかりだからな」
無事に帰ってきて、ほっとしたところでお祓いになるやつ。このパターンは知ってる。知ってるんだけど、それを白雪さんがやるのはまずくない?
いや、違う、柘榴さんならいいってわけじゃないんだ!
「——千歳君、こっちへ来て」
白雪さんはもう立ち上がって、僕を待っている。
あれ? もしかして、もう話は通ってる感じですか?
「あの、白雪さん。何をするのか、先に教えてもらえると……」




