26. 言葉通りだとは思わない
「あ、朱音ちゃん。それが……」
「あいつらはしばらく追ってこないだろうが、のんびりしている時間はないぞ」
振り向くと、そこにはもう白雪さんの姿はなかった。僕の心が生み出したにしては、やけに踏み込んだことを言っていた気もするけど、自分が本当に何を思っているかなんて、実は分からないものだ。
「どうした、また何か見たのか?」
「……ううん、なんでもない。どっちに行ったらいいのか分からなくてさ」
ここから出て白雪さんに会ったら、今までのようにうまく話せるだろうか。
教室で僕に敵意を向けた白雪さんと、さっきここで好意を向けてきた白雪さん。本当の彼女はどっちなんだろう。
まあ、「どっちでもない」もあるよね。どっちかであるなんて考えることが、少し自意識過剰なんじゃないか?
「出口はもうすぐだ。急ぐぞ」
「うん、行こう」
朱音ちゃんについて木々の間を進むうちに、少しずつ頭の上が開けてきた。今度こそ頂上なのかな。
でも、出口と言われて思い浮かべるようなものは、やっぱり見つからない。
そもそも、形は『口』だと言ってたっけ。出口だから口という、そういう話なの?
「ねえ、この辺でいいの?」
足元の草は短くなって、周りに視界を遮る木もなくなっていた。見晴らしはいいものの、ここから先はどちらへ行っても下り坂にしか見えない。
「柘榴様、到着しました!」
「わっ! ……びっくりした」
すぐ隣から響いた声に、危うく飛び上がりそうになってしまった。
朱音ちゃんは空を見上げているけど、柘榴さん、そんなところにいるの? つられて見上げても、空の色は相変わらずで、柘榴さんらしい人影なんて見えない。
僕も呼んだほうがいいのかな、と考えてたら、どこからともなく聞き覚えのある声が聞こえてきた。
——掛けまくも畏き、祓戸の大神等——
何を言っているのかは分からないけど、これは間違いなく柘榴さんだ。
——諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ、清め給へ——
頭の上から降ってくるようなのに、耳元で話しかけられているようにも聞こえて、どこを見ればいいのか分からなくなる。
「柘榴さん! 僕たちここにいます!」
——恐み、恐みも白す——
そして響いてきたのは、しゃらん、という澄んだ鈴の音だった。
その音はこの場所全体に広がるような大きさで、頭が揺さぶられる心地がして、思わず首をすくめてしまう。
「よし、開いたぞ」
何もなかったはずの空に、細い亀裂が走ったかと思うと、両端へどんどん伸びていく。
もしかして、空が裂けてる?
「朱音ちゃん、あれって……」
「あれが出口だ」
裂け目の縁に並んでいる白いものは、歯だろうか。そう思った途端に、上下に開いた形まで見覚えのあるものになってしまって、できれば気づきたくなかったなと後悔した。
確かに、口だよ。
空に、巨大な口が開いている。
「……本当に口なんだね」
「最初からそう言っただろう」
はい、言ってました。でもまさか、そのまま『口』だとは思わないよね。
しかも、空が裂けて口が現れるなんてさ。
あそこへ入れば外に出られる、ということなんだろうけど、どう見ても食べられる側の景色にしか見えない。せめて歯をしまってくれたりしないかな。
咀嚼なんてしないで、ちゃんと丸呑みしてくれるの?
「あれ? 何か出てきた……」
口の奥でほのかに光るものが見えて、思わず身構えてしまった。舌まで出てきたらどうしようと思ったものの、それにしてはずいぶん細い。
暗がりからゆっくりと垂れてくる白いものを目で追っていると、風に揺れるたび、光り方がかすかに変わった。
裁縫に使うような細い糸が、たった一本、巨大な口から僕たちのほうへ伸びてくる。
「またあいつらが追ってくるかもしれない。千歳、先に登れ」
……えっと、登る? この細い糸を掴んで?
「どうした、早くしろ」
「だって、こんな細い糸、掴んだ途端に切れちゃいそうだよ」
「栲幡千千姫命に縁のある栲幡の糸だぞ。切れるわけがないだろ」
切れるわけがないと言われても、そんな名前初めて聞いたよ。
なんでそんな「当たり前だろ」みたいな顔ができるのさ。栲幡の糸の口コミを調べるからちょっと待ってほしい!
「本当に大丈夫なの?」
「柘榴様が寄越したものだぞ」
地獄にいる犍陀多に救済の糸を垂らしたのはお釈迦さまだったっけ。
神様、仏様、柘榴様。
こうなったら、柘榴さんの謎アイテムを信じるしかない。
「ほら、早くしろ」
「分かった、分かったから、そんなに押さないでね?」
お尻を叩かれる前にと糸を掴んでみると、思っていたような頼りなさはなかった。指の間からするりと抜けてしまいそうなのに、少し引いただけで、体のほうが上へ持ち上がる。
「……なんだか体が軽い」
慌ててもう片方の手も添えた時には、足の裏が地面から離れていた。
こんな細いものにぶら下がっているのに、指が痛くなるどころか、踏み台にでも乗っているみたいに楽だ。足元には何もないんだから、楽なのもそれはそれで怖いんですが。
「朱音ちゃんはどうするの?」
「我もすぐに行く。お前は上だけ見ていろ」
つまり、下は見ないほうがいいということですね。
そういうことなら得意だ。見てはいけないものから目を逸らすのは、普段から心がけているので。
試しに少し上を掴んで体を引き寄せると、今度も拍子抜けするほど簡単に登れた。
さっきまで走り続けても疲れなかったし、ここにいる間だけ、僕も運動が得意な人になれているのかもしれない。できれば、この調子のまま学校の体力測定を受けたいな。
糸をたどるうちに、白く光るものが目の端へちらちらと入り始めた。なんだろうと少し顔を横へ向けて、それがさっき見えた歯だと気づく。
……近くで見ると、こんなに大きいんだ。
登ることに夢中になっているうちに、もう口のすぐ下まで来ていたらしい。糸の続く先を確かめようにも、頭の上いっぱいに広がった暗がりに、途中から溶け込んでしまっていた。
「ねえ、朱音ちゃん! この口、咀嚼したりしない?」
ここからだと、歯と歯の間くらいは通れそうだ。だから何だという話で、通れることと通りたいことは、まったく別だよ。
下は見ないほうがいいし、上は見たくない。
こんな時に目を閉じたら、ますますどうにもならないよな。
「馬鹿なこと言ってないで、早く上がれ!」
下から朱音ちゃんの声が聞こえて、少しだけほっとした。ちゃんと来てくれているらしい。
僕がここでつかえていたら、朱音ちゃんも出られないんだ。分かってる。分かってるんだけど、あの歯の向こうへ頭を入れるには、もう少し覚悟というものが——。
「千歳君、千歳君! 手を伸ばして!」
その声は、すぐ上から聞こえた。
糸を握り直しかけたところで、指が止まってしまった。
この声を聞いたら安心するはずなのに、ついさっきまで目の前にいた白雪さんの顔が浮かんで、返事がひと呼吸遅れてしまった。
「……白雪さん?」
「もう少しよ。手を伸ばして!」
顔を見ようと目を凝らしても、暗くて何も分からない。あと少し登れば見えるのかもしれないが、その少しが、どうにも遠かった。
「あの、落とさないでね……!」
片手だけでも大丈夫だろうかと糸を握る指に力を込めながら、空いた手を声のほうへ伸ばしてみる。
暗い口の中から差し出された、ほっそりとした手が見えた。




