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図書館では声をひそめて  作者: 音鳴 凪
第三章【栲幡の糸】

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25. その顔は放っておけない

 自分の心と言われてハッとした。


 砂漠に現れた巨大な鳥居をくぐった先で見たもの。公園でひとり佇む子どもの後ろ姿、教室で僕を睨みつける白雪さん、それに、暗闇の外から聞こえてきた怒鳴り声——。


 来ないで。

 呪われる。

 どうして騙したの。


 あれは、僕の心が作り出した幻のようなものだったということ?


「普通なら見た瞬間に取り込まれるんだがな。ほら、気をしっかり持て!」


 べしっとお尻を叩かれて、止まっていた右足を前へ出す。

 その足が地面についた瞬間、膝にかかっていた重さが少しだけ軽くなった。続けて左足を踏み出し、そのまま前へ体を押し出していく。


「行くぞ、今度は止まるなよ」


「うん!」


 朱音(あかね)ちゃんとともに、今度こそ斜面を駆け上がっていくものの、後ろから聞こえてくる足音は離れてくれない。道は狭く、横から張り出した枝を避けるたびに速度が落ちて、その分だけ背後の気配が近づいてくる。


「うわわっ!」


 後ろから肩を掴まれて、とっさに身を屈めると、その頭上を朱音ちゃんの影が横切った。


 振り向くと、今まさに大きな人影が、後ろに続く何人かを巻き込んで倒れていくところだった。


「お前は先に上へ向かえ」


「でも、朱音ちゃんは?」


「お前が捕まっては元も子もないだろ」


 僕がここに残っても、むしろ朱音ちゃんの邪魔になるだけだ。朱音ちゃんひとりだけならいくらでも逃げられそうだし。

 ……最初に助けてもらった時もそうだった。少しは成長したと思ったけど、また頼ることになっちゃうな。


「迷ってる暇はないぞ。我はそのために来たんだ」


「分かった! 上で待ってる!」


 * * *


 いつまでも続くと思っていた上り坂が、ようやく途切れた。それにしてもずっと全速力で走ってるのに、全然疲れないや。

 ここでは気の持ちようで足取りが変わるっていうことなのかな。


「そろそろ頂上のはずだけど、どこに向かえばいいんだろう……」


 うーん、肝心なことを聞いてなかった。


 朱音ちゃんが来るまで待っていようか。先に行けと言われたのに、出口を探して迷子になりました、なんてことになったら、今度はお尻を叩かれるだけでは済まない気がする。


 待つにしても、もう少し見通しのいいところがいいよね。どこかないかと辺りを見回した僕の目が、木々の切れ目に見えた人影に釘づけになった。


 背中で揺れる、ひとつに結ばれた薄茶色の長い髪。


 どうしてこんなところに?


「白雪さん?」


「千歳(ちとせ)君!」


 そうです、千歳君です。

 その呼び方にほっとしたのも束の間、こちらへ駆けてくる白雪さんは、なぜか足を止める気配がなくて、え? ちょ、ちょっと、このままだとぶつかる——!


「わっ、し、白雪さん!?」


「よかった……無事だったのね」


 白雪さんに抱きつかれているという、何とも信じがたい状況を、どう理解すればいいんだろう。


 祀乃目千歳、まだ短い人生だけど、もう満足です。うん、とりあえず人生に感謝しておこう。


 あの、白雪さん、そんなに顔を近づけられると、どこを見ればいいのか分からないんですが。目を逸らすのも失礼な気がするし、だからといって、見つめ合ってどうするんだ。


 背中に回された腕には結構な力がこもっていて、うかつに動けば、かえって変なところに触れてしまいそうだ。

 ち、違います! これは僕からやったことじゃないからね!


「あ、あの、どうして白雪さんがここに? もしかして、あの箱に……」


「千歳君を助けに来たのよ」


 朱音ちゃんと一緒に入ってきたということだろうか?

 やっぱり教室で会った白雪さんは、僕の心が生み出した幻覚で、こっちの白雪さんが本物ってことかな。


「私と一緒に早く逃げましょう」


 ……そんなに耳元で囁かなくても聞こえてるから大丈夫です。

 耳をくすぐるような息づかいに、頭の奥がクラクラしてくる。


 うーん、聞きたいことは山ほどあるのに、考えがちっともまとまらないよ。


「さっき朱音ちゃんと会ったんだ。もうすぐ追いつくと思うから、一緒に——」


「ダメよ!」


 顔を見ようとして少し離れかけたところを、またぎゅっと抱きしめられてしまった。

 もしかして、ここで待っている間に、僕と同じような変なものを見たりしたんだろうか。


「柘榴(ざくろ)さんと朱音ちゃんは、千歳君を騙してるの。——お願い、私を信じて」


 ……えっと、僕が待っている朱音ちゃんとは、別の朱音ちゃんの話をしてる?

 ついさっき、僕を助けるために蔵の壁まで蹴り壊してくれた姿を思い出すと、白雪さんの言葉を、すぐには飲み込めなかった。


 あの朱音ちゃんはどう考えても本物に思える。


「騙してるってどういうこと? 確かに二人が誰なのか、分からないことは多いよ。でも、朱音ちゃんは僕を助けてくれた。柘榴さんだって、白雪さんの呪いを祓ってくれたし」


「それも、千歳君を信じ込ませるためなの」


 柘榴さんには言いたいことがいくつもある。危ないことをやらせるなら先に説明してほしいし、お祓いだって、もう少し心の準備をさせてくれてもいいと思う。

 でも、あの二人がいなかったら、僕は今頃どうなっていたか。少なくとも、こうして白雪さんと話してはいられなかったはずだ。


「——僕には、二人が僕たちを騙してるとは思えないよ」


「……千歳君、私のことは、信じてくれないの?」


 どうしてそんなことを言うんだろうと顔を見れば、大きな目には涙がたまっていて、せっかく考えた返事が喉の奥へ引っ込んでしまった。


「あの、そういうことじゃなくて、僕は……」


「お願い、千歳君。私を信じて」


 白雪さんに、潤んだ目を向けられて、正気でいられる人がいるなら会ってみたい!

 その鋼の精神力をぜひ拝ませてもらいたいよ。


「今まで言えなかったけど、私は千歳君のことが……好き」


 ……はい?


 今、なんて?


 白雪さんが、僕のことを、好き?


「…………」


 なるほど、僕は、そうだったらいいなと思っていたのか。

 あれほど油断するなと言い聞かせて、近づきすぎてはいけないと戒めていたはずなのに、僕はこんなことを願ってしまっていたのか。


「千歳君……?」


 自分の都合の良さに嫌気がさしてくるよ。なんだかんだいっても、少し優しさを向けてもらった途端に、こんなことを望むだなんて。


「……ごめんなさい、白雪さん」


「どうしたの? 何を謝ってるの?」


「そんなことを言わせて、ごめんなさい」


 本人にはとても聞かせられない言葉だけど、せめて、目の前にいる白雪さんには謝っておこう。


「千歳君は、自分に厳しいんだね。私も、そんな強さがあったらいいのに」


 一歩僕から離れた白雪さんの顔に浮かんでいるのは、悲しみだろうか、寂しさだろうか。


 僕は強いから言ってるんじゃないんだ。どちらかというと、正反対の理由なんだよ。


 白雪さんと初めて話した時、映画の中の人みたいだと思った。誰にでも優しくて、笑顔が可愛くて、みんなから好かれている白雪姫。

 でも、カバンの中にゴミを詰め込まれていた時、僕に気づくまでの白雪さんは、そんな顔をしていなかった。


 あの時も、自分で散らかしただけだと言ってたっけ。


 周りに心配をかけたくなかったのか、それとも、誰かを疑うようなことを言いたくなかったのか。

 みんなが好きな白雪姫でいようとすると、言えなくなることもあるのかもしれない。


「——白雪さんは、十分に強いよ」


「そんなことないわ」


「転校してきたばかりの僕に、何度も声をかけてくれたじゃないか。ああいうことは、誰にでもできることじゃないよ」


 自分で言ってて悲しくなるけど、これは本当だ。あの時の僕と仲良くなろうなんて、僕自身にだって無理だったと思う。


「僕は、白雪さんが話しかけてくれて、嬉しかったんだ」


「……私は……私も、一度だけでいいから」


 右手を差し伸べた白雪さんの目から、すっと涙が溢れた。


「誰かに手を差し伸べてほしかった」


 あれ? 何かおかしくない?

 白雪さんが何か抱えているとは思っていたけど、僕はここまで白雪さんを理解していただろうか……。


 でも、白雪さんは実際に、その手と言葉を、僕に差し出してくれたんだ。


 伸ばされた右手へ、おずおずと左手を伸ばす。白雪さんが僕にしてくれたように、迷わずとはいかなかったけど、今度会った時にも、同じことを言えたらと思った。


「白雪さん、僕はいつでも、あなたの味方です」


 僕の左手と、白雪さんの右手が軽く触れ合う。


「おい、千歳、まだこんなところにいたのか!」


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