25. その顔は放っておけない
自分の心と言われてハッとした。
砂漠に現れた巨大な鳥居をくぐった先で見たもの。公園でひとり佇む子どもの後ろ姿、教室で僕を睨みつける白雪さん、それに、暗闇の外から聞こえてきた怒鳴り声——。
来ないで。
呪われる。
どうして騙したの。
あれは、僕の心が作り出した幻のようなものだったということ?
「普通なら見た瞬間に取り込まれるんだがな。ほら、気をしっかり持て!」
べしっとお尻を叩かれて、止まっていた右足を前へ出す。
その足が地面についた瞬間、膝にかかっていた重さが少しだけ軽くなった。続けて左足を踏み出し、そのまま前へ体を押し出していく。
「行くぞ、今度は止まるなよ」
「うん!」
朱音ちゃんとともに、今度こそ斜面を駆け上がっていくものの、後ろから聞こえてくる足音は離れてくれない。道は狭く、横から張り出した枝を避けるたびに速度が落ちて、その分だけ背後の気配が近づいてくる。
「うわわっ!」
後ろから肩を掴まれて、とっさに身を屈めると、その頭上を朱音ちゃんの影が横切った。
振り向くと、今まさに大きな人影が、後ろに続く何人かを巻き込んで倒れていくところだった。
「お前は先に上へ向かえ」
「でも、朱音ちゃんは?」
「お前が捕まっては元も子もないだろ」
僕がここに残っても、むしろ朱音ちゃんの邪魔になるだけだ。朱音ちゃんひとりだけならいくらでも逃げられそうだし。
……最初に助けてもらった時もそうだった。少しは成長したと思ったけど、また頼ることになっちゃうな。
「迷ってる暇はないぞ。我はそのために来たんだ」
「分かった! 上で待ってる!」
* * *
いつまでも続くと思っていた上り坂が、ようやく途切れた。それにしてもずっと全速力で走ってるのに、全然疲れないや。
ここでは気の持ちようで足取りが変わるっていうことなのかな。
「そろそろ頂上のはずだけど、どこに向かえばいいんだろう……」
うーん、肝心なことを聞いてなかった。
朱音ちゃんが来るまで待っていようか。先に行けと言われたのに、出口を探して迷子になりました、なんてことになったら、今度はお尻を叩かれるだけでは済まない気がする。
待つにしても、もう少し見通しのいいところがいいよね。どこかないかと辺りを見回した僕の目が、木々の切れ目に見えた人影に釘づけになった。
背中で揺れる、ひとつに結ばれた薄茶色の長い髪。
どうしてこんなところに?
「白雪さん?」
「千歳君!」
そうです、千歳君です。
その呼び方にほっとしたのも束の間、こちらへ駆けてくる白雪さんは、なぜか足を止める気配がなくて、え? ちょ、ちょっと、このままだとぶつかる——!
「わっ、し、白雪さん!?」
「よかった……無事だったのね」
白雪さんに抱きつかれているという、何とも信じがたい状況を、どう理解すればいいんだろう。
祀乃目千歳、まだ短い人生だけど、もう満足です。うん、とりあえず人生に感謝しておこう。
あの、白雪さん、そんなに顔を近づけられると、どこを見ればいいのか分からないんですが。目を逸らすのも失礼な気がするし、だからといって、見つめ合ってどうするんだ。
背中に回された腕には結構な力がこもっていて、うかつに動けば、かえって変なところに触れてしまいそうだ。
ち、違います! これは僕からやったことじゃないからね!
「あ、あの、どうして白雪さんがここに? もしかして、あの箱に……」
「千歳君を助けに来たのよ」
朱音ちゃんと一緒に入ってきたということだろうか?
やっぱり教室で会った白雪さんは、僕の心が生み出した幻覚で、こっちの白雪さんが本物ってことかな。
「私と一緒に早く逃げましょう」
……そんなに耳元で囁かなくても聞こえてるから大丈夫です。
耳をくすぐるような息づかいに、頭の奥がクラクラしてくる。
うーん、聞きたいことは山ほどあるのに、考えがちっともまとまらないよ。
「さっき朱音ちゃんと会ったんだ。もうすぐ追いつくと思うから、一緒に——」
「ダメよ!」
顔を見ようとして少し離れかけたところを、またぎゅっと抱きしめられてしまった。
もしかして、ここで待っている間に、僕と同じような変なものを見たりしたんだろうか。
「柘榴さんと朱音ちゃんは、千歳君を騙してるの。——お願い、私を信じて」
……えっと、僕が待っている朱音ちゃんとは、別の朱音ちゃんの話をしてる?
ついさっき、僕を助けるために蔵の壁まで蹴り壊してくれた姿を思い出すと、白雪さんの言葉を、すぐには飲み込めなかった。
あの朱音ちゃんはどう考えても本物に思える。
「騙してるってどういうこと? 確かに二人が誰なのか、分からないことは多いよ。でも、朱音ちゃんは僕を助けてくれた。柘榴さんだって、白雪さんの呪いを祓ってくれたし」
「それも、千歳君を信じ込ませるためなの」
柘榴さんには言いたいことがいくつもある。危ないことをやらせるなら先に説明してほしいし、お祓いだって、もう少し心の準備をさせてくれてもいいと思う。
でも、あの二人がいなかったら、僕は今頃どうなっていたか。少なくとも、こうして白雪さんと話してはいられなかったはずだ。
「——僕には、二人が僕たちを騙してるとは思えないよ」
「……千歳君、私のことは、信じてくれないの?」
どうしてそんなことを言うんだろうと顔を見れば、大きな目には涙がたまっていて、せっかく考えた返事が喉の奥へ引っ込んでしまった。
「あの、そういうことじゃなくて、僕は……」
「お願い、千歳君。私を信じて」
白雪さんに、潤んだ目を向けられて、正気でいられる人がいるなら会ってみたい!
その鋼の精神力をぜひ拝ませてもらいたいよ。
「今まで言えなかったけど、私は千歳君のことが……好き」
……はい?
今、なんて?
白雪さんが、僕のことを、好き?
「…………」
なるほど、僕は、そうだったらいいなと思っていたのか。
あれほど油断するなと言い聞かせて、近づきすぎてはいけないと戒めていたはずなのに、僕はこんなことを願ってしまっていたのか。
「千歳君……?」
自分の都合の良さに嫌気がさしてくるよ。なんだかんだいっても、少し優しさを向けてもらった途端に、こんなことを望むだなんて。
「……ごめんなさい、白雪さん」
「どうしたの? 何を謝ってるの?」
「そんなことを言わせて、ごめんなさい」
本人にはとても聞かせられない言葉だけど、せめて、目の前にいる白雪さんには謝っておこう。
「千歳君は、自分に厳しいんだね。私も、そんな強さがあったらいいのに」
一歩僕から離れた白雪さんの顔に浮かんでいるのは、悲しみだろうか、寂しさだろうか。
僕は強いから言ってるんじゃないんだ。どちらかというと、正反対の理由なんだよ。
白雪さんと初めて話した時、映画の中の人みたいだと思った。誰にでも優しくて、笑顔が可愛くて、みんなから好かれている白雪姫。
でも、カバンの中にゴミを詰め込まれていた時、僕に気づくまでの白雪さんは、そんな顔をしていなかった。
あの時も、自分で散らかしただけだと言ってたっけ。
周りに心配をかけたくなかったのか、それとも、誰かを疑うようなことを言いたくなかったのか。
みんなが好きな白雪姫でいようとすると、言えなくなることもあるのかもしれない。
「——白雪さんは、十分に強いよ」
「そんなことないわ」
「転校してきたばかりの僕に、何度も声をかけてくれたじゃないか。ああいうことは、誰にでもできることじゃないよ」
自分で言ってて悲しくなるけど、これは本当だ。あの時の僕と仲良くなろうなんて、僕自身にだって無理だったと思う。
「僕は、白雪さんが話しかけてくれて、嬉しかったんだ」
「……私は……私も、一度だけでいいから」
右手を差し伸べた白雪さんの目から、すっと涙が溢れた。
「誰かに手を差し伸べてほしかった」
あれ? 何かおかしくない?
白雪さんが何か抱えているとは思っていたけど、僕はここまで白雪さんを理解していただろうか……。
でも、白雪さんは実際に、その手と言葉を、僕に差し出してくれたんだ。
伸ばされた右手へ、おずおずと左手を伸ばす。白雪さんが僕にしてくれたように、迷わずとはいかなかったけど、今度会った時にも、同じことを言えたらと思った。
「白雪さん、僕はいつでも、あなたの味方です」
僕の左手と、白雪さんの右手が軽く触れ合う。
「おい、千歳、まだこんなところにいたのか!」




