23. ひと安心にはまだ早い
「やっぱり、あの箱の中だったんだ……」
まあ、それで何かが分かったかというと、むしろ分からないことが増えたよ。
「話はあとだ」
聞きたいことは山ほどあったけど、朱音ちゃんは僕から目を逸らすと、薄暗い蔵の奥を睨みつけた。
さっき僕を誘っていた影が、形を崩したまま床や柱に染みついた暗がりの中で蠢いてる。元の形に戻ろうとしているのか、黒いものが集まっては離れ、少しずつ大きくなっていく。
「まだ消えてなかったのか」
床を這う影の一部が、こちらへ向かって細く伸びてきたものの、天井から差し込む光の手前で止まり、触れる場所を探すように左右へ揺れた。
「千歳、光から出るなよ」
なるほど、こいつは光の中には入れないんだな。朱音ちゃんが天井を壊したおかげで、僕はスポットライトを浴びてるみたいになっている。
ああ、スポットライトを浴びるなんて、僕の人生でこれが最初で最後かもしれないな。
「朱音ちゃん、気をつけて!」
くだらないことを考えていたら、影が急に大きく広がってヒヤリとしたけど、朱音ちゃんはぴょんと影を飛び越えると、その勢いのまま蔵の壁を蹴りつけた。
乾いた板の割れる音がいくつも重なって、壁の一部が外側へ崩れ落ちていく。
……朱音ちゃんらしいといえばそうだけど、豪快すぎるでしょ。
でも、そのおかげで外からの光が蔵の中に広がり、床を這っていた影は棚の奥へ引いていった。
「朱音ちゃん、大丈夫?」
「これでもう、ここには出てこれないだろう」
朱音ちゃんに続いて壊れた壁を越えると、急に眩しくなって、しばらく目を開けていられなかった。
また別の場所へ移されたのかと思いきや、振り返れば、壁に穴の開いた蔵がちゃんとそこにある。今度は景色が変わったわけじゃなくて、本当に外へ出てきたらしい。
目が慣れてくると、足元から先へ続く石畳と、その両側を埋める背の高い草が見えてきた。傾いた石灯籠や、屋根の崩れた古い社もある。
「ここ、神社なの?」
「さっきも言っただろう。ここは禍津の櫃の中だ」
境内らしき場所はすっかり荒れ果てていて、鳥居の向こうにも枯れた木々が続いているだけだった。
「砂漠に、公園、教室、それで今度は神社?」
「この中は理屈じゃ説明できない。入るたびに景色が変わるからな」
そもそもあの箱自体が説明できないよね。
入るたびってことは、もしかして、朱音ちゃんは何度もここに来たことがあるのかな。
「あれ?」
朱音ちゃんの姿にどこか違和感があるような。
頬の横で切り揃えられた黒髪、襟元や袖口から覗くフリル、そして足元は……。
「あ! 朱音ちゃん、それ!」
「ふふ、気づいたか」
いつも裸足だったはずの朱音ちゃんの足元には、着物に合わせたような朱色の草履があった。
「どうだ、いいだろう」
草履を見せるように片足を上げた朱音ちゃんの顔には、満足そうな笑みが浮かんでいる。
「うん、とても似合ってる!」
「これはな、白雪が我のために選んでくれたのだ」
「白雪さんが?」
「そうだ。この前我の元を訪れた白雪がプレゼントしてくれた」
白雪さんは、いつの間にかそんなに朱音ちゃんと仲良くなってたのか。
な、なんだか、朱音ちゃんの目が何かを訴えてる気がする。
「えっと、もしかして……何か言いたいことがある?」
「ふん、お前はモテなさそうだな。そんなことじゃ白雪に愛想を尽かされるぞ」
ひどい!
モテないのは確かだから、何も言い返せない。でも、白雪さんの名前を出すなんて、ちょっと気にしちゃうじゃん!
祀乃目君——さっき見た白雪さんの姿がまだ脳裏にチラつく。
あれはこの場所が見せた幻覚なんだ。そう、今はそんなこと考えてる場合じゃないよ。
「それで、朱音ちゃん。とにもかくにも、ここから出るにはどうしたらいいの?」
「我が入ってきたところからは戻れないからな。この中で出口を探すことになる」
「朱音ちゃんはどこから入ってきたの?」
「飛び込んできただけだ」
朱音ちゃんは空を指さしている。さっき天井を破って降ってきたのは、そのまま落ちてきたってこと?
うん、もう朱音ちゃんの行動にいちいち驚くのはやめよう。
「出口っていうのは、場所は分かるの?」
「我が何のために来たと思ってるんだ。ほら、出口はあっちだ」
神社の後ろには小高い丘が見えている。細い道が木々のあいだを縫うように、ずっと上の方まで続いてるみたいだ。
「あそこの頂上までいけば分かるはずだ」
「はずっていうと、行ってみないと分からないってこと?」
「そうだな。正確には行ってみないと分からない。形は口と決まってるが、どう現れるのかが問題だ」
「くち? 何でそんなものが——」
いや、ここでそんなことを聞くのは無駄だった。
頂上には『口』らしいものは見えない。本当にあそこなのと聞こうとした時には、朱音ちゃんはもう歩き出していた。
「もたもたするな、急ぐぞ」
社の裏手に回ると、石畳は途中で途切れ、代わりに草の中へ細い道が伸びている。
斜面はそれほど急じゃないけれど、足元に石や木の根が飛び出していて、気を抜くとすぐにつまずきそうになる。
「ちょっと待ってよ!」
どんどんと先に進む朱音ちゃんの後を追おうとしたその時、背後で、じゃりじゃり、という音が聞こえた。
足を止めて振り返ると、さっきまで見えていた境内が、どこにもなかった。
「……え?」
急に周りが暗くなった。
木々の陰になったとか、そういう暗さじゃなくて、自分の足元さえ見えない。
慌てて向き直っても、先へ続いていた道も、朱音ちゃんの赤い着物も見つからなかった。
「朱音ちゃん? どこにいるの?」
おかしいな、そんなに離れてなかったよね?
下手に動いたら道から外れてしまいそうで、手を前に出してみると、すぐに指先が何かにぶつかった。
ざらざらした、平らなもの。手のひらで確かめた感じでは、木の板みたいだ。
「……こんなところに、壁?」
また急に別の場所に移動しちゃったのかな。
横から回れないかと手を滑らせても、少し先でもう行き止まりになっていた。しかも、そちらへ体を向けようとしたら、今度は背中まで何かにぶつかる。
ちょっと待って。これ、僕がいるところ以外、全部塞がってない?
かがんで下のほうを探ろうにも、膝の先には柔らかいものが詰まっていて、思うように動けなかった。
触ったところから埃っぽい匂いがして、鼻の奥がむずむずする。古い布を、長いことしまい込んでいたような——。
「もしかして、ここって」
目の前の板を押してみても、少し軋むだけで動かなかった。どこかに取っ手があるはずだと指を這わせながら、引くんじゃなくて、横へ動かすんだったかな。
もう忘れたと思っていたのに、どうしても思い出してしまう。
小さな手で何度押しても、引っ張っても開かなかった。
もう何もしないから、ここから出してほしくて、外へ向かって何度も呼びかけた。最後は泣きながら叩いて——でも、それがまた、いけなかったんだっけ。
「あの、誰か……」
言いかけて、口をつぐんでしまった。
外で、どん、と大きな音がした。
続けて、床を強く踏むような音が近づいてくる。昔はそれが聞こえると、扉から離れて、奥の荷物の隙間へ体を押し込んでいた。
今も背中を押しつける場所を探している自分に気づいて、嫌になってしまう。もうあの頃みたいな、小さな子どもじゃないのに。
足音が、すぐそばで止まった。
出たい。ここから出してほしい。
でも、今は開けないで。もう少しだけ、何も言わないでいてくれたら——。
「お前がいると、ろくなことがない!」
耳を塞ごうとした手は、その声に間に合わなかった。




