22. 怪しい誘いには気をつけよう
ぐらりと視界が揺れて、思わず尻餅をついてしまった。
「いてて、今度はなんだ……」
何が起きてもいいように、備えていたつもりだったのに、ちょっと油断しちゃったな。
頭を振って立ち上がると、最初に見えてきたのは、目の前に並んだ机だった。
「……これは、教室かな?」
黒板の横に貼られた時間割も、窓際に並ぶ机も見覚えがある。どうやら、ここは僕たちの教室らしい。
砂漠の次は公園で、今度は学校か。どういう基準で場所が変わってるのか分からないけど、少なくとも、ここならどこに何があるのかは分かる。
「うーん、でも、元に戻ってきた、というわけじゃなさそうだね」
教室の後ろから見る風景は、馴染みのあるもののようで、細かいところがぼんやりしていた。たとえば黒板に書かれた日付は今日になってる。でも、その下に書かれた日直の名前は、子どもがイタズラで書いた文字のようで読み取れない。
よく見ると、時間割なんかも、それっぽく作られているだけで、中身は適当だ。現実を真似して作ったハリボテ、そんな印象。
「誰かが作った……うう、変なこと考えちゃった」
自分の勝手な想像で背筋がぞくりとしてしまった。
教室の中には誰もいないし、廊下からも何の音も聞こえてこない。窓に近づいて外を覗いてみると、そこにはちゃんと校庭が広がっていた。人影は見えないし、空の色は砂漠で見た時と同じままだ。
「え……」
もう一度教室の中へ視線を戻すと、さっきまで誰もいなかったはずなのに、一番前の席に誰かが座っていた。
前を向いていて、僕から見えるのは後ろ姿だけど、その姿を見間違えるわけがない。
背中で揺れる、ゆったりとひとつに結ばれた、薄茶色の長い髪。
「…………」
白雪さん、と呼びかけようとしたのに、やっぱり声が出ない。さっきの公園の時と同じだ。
もしかして、僕を探しにきてくれたのだろうか。いや、そんなわけないよ。僕が旧図書館にいることは誰にも言ってないんだから、そんなはずはないんだ。
でも、もし白雪さんも何かに巻き込まれていて、前のように操られていたら?
そんな可能性もゼロじゃないよな。
「…………」
もう一度呼びかけようとしても、やっぱり声は出ないみたいだ。
気づいていないのか、僕がすぐ後ろまで近づいても反応がないので、そっと肩に手を伸ばそうとすると、白雪さんが急に椅子から立ち上がった。
振り返った白雪さんの表情を見て、体が強張るのを感じる。
「こっちに来ないで、祀乃目君」
逃げるように離れていく白雪さんの目は険しく細められ、口元はギュッと結ばれている。困っている顔は見たことがあるけど、白雪さんは怒るとこんな表情をするのか。
白雪さんが僕を「千歳君」と呼ぶようになってから、それほど日が経っているわけじゃない。それなのに、名字で呼ばれただけで、ひどく遠くに行ってしまったような気がする。
「どうして私を騙したの。私はあなたを信じてたのに。ひどいわ」
これは幻なのか、それとも——。
「僕は……」
さっきまで出なかった声が、今度は掠れて喉から漏れた。だけど、何と言葉を続ければいいんだろう。
それにしても、こんなことを言われているのに、妙に冷静な自分にも呆れてしまうな。
「祀乃目君。二度と私の前に顔を見せないで」
まっすぐ僕を指差した白雪さんの顔が、ぐにゃりと歪んだ。
そうじゃない、僕の視界のほうが、大きくねじれ始めていた。
* * *
手に伝わる冷たさからして、さっきまでの教室とは違うようだ。
「……これ、いつまで続くの?」
とりあえず声は出るみたいだ。
それにしても、こう何度もクラクラすると、そのうち乗り物酔いにでもなりそうだよ。
しかも、目の前の揺れが収まっても、薄暗くて周りがよく見えない。
それでもしばらくすると、少しずつ暗さに目が慣れてきて、太い柱や、木箱の積まれた棚がぼんやりと浮かび上がってきた。埃と古い木の匂いからして、古い蔵の中みたいだ。
まあ、実際に入ったことがあるわけじゃないけど、「蔵の中からお宝発見!」的なテレビで見る風景にそっくりだ。
足元に注意しながらゆっくりと立ち上がって、もう一度周囲を見回してみても、出口というか扉らしきものが見当たらない。
ここまでのパターンからすると、また景色が変わるとか、誰かが現れるとか……。
それにしても、鳥居をくぐってからのことを思い返すと、もしかしてここは箱の中じゃなくて、夢の中なのではという気がしてきた。
だって、公園でもその後の教室でも、起きたのは僕の——。
——手を伸ばせ。
「え? だ、誰?」
声というか音というか、不思議な響きが聞こえてくる。
いったいどこから?
——お前から手を伸ばせ。
目を凝らすと、壁に並んだ棚の一番奥に、人のような形をした何かが見えた。暗くて輪郭までは分からないけど、そこだけ周りよりも闇が深く、じっとこちらを見ているような気がする。
「えっと、こ、こんにちは」
…………。
声をかけても返事はない。ちょっと挨拶の仕方を間違えたかな。
もしこれが夢なら、そう気づいた時点で目が覚めるんじゃなかったっけ?
——お前の穢れを食ってやろう。
——そうすれば、お前はもう苦しまずにすむ。
声はだんだんとはっきりしてきて、ぼんやりしていた影も濃くなってきている。
穢れを食うとは、どういうことだろう。柘榴さんのように、お祓い的なこと?
それにしたって、僕の穢れって……。
——お前は分かっているだろう。
公園にひとり残された子どもの背中、僕を名字で呼んで怒りを向けた白雪さんの顔。
——手を伸ばせ。
人が離れていっても、敵意を向けられても、それはその人が悪いとは限らない。
そんなの今に始まったことじゃないし、僕のボッチ歴を舐めないでほしいな。
「あ、あれ?」
こんなの怪しいに決まってる。そんなことは分かっているのに、断る理由を考えようとすると、頭の中に白い靄がかかったみたいに、何も浮かんでこなかった。
どうして私を騙したの——違う、僕は騙そうだなんて思ってない。僕だって本当は……。
止めなきゃと思っているのに、右手が暗闇の奥へと伸びていく。力を入れて引き戻そうとしても、指先の感覚は、自分のものじゃないみたいに遠かった。
バチン!
「うわわ!」
伸ばした指先が影に触れそうになった途端、そこから弾けるような衝撃が走り、僕の体は後ろに吹き飛ばされた。
——!!
影のほうからうめき声が上がったかと思うと、その形が不安定に崩れていく。
——貴様!
ぶわっと吹きつけた生ぬるい風に全身を撫でられ、ぞわりと鳥肌が立った。
やばい、怒ってますよね!
なんでか分からないけど、こんな得体の知れない相手すら怒らせるなんて、僕はその手の才能に恵まれてるのかな。
なんとか体を動かそうとしていたその瞬間、今度は耳をつんざく轟音が頭上から響いてきた。
「うわっ! 今度はなに!」
上から何かが降ってきて、崩れた天井から光が差し込んだ。
「間に合ったか」
聞き覚えのある声を追って顔を上げると、降り注ぐ埃の向こうに、鮮やかな赤い着物姿の少女が立っていた。頬の横で切り揃えられた黒髪と、襟元や袖口から覗くフリル。
「朱音ちゃん!」
「もう食い散らかされているかと思ったが、その様子だとまだだったようだな」
食い散らかすってなに!?
もしかして熊か何かが僕をおびき寄せてたの?
「あの、ここはいったいどこで、朱音ちゃんはどこから来たの? 僕はもう訳が分からなくて……」
「ここは禍津の櫃の中だ。お前はあれに呑み込まれたんだ」




