18. これ見たことあるやつだ
四度目の着地から解放されて、地面の感触を噛みしめていたころには、窓の明かりよりも空の残照のほうが、ずっと頼りなくなっていた。
「まったく、ひどい目にあった……」
「なんだ、文句があるのか。我の投げ方は完璧だっただろう」
「投げ方の話じゃなくてね……」
たしかに痛いところはひとつもない。むしろ着地のたび、絹の座布団に受け止められているような丁寧さだった。でも、そういう問題じゃないんだよ。普段空を飛ぶことなんてない人間には、心の準備が必要なんだから。
「——千歳君!」
部室棟の角から小走りで駆けてきた白雪さんの姿を見て、朱音ちゃんへの文句はいったんしまっておくことにした。
なんにせよ、おかげで役に立てたことは間違いない。
「大丈夫、怪我してない? あんなことするなんて思ってなかったから、私驚いちゃって……」
白雪さんは僕の顔を覗き込み、それから全身へと視線を滑らせた。
突然、人が窓の外に飛んできたら、そりゃ驚くよね。白雪さんはよく声を出さなかったと思うよ。
「ははは……僕も聞いてなかったよ」
隣で腕を組んでいるこの子が何も教えてくれなかったから。
じっとりと視線を送ってみても、朱音ちゃんは素知らぬ顔で夕空を眺めている。
「それで、千歳君、見えたのよね?」
白雪さんが合図してくれた、部屋の隅で衣装を膝に広げていた女の子。その肩から背中に、ぴったりと張り付いていた真っ黒なモヤ。後ろから誰かに抱きすくめられているみたいだった。
僕がそのことを伝えると、白雪さんの顔から血の気が引いていく。
「能登さん、まだ体調が万全じゃないのに、本番に間に合うように、衣装を調整しに来てくれたんだって。深山さんが嬉しそうに言ってたの」
白雪さんの目が、部室の窓を見上げる。明かりのついた窓からは、まだ元気のいい台詞の声が響いてくる。
「穢れは確認できたんだ。一度、柘榴様のところへ戻るのが良いだろう」
朱音ちゃんの言うとおりだ。
黒いモヤがついている人は見つけたけど、そこからどうするかは、何も決めていなかった。
白雪さんの時みたいに、お札を箱に放り込んで終わり、というわけにはいかないだろうし。
え? あの箱に能登さんを放り込むわけじゃないよね?
「じゃあ僕と朱音ちゃんは、ひと足先に柘榴さんに報告しに行くよ。白雪さんは、深山さんにひと声かけてから来る?」
「ダメ! 私も一緒に行くから!」
しまった、そうだった。あそこに一人で行くなと言われてたのを、すっかり忘れてた。
「そ、そうだね。もちろん、一緒に行こう」
「私、深山さんに声かけてくるから、二人はここで待ってて。……ここから動いちゃダメよ」
なんだかわからないけど、白雪さんから得体の知れないプレッシャーのようなものが放たれていて、僕と朱音ちゃんは、揃ってコクコクと頷きを返した。
じゃあ待っててね、と白雪さんが歩き出しかけて——その足が、止まった。
「……千歳君、あそこ」
白雪さんの声に振り返ると、校舎の角あたりに、女の子がひとり立っていた。
肩までの髪に、細い体。暗がりでも分かる。さっき、面の隙間から見た横顔だ。
どうしてここに。練習は最終下校まであるはずじゃ。ていうか、いつからそこにいたんだろう。
それに、僕たちの話、どこから聞かれてた?
白雪さんがすっと進み出た。その左手は僕の制服の裾をぎゅっと握りしめている。
「えっと……能登さん、だよね? 深山さんのお友達の」
能登さんは、白雪さんの声に何も答えなかった。
ただ、ゆっくりと首をかしげて、白雪さんを見ている。
「私、日々瀬 白雪です。今日、練習を見学させてもらってて……能登さん?」
「…………」
能登さんはこちらに顔を向けているようで、その目は虚空を見つめているようだ。
まずいぞ、これは。
もしかして、この前と同じじゃないのか?
「白雪さん、下がって」
こっそり声をかけて、白雪さんを後ろに下がらせる。
能登さんのあの目は、ついこの前見たことがある目に間違いない。
僕を追ってきた須藤くんや、首を絞めてきた白雪さんの、あの虚な目。
「どうして……」
初めて口を開いた能登さんの声は、妙に抑揚がなくて、のっぺりとしていた。
「どうして、みんな、そっちを見るの。あなたたちも、わたしの、じゃまをするのね」
「白雪さん、能登さんは正気じゃない。危ないからもっと下がって!」
「わたしだって……わたしだって、ずっと、ずっとやってきたのに」
抑揚のなかった能登さんの声が、突然震えながら大きくなり、耳をつんざくような金切り声になっていく。
「どうして、いつも、いつもいつもいつも、あの子ばっかり——!」
叫び声と一緒に、能登さんが地面を蹴った。
細い体からは想像もつかない速さで距離が詰まって、伸ばされた両手が僕の襟元を掴む。
「うわっ、ちょ、ちょっと……!」
なんでみんな、僕の首を絞めたがるのさ!
予想はしていたので、かろうじて手首を掴むことができたけど、能登さんは、恐ろしい力でじわじわとその手を僕の首に伸ばしてくる。
「の、能登さん、落ち着いて、話せば——」
話せば分かる、なんて言葉が通じないことは、とっくに知っているけど、こういう時、人はどうでもいいことしか思い浮かばないもんだ。
掴んだ手首はびくともせず、指先がとうとう僕の首に触れる。まずい、力が抜けて、膝が沈んでいく——。
くそ、まだ筋トレ始めたばかりなんだよ!
「朱音ちゃん、千歳君が!」
「——毎度毎度、世話の焼けるやつだな」
いつの間にか能登さんの背後に回り込んでいた朱音ちゃんが、ぴょんと飛び上がったかと思うと、その首筋のあたりに、とん、と手を添えた。
途端に、能登さんの体から糸が抜けるみたいに力が落ちていく。膝から崩れるように倒れそうになった能登さんを、朱音ちゃんの小さな腕が抱き留めた。
「あ、朱音ちゃん、ありがとう」
「千歳君、大丈夫だった?」
「うん、驚いたけど、なんとか」
朱音ちゃんに支えられた能登さんの寝顔は、さっきの形相が嘘みたいに、ただの疲れた女の子のものだった。
「このまま柘榴様のところへ運ぶ。お前たちも来い」




