17. 力を抜いた方が安全
建物と外周の木々に挟まれた細い日陰で、僕は朱音ちゃんと並んで、日が傾くのをじっと待っていた。
部室棟の裏手にはひと気がなく、隠れている僕たちにとっては好都合だけど、こうしていると、まるで悪いことをする前の共犯者みたいだ。
まあ、これからやるのは覗きなんだから、悪いことで合ってるのかもしれない。
見上げると、二階に明かりのついた窓が見える。あそこが演劇部の部室で、今も中から元気のいい声が聞こえてきている。
白雪さんが深山さんに確認したところ、能登さんは今日は練習に来ているらしい。
その白雪さんといえば、今は演劇部の部室にいる。差し入れを口実に見学させてもらっていて、僕が覗き込んだら、能登さんの居場所をこっそり合図してくれる手筈だ。
「……あの、朱音ちゃん」
「なんだ」
「そろそろ、何をするのか教えてもらえないかな」
「お前が聞いたところで、何かできることがあるわけじゃない」
そんなわけないんだよな。
だって覗き込むのは僕なんだよ?
頬の横で切り揃えられたつややかな黒髪、襟元や袖口にフリルが施された鮮やかな赤い着物。
足元が裸足なのがワイルドではあるけど、人形のような整った顔立ちもあって、黙っていれば美少女なのに。
「こら、何をジロジロと見ているんだ」
「ご、ごめん。あの、その着物、とても可愛いね」
あれ? うるさい、とか言われるかと思ったけど、朱音ちゃんは黙ったままこっちを見ている。
というか、頬がちょっと赤いような――。
「そうか。お前にもこの可愛さが分かるか。これはな、柘榴様が我のために選んでくれたのだ」
そう言うと、朱音ちゃんは腰に手を当てて胸をそらしてみせた。
えっへん、という声が聞こえてきそうだ。
「そうなんだね。うんうん、とっても似合ってるよ」
別におだててるわけじゃない。実際、似合ってるし可愛いと思う。本当にお人形さんみたいだよ。黙っていれば、ね。
まあ、これで少しでも気分を良くして、できればここで何をする気なのか教えてくれるとありがたいんだけどな。
「――おい、お前」
「ど、どうかした?」
「まさか、我のおっぱいを見てるんじゃないだろうな」
そんなわけないでしょ!
そもそも君に見るほどのものはないし、いや、そうじゃない、見るわけがないってことだよ!
「ちょ、ちょっと、人聞きの悪いこと言わないでよ……」
「ふん、いつも柘榴様のおっぱいを見てるお前のことだからな、油断ならない」
「柘榴さんのも見てないですっ」
思わず大きな声を出しそうになって、自分の口を押さえた。
ま、まずいよ。こんなひと気のない場所で、小学生に見える子を相手におっぱいの話してるだなんて、誰かに見られたら……。
「お、だいぶ日が傾いてきたな」
おろおろする僕を尻目に、朱音ちゃんは空に目を向けた。
空の色が、だんだんと橙を深くしていく。校舎の輪郭がじわりと滲んで、昼と夜の境目——黄昏時が近づいてくるのがわかる。
「千歳、面を被れ」
「え、どうするの?」
「いいから、早くしろ。時間が過ぎれば、面の効果がなくなるぞ」
このまま朱音ちゃんと話してると、僕の社会的立場が危うくなる。
急いでカバンから猿の面を取り出して顔に当て、後頭部で紐を結ぶと、視界が細い隙間だけになって、古い木の匂いが鼻先に満ちた。
「それで、ここからどうやって——うわっ!?」
振り向いた途端、朱音ちゃんがしゃがみ込んで、僕の両足首をむんずと掴んだ。
「ちょ、朱音ちゃん?」
「行くぞ、舌を噛むなよ」
「え?」
聞き返す間もなかった。
ぐん、と足元から突き上げられて、次の瞬間、僕の体は宙にあった。
胃袋だけが地上に置き去りにされたような浮遊感。夕焼けの空と、部室棟の屋根と、遠くの校舎の影が、細い視界の中でぐるんと回る。
「——————!!」
声にならない悲鳴を噛み殺しているうちに、体は落下に転じて、朱音ちゃんの両腕にぽすんと収まった。軽々と、まるで座布団でも受け止めるみたいに。
「どうだ、見えたか」
「……む、無理だよ! いきなりすぎて、何がなんだか!」
叫びかけて、慌てて声を潜める。ここで騒いだら、それこそ全部が台無しだ。
「そもそも、投げるなら投げるって、先に言ってよ……!」
「言えば身構えるだろう。力むと危ないからな。しかし、これで分かったな。ではもう一度――」
「ちょっと、待って、他にやりようが……」
「他になにかあるのか? あるなら言ってみろ」
「…………ありません」
ぐうの音も出ない。脚立はダメ、廊下はもっとダメ、と結論を出したのは、他ならぬ僕と白雪さんなのだ。
「よし、行ってこい」
「せ、せめて心の準備を——うわわっ」
二度目の空。
今度は覚悟していたぶん、視界がぶれない。放り上げられた体が、いちばん高いところで、ふっと止まる。その一瞬、細い視界の先に、部室の窓がぴたりと並んだ。
明かりのついた室内、台本を手に向かい合う部員たち、壁際に立てかけられた書き割り。そして、窓のすぐ内側からこちらを見ていた白雪さんと、面の隙間越しに、目が合った。
白雪さんは一瞬だけ大きく目を見開いて、それから、胸の前で小さく、部屋の奥を指差してみせた。
そこまで確かめたところで視界は窓から引き剥がされ、僕はまた朱音ちゃんの腕の中に戻ってくる。
「どうだ、今度は見えたか?」
「白雪さんが、奥を指差してた。能登さんは部屋の奥にいるみたいだ」
それにしても、この滑稽な猿の顔のまま、白雪さんと真正面から目が合ってしまった。向こうは事情を知っているからいいものの、恥ずかしいことに変わりはない。
「何度でも放り上げてやるから、任せておけ」
三度目は、自分から膝を軽く曲げて、タイミングまで合わせてしまった。我ながら、この適応力がちょっと怖い。
ふわりと、体が最高点で静止する。
視線を窓の奥へ。白雪さんの指が示していた方向——部屋の隅で、衣装を膝に広げている女の子がいた。
そして、その背中に、黒いモヤが覆いかぶさっていた。
湯気とも煙とも違う、光を吸い込むような真っ黒なモヤが、彼女の肩から背中にかけて、ぴったりと張り付いている。まるで、後ろから誰かに抱きすくめられているみたいに。
「どうだ?」
「……見えたよ。奥にいた子の背中に、黒いモヤが張り付いてた。あれが、たぶん能登さんだ」
朱音ちゃんは、よし、と頷くと、僕を地面に下ろして――くれなかった。
「では白雪に終わったと報告してこい」
「え? 報告って、あとで合流してからでも……ちょっ、まさか」
「うわわわっ!」
四度目の空は、今日いちばん高かった気がする。
窓の内側では、白雪さんが心配そうに、じっとこちらを見上げていた。
内心で朱音ちゃんに文句を並べながら、僕は宙に浮いたまま、両腕で大きくマルを作ってみせる。
窓の向こうで、白雪さんがほっと胸をなで下ろすのが見えた気がした。




