12. 平穏だからって油断しない
この日の昼休み、僕と白雪さんは、ひと気の少ない校舎裏を歩いていた。
白雪さんへの嫌がらせは、あれきりぴたりと止まっていて、今はもう机の中に紙くずが入っていることも、靴に画鋲が仕込まれていることもない。
柘榴さんの言っていた通り、すべての原因はあのお札だったということなんだろうな。
須藤君とも普通に朝の挨拶を交わしている。
校舎裏で僕に掴みかかってきた張本人は、あの日のことをまったく覚えていないらしく、「祀乃目君、最近元気だね」なんて爽やかに言ってくる始末だ。
まあ、無事に生き残ったらという、あの時の誓い通り、最近走り込みを始めたからね。
もちろん、須藤君だけじゃなく、虚ろな目で僕を追い回した人たちは、誰ひとりとして何も覚えていないようで、あのあとちょっとした騒ぎはあったみたいだけど、結局何事もなかったように日常は続いている。
あのことを覚えているのは僕と、白雪さんだけ。
……なんだか、学校の中でこっそり秘密を共有しているみたいで、ちょっと特別な感じがしてしまう。
「千歳君?」
「あ、ごめんなさ……いや、ごめんね。ちょっと考えごとしちゃってた」
白雪さんの愛嬌のある大きな目にどきりとする。
まずい、変なことを考えたせいで、触れ合いそうなくらい近くに白雪さんがいるという事実を意識してしまう。
下の名前で呼び合ったり、タメ口で話したり――ここまでの僕のボッチ人生にはなかった展開ばかりで、いまだに慣れない。
例の一件からこっち、白雪さんは前にも増して僕に声をかけてくれるようになった。
白雪さんは誰とでも親しくしているので、僕と白雪さんが話していてもおかしくはないけど、教室でこの呼ばれ方をされるたび、僕は周囲の気配を確かめてしまう。
「えっと、声が出なくなったんだっけ?」
「そうなの。隣のクラスの深山さんっていう子なんだけど。演劇部で、今度の公演では主役をやることになってて」
「へえ、主役。すごい人なんだ」
「そうなの。彼女、ずっと頑張ってきてたから、私も嬉しくて」
瞬きするたびに揺れる長いまつ毛、笑うと覗く小さな八重歯。白雪さんの笑顔は今日も眩しい。
友達のことを、まるで自分ごとみたいに嬉しそうに話す彼女を見ると、白雪さんは「善性が強い」という、柘榴さんの見立てが正しいことを痛感する。
「それなのに声が出なくなったなんて。プレッシャーとか?」
「それがね、普段はなんともないの。教室でおしゃべりしてるときは、いつも通りなんだけど、舞台に上がって台詞を言おうとすると、急に声が出なくなるんだって」
その顔から明るい笑顔が消えて、白雪さんは目を伏せた。そうだ、今は白雪さんに見とれてる場合じゃない。
「病院にも行ったんだけど、喉はどこも悪くないって。お医者さんには、緊張のせいかもしれないって言われたみたい」
「でも、白雪さんは、そうは思っていない、と」
そうでなければ、わざわざ僕に相談なんてしないよね。
白雪さんは、指を顎に当てて、少しの間考え込んでいた。
ほっそりした指が、とんとんと顎を叩いている。美少女とは何をしていても絵になるものだ。
「……深山さんは、子供の頃からずっと舞台に立ってきた人なの。今さら緊張やプレッシャーなんて、ちょっと考えられなくて」
なるほど、白雪さんが何を考えているのか分かってきた。そして、なぜ僕に相談を持ちかけたのかも。
「……白雪さんは、あれかもしれない、って思ってるんだね」
「まだ分からないけど、もし少しでもその可能性があるなら、なんとかしてあげたいなって思ってるの」
僕の頭の中に、あの人の姿が浮かんできた。
今はもう使われていないはずの古い図書館で、読書灯の明かりの下、机に頬杖をついて分厚い本を読んでいるあの姿が。
短く切りそろえた黒髪と、こちらを射抜くような鋭い目つき。
リボンとボタンが外された胸元から覗く豊かな――いや、これは関係ない!
「そうだね。柘榴さんに、相談してみようか」
「少しでも可能性があるなら、話すだけでもどうかなって」
「分かった。じゃあ僕が行って話をしてみるよ。白雪さんは——」
「ダメ!!」
ちょ、ちょっと、どうしたんだろう。
急に足を止めた白雪さんの顔が、ぐいっと近づいてきて、思わずのけ反ってしまった。
ダメですよ、白雪さん!
もっと自分の可愛さに自覚を持って!
「あそこには、ひとりで行かないで欲しいの」
「え、で、でも、前にあそこには近寄りたくないって……」
「そのことはあまり覚えてないの。なぜあそこに近づきたくないと感じていたのかも、よく分からなくて」
そうか、あの時の白雪さんには、すでに呪いが纏わりついていたのか。
あそこには、呪いを祓った柘榴さんがいる。
呪いの側がそれを無意識に避けようとしていたのかもしれない。
「この前柘榴さんにお祓いしてもらった時も平気だったし、あの後、あそこの小道に行ってみた時も、別になんともなかったわ」
あれ? ひとりで図書館に行ったのだろうか?
もしかして、先にひとりで相談に行こうとしたのかな。
「あ、あの、白雪さん」
あれこれと考えている僕の手を、白雪さんの小さな手がぎゅっと掴んできた。
ちょっと待って! 手を握る前に、心の準備をさせてほしい。僕の異性への耐性はティッシュペーパーより薄いんだから――。
「約束して欲しいの」
「えっと、約束って何を?」
「あの旧図書館に行く時は……柘榴さんのところに行く時は、ひとりで行かないって」
つまり、また僕が無茶なことをしでかすかもしれないって心配してくれてるんだろうか。
違うんだ、この前は白雪さんのためだから無理をしたんであって……うう、でも、そんなこと正面切って言えない!
「僕もいつも無茶してるわけじゃないから、そんなに心配しなくても大丈夫だよ……」
「や、く、そ、く、して」
にっこりと微笑む白雪さんの目が、笑っていない。
呪いは解けて、めでたしめでたしで終わったはずなのに、どうして僕は、まだ何かに追いかけられているような気がするんだろう。
「わ、分かりました」




