第7章 第5話:最後の作戦図
最後の作戦図というものは、たいてい綺麗じゃない。
理想だけでは引けないし、
正しさだけでも足りない。
失うものと、
守りたいものと、
ぎりぎりまで削った妥協の線を、
それでも「これで行く」と決めるしかない。
だから最後の作戦図には、いつもその人たちの本音が残る。
相模第七防衛区画の夜は、嵐の前の海みたいな静けさをしていた。
警報は一度引き、基地全体は表向きの平静を取り戻しつつある。だがそれは、危機が去ったという意味ではない。敵の大規模妨害は散発化しただけで、内部では監視と照会が確実に強まっている。通路を歩く兵士たちの顔にはまだ緊張が残り、整備区画の補助灯はいつもより遅くまで落ちない。誰もが、次はもっと大きいものが来ると感じている夜だった。
北観測区画のさらに奥、小さな整備補助室。
本来なら三人で長居する場所ではない。
壁際に工具棚、
中央に簡易投影卓、
人数分ぎりぎりの折り畳み椅子。
だが瀬名が内部の手続きを何かうまく誤魔化したのだろう。今夜だけはそこが、三人のための作戦室になっていた。
冬真は投影卓の前に立ち、
澪はその右、
瀬名は椅子に深く腰掛けて足を投げ出している。
「先に言っとく」
瀬名が言った。
「これ成功しても、絶対あとで面倒だぞ」
「成功しなかったらもっと面倒です」
澪が即答する。
瀬名が一瞬だけ黙り、それから嫌そうな顔をした。
「お前、ほんとそういうとこ強いな」
「褒めてます?」
「褒めてない」
冬真は小さく息を吐いた。
このやり取りがあるだけで、少しだけ呼吸が整う。
投影卓に戦況図が展開される。
基地近傍外縁の敵反応、
中継妨害域、
整備帯域への接触履歴、
そして白い暁式参号の想定投入ライン。
さらにその上に、敵が冬真と澪の再接続を追うための予測ラインを重ねる。
線は一本ではない。
複数の誘導、
複数の炙り出し、
そのどれもが嫌なほど丁寧だった。
「敵の本命は」
冬真が低く言う。
「白い機体を前へ出すことじゃない」
「うん」
澪が頷く。
「そこに冬真が寄る瞬間」
「ああ」
「で、上も」
瀬名が指を滑らせる。
「天城少尉を外せないから、その周辺で榊を拘束したい」
「……」
「つまり敵も味方も、お前らが並ぶ瞬間だけは絶対見逃さない」
それはもう、十分すぎるほど分かっていた。
だが、作戦図の上で重ねられると余計に重い。
光を囮にして影を炙る。
その構図はあまりに露骨で、だからこそ逆手に取るしかない。
「じゃあ」
澪が言う。
「見せるんだね」
「見せる」
冬真が答える。
「ただし、本当に見せたいものだけ」
「中途半端に隠すと?」
瀬名が訊く。
「向こうの読みのほうが上回る」
冬真は言う。
「だから、最初の再接続はあえて読ませる」
澪が少しだけ目を細める。
「囮の形で」
「ああ」
「私に視線を集める」
「ああ」
「そこに冬真が寄る」
「そう見せる」
その返しに、澪は静かに頷いた。
「問題は次だな」
瀬名が言う。
「そこから先、敵は“対”の噛み合いを潰しに来る」
「うん」
澪が答える。
「だから半歩のズレじゃ足りないかもしれない」
「……」
冬真はその言葉を聞いて、別レイヤーの図面を開く。
基地外縁から北中層へ伸びる高架残骸帯。
半地下搬送路。
敵指揮核が潜みやすい通信谷。
そして、暁式参号の白い機体特性に合わせた突破角。
ここまでくると、もう単なる支援ではない。
戦場全体を、一つの誘導装置として組み替える作業に近い。
「最後の作戦図だ」
冬真が言う。
「敵の欲しいものは二つ」
「私」
澪が言う。
「私たち」
冬真が修正する。
澪の視線が少しだけ上がる。
それから、小さく頷いた。
「うん」
「だから、両方見せる」
瀬名が低く笑う。
「ほんと嫌な作戦だな」
「でも多分、それしかない」
冬真は続ける。
「白い機体が前に出る」
「うん」
「敵はそこへ寄る」
「うん」
「俺がそこで一回、正式支援の外縁に“見える”形で触る」
「……」
「上も敵も、それを追う」
「そのあいだに?」
澪が訊く。
「本命をずらす」
冬真の指が図面の奥、北中層のさらに先を示す。
「敵指揮核は、こっちだ」
瀬名が画面を見て顔をしかめる。
「深いな」
「ああ」
「しかも、そこ行くまでに一回じゃ済まない」
「済まない」
冬真は認める。
「だから澪が光を引く」
「うん」
「俺が影を見せる」
「……」
「でも、本当に叩くのはそこでじゃない」
「指揮核が顔を出した瞬間」
澪が低く言う。
「そう」
冬真は頷く。
「向こうは、二人を同時に捉えたと思って出てくる」
「で、その瞬間に逆算する」
「うん」
瀬名が椅子の背に頭を預けた。
「成功しても絶対あとで面倒だ」
「二回目ですね」
澪が言う。
「重要なことは二回言う」
「弱気だな」
冬真が言うと、瀬名は不機嫌そうに返した。
「現実的と言え」
少しだけ空気がゆるむ。
だがすぐにまた、図面の重さが戻る。
「問題は」
瀬名が指を立てる。
「榊がどこまで入るか」
「……」
「完全に隠れたままだと、敵は指揮核を出さない」
「うん」
澪が頷く。
「でも出すぎると、冬真本人が捕まる」
「ああ」
冬真も答える。
「だから中間が要る」
「中間?」
澪が訊く。
「見えるけど届かない位置」
冬真が言う。
「向こうに“まだ届くかもしれない”と思わせる場所」
澪はしばらく図面を見て、それから一点を指した。
「ここ」
「……」
「北中層の旧中継塔跡」
「そうだ」
冬真は少しだけ驚きながら頷いた。
「そこなら」
澪が続ける。
「冬真は“寄ってる”ように見える」
「うん」
「敵はそこへ意識を引っ張られる」
「うん」
「でも、本当に決めるラインは一段奥」
「……ああ」
「じゃあ」
澪が少しだけ笑う。
「やっぱり、私たちかなり噛み合ってる」
瀬名が心底嫌そうな顔をした。
「お前ら、こういう時だけほんと気持ち悪いくらい合うな」
「褒めてます?」
「だから褒めてないって」
その軽口すら、今は大事だった。
緊張が張り詰めたままだと、人はどこかで判断を誤る。
瀬名は多分、それを分かっているのだろう。
「で」
瀬名が端末を叩きながら言う。
「俺の役目な」
「監視の穴」
冬真が言う。
「それと主支援卓の交代」
「正解」
「あと、正式支援が“自然に遅れた”ように見せる」
「面倒だな」
「知ってる」
瀬名は肩をすくめる。
「でも俺がやらないと、お前らすぐ露骨になるから」
それも事実だった。
冬真は戦場へ手を伸ばす時、必要だと思えば深く入りすぎる。
澪もまた、自分が踏み込むべきと判断すれば危険域へ迷わず入る。
その二人の間にいるからこそ、瀬名は最後の安全装置でもあった。
「瀬名」
冬真が低く呼ぶ。
「何だ」
「悪い」
瀬名は数秒だけ黙って、それから小さく鼻で笑った。
「今さら謝るな」
「……」
「巻き込むぞって言われた時点で、もう巻き込まれてる」
「……」
「だったら最後まで付き合うしかねえだろ」
その言い方は軽いのに、ひどく重かった。
澪が静かに言う。
「ありがとうございます」
「やめろ」
瀬名が嫌そうに顔をしかめる。
「その真顔の礼、逆に重い」
「本気なので」
「知ってるから嫌なんだよ」
投影卓の図面が、最後の形へ近づいていく。
白い機体が光を引く。
冬真が影を見せる。
瀬名が内側の穴を作る。
敵の欲を逆手に取り、
上層部の拘束導線も利用し、
その両方の視線が最も重なる瞬間に、本命の指揮核を叩く。
成功すれば、戦局そのものをひっくり返せる。
失敗すれば、二人どころか三人とも終わる。
「これ」
澪が静かに言う。
「私たち、勝てるかな」
冬真はすぐには答えなかった。
勝てると軽く言うには、危険が多すぎる。
無理だと言うには、ここまで来すぎている。
「勝つしかない」
やがて低く言う。
「……」
「成功しても面倒だ」
瀬名が横から言う。
「でも」
冬真は図面から目を離さない。
「成功しなかったら、終わる」
澪はその言葉を受けて、小さく頷いた。
「うん」
「だったら」
冬真が続ける。
「成功させるしかない」
その一言で、部屋の空気が静かに定まる。
最後の作戦図。
そこに書かれているのは戦況だけじゃない。
澪の覚悟と、
冬真の選択と、
瀬名の付き合いの悪い善意まで、
全部が線の中に残っている。
「最後に一個だけ」
瀬名が言う。
「何だ」
「天城少尉」
「はい」
「お前、途中で“私が引けばいい”とか思うなよ」
「……」
「榊も、お前だけで行かせるな」
「分かってる」
冬真が答える。
「じゃあいい」
瀬名は深く息を吐く。
「ほんと、最後に言うことじゃないけどな」
澪が小さく笑った。
「でも大事です」
「知ってる」
投影卓が消える。
最後の作戦図は、もう頭の中にある。
部屋を出る前、澪が冬真のほうを見る。
何も言わない。
でも、その視線だけで十分だった。
ここまで来た。
もう逃げない。
最後まで、一緒に行く。
そういう意味が、全部そこにあった。
最後の作戦図。
それは綺麗じゃない。
でも今の三人には、
それがいちばん正しい形に思えた。




