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きみを守るのは、ぼくの知られない戦争  作者: 最後に残った形


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第6章 第5話:命令より先にあるもの


 命令は、迷いを消すためにある。


 誰が動くか。

 どこへ行くか。

 何を優先するか。

 そういうものを、個人の感情から切り離して決めるために。


 だからこそ厄介なのは、その命令より先に守りたいものができた時だ。

 人はそこで初めて、自分がどこまで従えて、どこから従えないのかを知る。


 相模第七防衛区画の午後は、妙に乾いていた。


 会議棟の白い廊下は静かで、靴音だけが規則正しく響く。壁面の案内表示はいつも通り点灯していて、補給班も整備班もそれぞれの持ち場で動いている。基地は変わらず機能している。けれど、その整い方が逆に、今ここで人ひとりの価値観がずれ始めていることを際立たせていた。


 天城澪は、会議室の前で一度だけ小さく息を吐いた。


 今日は呼び出しだった。

 名目は作戦確認と姿勢の確認。

 だが実際にはもっと分かりやすい。

 最近の発言と行動に対する牽制だ。


 扉が開く。

 中には戦術運用局の佐官と監査官、それから広報統括寄りの女官がいた。

 澪は席に着く。

 白い壁、薄い端末光、冷えた空気。

 こういう部屋の温度はいつも一定で、人の側だけが勝手に緊張する。


「天城少尉」

 佐官が言う。

「本日は処分通達ではありません」

「はい」

 澪は短く答えた。


 この前置きは、もう信用していない。

 “処分ではない”と言われる時ほど、実際には次の処分へ向けた線引きが始まっている。


「最近の会議発言、および作戦前後の行動について確認したい」

「承知しています」

「あなたは現行の再編案に対し、必要以上に踏み込んだ異議を示している」

「必要以上、という認識はありません」

 澪は静かに返した。


 監査官が端末を操作し、会議ログが浮かぶ。

 そこには澪がこれまで口にしてきた言葉が並んでいた。


 前に立つ機体だけで戦場は成立しない。

 切るなら何が失われるかを見てほしい。

 不在を前提にしている。


 ひとつひとつは戦術論だ。

 だが並べられると、確かに“誰か”を庇っているようにも見える。


「天城少尉」

 広報統括の女官が、やわらかい声で言う。

「あなたは今、防衛区画の象徴的な存在です」

「……はい」

「その発言は、現場への影響力を持つ」

「承知しています」

「ならば、個人的感情が作戦系統へ与える影響には慎重であるべきです」


 個人的感情。

 その単語が、澪の胸に少しだけ冷たく触れる。


 冬真のことを思っている。

 それは否定できない。

 でも、だからといって言ってきたことが全部“感情”で片づけられるのは違うと思った。


「私は」

 澪は少しだけ言葉を選んでから口を開く。

「個人的感情だけで発言しているつもりはありません」

「つもり」

 監査官がその単語を拾う。

「では、感情の混入自体は否定しない?」

 澪は数秒だけ黙る。

 ここで綺麗に否定することはできた。

 でも、もうそういう嘘はつきたくなかった。


「否定はしません」

 澪ははっきり言った。

「前に立つ人間として、自分が死ぬかもしれない形に感情を持つのは当然です」

 部屋の空気が一拍だけ止まる。

「ただし」

 澪は続ける。

「私が言っているのは、感情だけではありません」

「……」

「今の再編案が、現場の実感として薄いことも事実です」


 佐官の目が少しだけ細くなる。


「天城少尉」

 低い声だった。

「あなたは最近、“個”を優先しすぎている」

「個」

「組織より先に、特定の何かを守ろうとしている」

 その言い方は、名前を言わないぶんだけ露骨だった。


 澪は目を逸らさなかった。


「……組織のために、現場の人間を切り離していいとは思っていません」

「質問に答えてください」

 監査官が言う。

「あなたには、命令より先に優先しているものがあるのですか」


 その問いが、真正面から落ちてくる。


 命令より先にあるもの。

 前なら、もっと迷っただろう。

 でも今は、迷うこと自体がずるい気がした。


「あります」

 澪は静かに答えた。


 今度は、はっきり空気が変わった。


 佐官も女官も、何も言わず澪を見る。

 監査官だけが、ごくわずかに眉を動かした。


「……それは」

 佐官が言う。

「何ですか」

 ここで言えば終わる。

 名前を出せば、線は一段深くなる。

 だから澪は、名前にはしなかった。


「生きて戻ることです」

 そう答える。

「そして」

 一拍置く。

「戻るために必要なものを、無かったことにしないことです」


 嘘ではない。

 でも、隠してもいない。

 今の澪に言える、ぎりぎりの本音だった。


 会談はそれ以上、大きくは荒れなかった。

 表向きには牽制で終わる。

 “最近の発言は慎重に”“逸脱傾向は望ましくない”“象徴的立場を自覚するように”。

 その程度の言葉を何枚か重ねて、今日は終わる。


 だが澪には分かった。

 もう上層部は、自分の変化を見ている。

 従うだけの英雄ではなくなりつつあることを。


 会議棟を出る頃には、胸の奥に変な熱が残っていた。

 怒りというほど鋭くない。

 でも冷めない。

 命令より先にあるものを、自分はもう知ってしまっている。

 その事実だけが、歩く足の下で静かに音を立てていた。


 その夜。

 澪は整備区画寄りの観測通路で冬真を待っていた。


 短いメッセージは送った。


 ――少しだけ会いたい


 それだけだった。

 たぶん冬真は来る。

 来なかったとしても、待つつもりだった。


 白い機体が見える位置。

 最近は何度もここで話しているのに、今夜だけは少しだけ違って見える。

 自分が今日、会議室で何を認めたのかを分かっているからだろう。


 足音がする。

 澪が振り向くと、冬真が立っていた。


「来た」

 澪が言う。

「ああ」

「来てくれると思ってた」

「呼ばれたからな」

「うん」

 少しだけ笑う。

「それ、もう安心する」


 冬真の顔は、いつもより少しだけ疲れて見えた。

 監視下の生活と、補助解析卓の不自由さがじわじわ削っているのだろう。

 それを見ただけで、今日の会議室の問いがまた胸に戻ってくる。


「何かあった?」

 冬真が先に訊く。

「うん」

「上か」

「そう」

 澪は隠さなかった。

「最近の私の言動、あんまり気に入られてないみたい」

「だろうな」

「ひどい」

「事実だ」


 短く返されて、澪は少しだけ息を吐く。

 こういう冷たさが、今はむしろありがたかった。


「命令より先に優先してるものがあるのかって聞かれた」

 澪が言う。

 冬真の表情が、わずかに止まる。

「……何て答えた」

「あるって」

「……」

「名前は言ってない」

「……そうか」


 その“そうか”は軽くない。

 冬真がその一言の重さをちゃんと受け取ったのが分かる。


「冬真」

「なんだ」

「それ、危ない考え方だって思う?」

 澪はまっすぐ訊いた。


 冬真はすぐには答えない。

 視線を少しだけ落として、白い機体のほうを見る。

 それから、ゆっくり戻す。


「危ない」

 正直に言う。

「うん」

「かなり」

「うん」

「でも」

 そこで少しだけ声が低くなる。

「お前がそうなる理由も分かる」


 その答えに、澪は胸の奥が少しだけやわらぐのを感じた。


「私」

 澪が静かに言う。

「前は、命令と自分の気持ちを分けて考えられてた」

「……」

「でも今は、分けたままじゃ無理」

「……」

「冬真を切られたまま前に出るの、命令だからで飲み込めない」


 それはほとんど、告白の別の言い方だった。

 けれど今の二人には、そのほうがずっと自然だった。


「お前」

 冬真が言う。

「それ、どこまで分かって言ってる」

「かなり」

 澪は答える。

「命令違反寄りになるのも」

「……」

「立場が危うくなるのも」

「……」

「でも、今の私はそっちを選ぶ」


 冬真の喉が少しだけ動く。

 澪には分かった。

 その言葉が、ちゃんと届いたのだと。


「……ずるいな」

 冬真がぽつりと言う。

「何が」

「そうやって、はっきり言うとこ」

「冬真が言わないから」

 澪は少しだけ笑う。

「私が言うしかないじゃん」

「……」

「半分くらいは」


 そこでようやく、冬真も少しだけ息を吐いた。

 笑ったわけではない。

 でも、張り詰めたものが少しだけゆるむ。


「命令より先に守りたいものがある」

 澪が小さく言う。

「……」

「それって、多分もう」

「なんだ」

「かなり危ないよね」

「そうだな」

「でも」

 澪は視線を逸らさず続ける。

「今さらそこを無かったことにできない」


 防壁の警戒灯が、規則的に赤を落とす。

 その光が差すたび、冬真の横顔の輪郭が少しだけ鋭く見えた。


「冬真」

「なんだ」

「私、命令を軽く見たいわけじゃない」

「分かる」

「前に立つこともやめない」

「知ってる」

「でも」

 澪は一歩だけ近づく。

 触れそうで、触れない距離。

「それより先に、失いたくないものがある」


 その言葉を、今はもう澪自身もごまかしていなかった。


 冬真は少しだけ目を閉じたいような顔をした。

 でも閉じない。

 代わりに、低く息を吐く。


「……俺は」

 ようやく言う。

「お前にそんな選び方させたくなかった」

「うん」

「命令と、前に立つ役目と、そういうものから外れないでいてほしかった」

「うん」

「でも、もう無理なんだな」

「……多分」

 澪も正直に頷く。

「冬真がいるから」


 そこまで言ってから、自分でもかなり深いところまで来たと思った。

 でも、引っ込めたいとは思わなかった。


 冬真はしばらく黙っていた。

 その沈黙の時間だけ、通路の外の駆動音が少し大きく聞こえる。


「……嬉しい」

 やがて、冬真が低く言う。

 澪は目を見開く。

「何が」

「お前がそう言うの」

「……」

「でも、それ以上に怖い」

「うん」

「だから、簡単に肯定はできない」

「うん」

「それでも」

 冬真は少しだけ視線を上げる。

「お前がもう、そっちを選んでるのは分かった」


 その言葉で十分だった。

 全面的な肯定じゃない。

 でも拒絶でもない。

 今の二人には、それが何より重かった。


「私」

 澪が少しだけ笑う。

「かなり危ない位置にいるね」

「今さらだな」

「冬真もだよ」

「知ってる」


 その短い応酬が、少しだけいつもの空気を戻す。


 でも、その下にあるものは前よりずっと深い。

 命令より先にあるもの。

 それを二人とも知ってしまった。

 もう前みたいには戻れない。


「おやすみ」

 澪が言う。

「まだ夜でもない」

「気分」

「雑だな」

「冬真に言われたくない」

 少しだけ笑う。

「でも、今の私」

 最後に声を落とす。

「たぶん、そっちを選ぶってもう決めてる」

「……ああ」

「それだけ言いたかった」

「分かった」


 その“分かった”が、今夜はいちばん欲しかった言葉だった。


 澪は一歩下がる。

 でも視線は外さない。


「また話そう」

「……ああ」

「今度はもう少し、ちゃんと」

「無茶言うな」

「知ってる」


 そう言って澪は通路の向こうへ歩いていく。


 冬真はその背中を見送りながら、静かに思う。


 命令より先にあるもの。

 それは、綺麗な正義じゃない。

 でも、だからこそ嘘でもない。


 その嘘のなさが、

 これから二人をもっと危ない場所へ連れていくのだと、

 冬真はもう分かっていた。


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