第5章 第11話:影を選ぶ人
人を選ぶということは、たぶん立場を選び直すことに近い。
正しい側に立つのか。
期待される側に立つのか。
見えやすい光の中に残るのか。
それとも、ずっと見えないまま削られてきた影のほうへ手を伸ばすのか。
その選択は、たいてい綺麗じゃない。
でも、綺麗じゃないからこそ本音が出る。
相模第七防衛区画の夜は、いつもより音が少なかった。
大きな戦闘の直後でもない。
警報が鳴っているわけでもない。
それなのに基地全体の空気は妙に張っていた。白い廊下を歩く兵士の足音がやけに響き、整備区画の補助灯が必要以上に冷たく見える。誰も口にはしないが、何かがずれ始めていることだけは、現場の人間なら薄く感じ取れる夜だった。
榊冬真は、その夜の中を一人で歩いていた。
戦術支援系統から外され、
主支援卓への接続権も止まり、
当面は補助解析専任。
名目上は再配置。
実態としては切り離し。
端末にはまだ“待機命令を伴う追加措置の可能性あり”という文面が残っている。
完全な隔離ではない。
でも、その一歩手前まで来ていることくらいは分かる。
それでも今夜、冬真が向かっている先は待機区画ではなかった。
整備区画のさらに奥。
白い機体の見える、少し人の少ない通路。
そこへ向かう理由を、もう仕事だけでは言い訳しきれないことを、冬真は自覚していた。
澪から来たメッセージは短かった。
――会いたい
――今なら、人少ないから
余計な言葉がない。
だからこそ重い。
きっと澪も、今日がただの慰め合いでは終わらないと分かっているのだろう。
通路の端に、澪はいた。
格納デッキの奥、整備灯の下に暁式参号が見える。
白い装甲。
戦場を抜けてきた傷。
何度も半歩だけ死線を外してきた機体。
その前に立つ澪は、今日は簡易制服の上にジャケットを羽織っていた。
いつも通りにも見える。
でも違う。
立ち方が、少しだけ決まっている。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「来てくれると思ってた」
「呼ばれたからな」
「うん」
少しだけ笑う。
「それ、もう半分くらい安心の言葉になってる」
冬真はうまく返せない。
最近はそればかりだと思う。
「何の話だ」
結局いつものように言うと、澪は小さく息を吐いた。
「今日は、それ聞かないでほしい」
「……」
「たぶん、ちゃんと話したいから」
その言い方に、冬真は黙るしかなかった。
通路の外、防壁上の警戒灯が赤く点滅している。
一定の間隔で差し込む色が、澪の横顔を薄く染めては消える。
その顔は静かで、疲れていて、でも逃げていない。
「今日」
澪が先に言う。
「ずっと考えてた」
「何を」
「英雄でいることと、私が選びたいものって、同じじゃないなって」
冬真は視線を上げる。
その話から来るのか、と一瞬思う。
でもたぶん、それが今の澪には一番大事なのだろう。
「前に立つのは嫌いじゃない」
澪が続ける。
「期待されることも、必要だって分かる」
「……」
「守りたいとも思うし、逃げたいわけでもない」
「うん」
「でも」
澪はそこで少しだけ声を落とす。
「それより先に選びたいものがあるって、今はっきりした」
胸の奥が、静かに一拍する。
それが何を指しているのか、分からないほど冬真は鈍くない。
でも、分かってしまうからこそ返事ができない。
「冬真」
澪が名前を呼ぶ。
「なんだ」
「私、光の側に立たされてる」
「……」
「英雄とか、希望とか、そういうの」
「……ああ」
「でも、選ぶのは私」
その言葉は、会議室での発言よりも、
戦場での叫びよりも、
ずっと直接的だった。
「お前」
冬真が低く言う。
「それがどういう意味か、分かってるのか」
「分かってる」
澪は迷わず答えた。
「だから来た」
その一言で、冬真は喉の奥が少し詰まる。
分かっている。
光の側に立つ人間が、影の側を選ぶということ。
上層部の目、
敵の追跡、
前線での立場、
その全部に逆らう可能性があること。
それを理解したうえで、澪は今ここにいる。
「私ね」
澪が続ける。
「最初はただ、守られてるって感じてた」
「……」
「次に、誰が守ってるのか分かり始めた」
「……」
「そのあと、冬真がそのせいで削れていくのが嫌になった」
「……」
「で、今は」
澪は冬真をまっすぐ見た。
「冬真を、影のまま失うのが一番嫌」
その言葉は、ほとんど告白みたいだった。
でも、たぶんただの恋愛感情よりもっと切実だ。
生きるか死ぬかの隣で積み重なってきた感情だから、最初から甘い形をしていない。
「……俺は」
冬真がようやく声を出す。
「お前を、光の側に置いたままのほうが安全だと思ってた」
「うん」
「そこへ近づけば近づくほど、壊すものが増える」
「うん」
「だから離れてればいいと思ってた」
「でも離れられなかった」
澪が静かに言う。
「……ああ」
「私も」
少しだけ笑う。
「離れられなかった」
それが全部だった気がした。
幼馴染だからとか、
守ってくれたからとか、
隣にいた時間が長いからとか、
そういう説明は多分もう、必要ない。
離れたほうが安全だと分かっていて、
それでも離れられない。
その事実だけで十分だった。
「冬真」
澪が一歩だけ近づく。
触れそうで、触れない距離。
でも今までで一番、迷いのない近さだった。
「私、たぶんもう“守られるだけの人”には戻れない」
「……」
「冬真のこと、放っておけない」
「……」
「前に立つのもやめない」
「知ってる」
「でも」
澪は少しだけ息を吸う。
「それより先に、冬真を選ぶ」
冬真は、そこで言葉を失った。
まっすぐすぎた。
逃げ道がないくらいに。
光の側に立たされる人間が、
それでも自分で選ぶと言う。
その先で、自分を選ぶと言う。
そんなことを言われて、
まだ“違う”とは言えなかった。
「……お前」
冬真が低く言う。
「ほんとに、分かってるのか」
「分かってる」
澪は即答する。
「冬真の近くにいると、もっと面倒になる」
「……」
「敵にも味方にも見られる」
「……」
「今までみたいに、綺麗に隠れていられない」
「……」
「でも、それでもいい」
澪は言った。
「良くない」
反射みたいに返す。
「良くなくても、私がそれを選ぶ」
その強さに、冬真は何も言えなくなる。
澪はもう、守られる側の論理でここに立っていない。
自分で選び、自分で背負う側の顔だ。
その強さを知っているからこそ、冬真は怖かった。
でも、怖いだけじゃない。
それ以上に、救われてもいる。
「……俺は」
冬真がようやく言う。
「お前を守ることしか考えてなかった」
「うん」
「それで届くと思ってた」
「うん」
「でも、届いてなかった」
「半分は届いてたよ」
澪が小さく笑う。
「残り半分が足りなかっただけ」
「……」
「だから今、こうしてる」
半分。
その表現が、妙に二人らしく思えた。
全部じゃない。
でもゼロでもない。
ずっとそうやって、少しずつ寄ってきたのだ。
「私」
澪が言う。
「英雄として正しい位置より、先に選ぶものがある」
「……」
「それが冬真」
今度こそ、はっきり言った。
冬真は、それを受け止めるしかなかった。
受け止めた瞬間に何かが決定的に変わると分かっていても、もう目を逸らす気にはなれなかった。
「……ずるいな」
気づけばそんな言葉が出る。
「何が」
「そうやって、全部分かった顔で踏み込んでくる」
「分かってる顔じゃないよ」
澪は少しだけ笑う。
「怖いし、迷ってる」
「……」
「でも、それでも選ぶって決めただけ」
その正直さが、また冬真にはきつかった。
しばらく、どちらも喋らなかった。
沈黙は重いのに、苦しくはなかった。
むしろ、今ようやく同じ場所へ立ったみたいな静けさだった。
「……俺も」
冬真が低く言う。
澪が顔を上げる。
「何?」
「お前を、守るだけの相手としてはもう見られない」
「……」
「一緒に立てるなら、そうしたいと思ってる」
そこまで言って、少しだけ息を吐く。
「多分、かなり前から」
澪の目が揺れる。
それは涙ではない。
でも、ぎりぎり何かを堪えている顔だった。
「それ」
澪が小さく言う。
「今の、だいぶすごいよ」
「知らない」
「知って」
少しだけ笑う。
「私、今かなり頑張ってるから」
その言い方が少し可笑しくて、でも胸が苦しい。
たぶん二人とも、今ぎりぎりのところにいる。
そのとき、冬真の端末が短く震えた。
通知。
監視区画からの呼び出しではない。
だが、それに近い。
追加待機指示と、翌朝以降の移動制限の可能性。
優しい文面で包まれていても、中身は十分に重かった。
澪もその表示を見たのだろう。
表情が少しだけ硬くなる。
「……まだ来るんだ」
「ああ」
「ほんとに、引き離す気だね」
「……」
冬真は答えなかった。
答えるまでもなかった。
敵の追跡。
上層部の処置。
白い機体の周囲に濃くなる視線。
全部が、二人を別々の位置へ戻そうとしている。
それでも今、澪は戻らなかった。
「冬真」
「なんだ」
「私、これからも多分前に立つ」
「うん」
「でも、そっちに行く」
「……」
「必要なら、命令違反でも」
冬真は思わず息を止める。
「やめろ」
すぐに言う。
「それは駄目だ」
「駄目でも」
澪は静かに言う。
「影のまま失うほうがもっと嫌」
「……」
その言葉は、何よりも重かった。
冬真はそこで、ようやくはっきり理解した。
澪はもう、ただ自分に守られた恩を返そうとしているわけじゃない。
制度ごと、
立場ごと、
敵味方の都合ごと、
それでもなお自分の側を選ぼうとしている。
影を選ぶ人。
そんな人間が、本当に現実にいるのだと。
「……お前」
冬真が低く言う。
「それがどういう意味か、本当に分かってるんだな」
「分かってる」
澪は頷く。
「だから来た」
前にも聞いた言葉だった。
でも今は、もっと深く刺さる。
冬真は小さく息を吐く。
「……ありがとう」
そう言うしかなかった。
澪は少しだけ目を細める。
「うん」
「でも、まだ無茶はするな」
「その台詞、もう聞き飽きた」
「知ってる」
「でも、嬉しい」
澪が少し笑う。
「そう言われるの」
その笑い方は、英雄の顔ではない。
希望の象徴でもない。
ただの天城澪の顔だった。
遠くで警戒音に似た短いアラートが鳴る。
小さい。
だが現実がこちらへ戻ってくるには十分な音だった。
「そろそろ戻る」
澪が言う。
「ああ」
「でも」
そこで澪は一歩だけ近づく。
今までで一番近い。
触れそうで、でもまだ触れない距離。
「今度は、影のまま置いていかない」
冬真は何も言えなかった。
言えば、もう本当に戻れなくなる気がしたからだ。
でも、戻るつもりが自分の中からだいぶ薄れていることも、もう分かっていた。
「おやすみ」
澪が言う。
「ああ」
「じゃなくて」
少しだけ笑う。
「また来る」
「……無茶言うな」
「知ってる」
「でも来るんだろ」
「うん」
澪は頷く。
「絶対」
そうして澪は通路の向こうへ歩いていく。
冬真はその背中を見送りながら、しばらく動けなかった。
影を選ぶ人がいる。
それは救いで、
同時に、もうこの先が穏やかな正解へは戻らないことの証明でもある。
端末には、新しい監視通知がまだ光っている。
敵の追跡も終わっていない。
上層部の処置だってこれで終わりではないだろう。
それでも今、
冬真の胸の中にはっきり残っているものがある。
守るだけでは届かない。
だから、共に立つために何かを壊す必要があるのかもしれない。
その予感を抱えたまま、
冬真は白い補助灯の下に立ち尽くしていた。




