第5章 第9話:それでも足りない
人は、少しだけ前へ進めた時ほど、足りなさをはっきり知る。
ゼロじゃなかったと分かる。
残せたものがあったと知る。
届かないままでも、渡せたものがあると気づく。
だからこそ、その先の“まだ足りない”が前よりずっと重くなる。
相模第七防衛区画の夜は、静かなようで落ち着かない。
局地再制圧任務の成功は、基地内に小さな安堵を残していた。
大きな勝利ではない。
でも、確実に戻ってきた者がいて、白い機体はまた格納デッキの光の下にある。整備班は慣れた手つきで損傷確認を進め、補給班は次の出撃に備えた補充を始めている。誰も大声では喜ばないが、それでも“今日を越えた”空気はたしかにあった。
その空気の中で、榊冬真だけが少し違う重さを抱えていた。
補助解析卓の端。
壁面モニタに映る戦果ログ。
暁式参号、生還。
局地突破、成功。
肩装甲損傷、軽度。
主支援卓、適正処理。
問題なし。
数字だけ見れば綺麗だった。
だが、冬真にはその綺麗さが逆に薄く見える。
今日、澪は戻った。
しかも自分がこれまで作ってきた半歩の逃げ道を、自力で思い出して使った。
それは確かに意味のあることだった。
意味がありすぎるほどに。
でも、それで全部が解決するわけじゃない。
「さっきより顔戻ったな」
瀬名が隣から言った。
「そうか」
冬真が返す。
「うん。任務前の“世界終わる顔”から、“まだ終わってない顔”くらいにはなった」
「ひどい言い方だな」
「事実だろ」
瀬名は紙コップを机へ置いて、壁面モニタを見上げる。
「天城少尉、ちゃんとやったな」
「ああ」
「お前のいないところで」
「……ああ」
「で、それ見てちょっと救われた」
「……」
「でも足りない」
瀬名が横目で見る。
「顔に出てるぞ」
冬真は小さく息を吐く。
否定はしなかった。
救われた。
それは本当だ。
澪が自分の中に残った感覚で生き残ったことは、冬真にとって思っていた以上に大きかった。
でも同時に、それで安心してしまえるほど、自分は器用じゃない。
やはり主支援卓へ戻りたい。
やはり澪のそばにいたい。
やはり“渡して終わり”ではなく、その先まで触れていたい。
その欲が、自分の中で前よりはっきりしてきている。
「榊」
瀬名が少し声を落とす。
「なんだ」
「今日のこと、よかったな」
「……」
「いや、ほんとに」
瀬名は珍しく真面目だった。
「天城少尉、お前のいないところでちゃんと戻った」
「ああ」
「それは、お前が今までやってきたことが無意味じゃなかったってことだ」
「……ああ」
「でも」
瀬名は肩をすくめる。
「そこで満足する顔じゃないのが、お前のめんどくさいとこだな」
「うるさい」
だが図星だった。
任務終了後の処理が一段落したあと、冬真は管制室を出た。
向かう先は考えるまでもない。
整備区画の奥。
白い機体のところ。
理由はいくらでもつけられる。
損傷ログ確認。
補助挙動の観察。
補助解析担当としての残務確認。
でも、そのどれもが半分だけ本当で、半分はただ澪の顔を見たいというだけのことを、もう冬真は認め始めていた。
整備区画の空気は、夜になると少し柔らかい。
工具音は減り、補助灯の白だけが静かに落ちる。白い暁式参号は固定台の上に立ち、昼間の戦闘をくぐった機体とは思えないほど静かだった。
その脇に、澪がいた。
今日はジャケットの前を閉じずに羽織っている。
肩の力が少し抜けていて、でも完全には緩んでいない。
冬真に気づくと、少しだけ目を細めた。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「来ると思ってた」
「そうか」
「うん」
少しだけ笑う。
その笑顔は、今日生きて戻った人間のものだった。
疲れていて、でも安堵も混ざっている。
「今度は、私が戻った」
澪が静かに言う。
「ああ」
冬真も頷く。
「見てた」
「うん」
澪はその返事を受け取るみたいに息を吐く。
「見られてる感じ、した」
冬真は答えず、白い機体の肩装甲へ目を向けた。
浅い損傷痕。
熱変色の残り。
紙一重の生還の跡。
「痛かった?」
冬真が訊く。
「少し」
澪が笑う。
「でも生きてるから、今日は軽いやつ」
「そうか」
「うん」
短い会話なのに、その軽さがありがたい。
だがそのまま軽いまま終われないのも、二人とも分かっていた。
「今日」
澪が白い機体に視線を向けたまま言う。
「途中でね、ほんとに自然に出た」
「何が」
「抜け方」
「……」
「ここだって、分かった」
澪は自分のこめかみのあたりを軽く指で示す。
「頭で考えるより先に、体が“そこ”って言った」
冬真は静かにそれを聞いていた。
「不思議だった」
澪が続ける。
「だって、今日の支援は冬真じゃない」
「……ああ」
「でも、冬真がいた時の感覚だけは残ってた」
「……」
「何度も、何度も通してもらったからだと思う」
その言葉に、冬真は胸の奥が少し熱を持つのを感じた。
自分がしてきたことが、ただの延命ではなく、澪の中に“感覚”として残っている。
それは嬉しい。
でも、その嬉しさの中にはどうしようもない寂しさも混ざる。
自分がいなくても、澪は少しずつ戻れるようになるのかもしれない。
それは喜ぶべきことだ。
守ってきた意味があるということだから。
でも、だからといって“もう自分は不要だ”と割り切れるほど、冬真は綺麗じゃない。
「……嬉しい」
気づけば、そう言っていた。
澪が目を上げる。
「何が」
「お前が戻ったこと」
「うん」
「俺が残したものが、ちゃんと残ってたこと」
「……」
「でも」
「うん」
「それでも、まだ足りない」
澪は少しだけ黙ってから、静かに頷いた。
「私も」
そう言う。
「足りない」
「……」
「今日、自分で戻った」
「うん」
「それは、ちゃんと嬉しい」
「……」
「でも、冬真がいないって分かる戦場だった」
その一言は、今夜の核みたいに重かった。
冬真は白い機体から視線を外して、澪を見る。
澪も目を逸らさない。
「いない」
澪が続ける。
「触れてくる感じがない」
「……」
「戻る道は思い出せても、“今ここで引っ張られる”感じがなかった」
「……」
「それが、やっぱり怖かった」
怖かった。
その言葉が、冬真の中のどこか深い場所に落ちる。
自分だけじゃない。
澪もまた、冬真がいないことを恐怖として感じていた。
それは依存とは少し違う。
もっと生々しい必要に近いものだ。
「でも」
澪が少しだけ笑う。
「前よりはちゃんと戻れた」
「ああ」
「だから、少しだけ進んだ」
「……」
「でも、それで終わりじゃないよね」
冬真は小さく息を吐く。
「終わりじゃない」
「うん」
「戻れたから全部いい、にはならない」
「うん」
「俺はやっぱり、主支援に戻りたい」
「……」
「お前のところに、ちゃんと届く位置へ」
今度は、途中で言葉を止めなかった。
止める意味がないと思ったからだ。
澪の目が少しだけ揺れる。
でもその揺れは、驚きよりも、やっと聞けたという安堵に近かった。
「私も」
澪が言う。
「冬真に戻ってきてほしい」
「……」
「でも、今までみたいに“影のまま守る”だけじゃなくて」
「うん」
「ちゃんと一緒に立てる形がいい」
その言葉はもう何度か聞いていた。
でも今夜のそれは、前より深く入る。
澪は自分で戻った。
自分の足で、生き残る側へ一歩進んだ。
そのうえでなお、“一緒に立ちたい”と言っている。
それは、守ってほしいからではない。
並びたいからだ。
「……難しいな」
冬真が言う。
「知ってる」
澪が頷く。
「でも、前よりちょっとだけ見えた」
「何が」
「どうして一緒じゃないと足りないのか」
「……」
それを聞いて、冬真は少しだけ笑いそうになった。
笑えない種類の話なのに、それでもどこか救われる気がした。
前よりちょっとだけ見えた。
それは多分、二人とも同じだ。
教えられた逃げ道で戻れた。
でも、それでもまだ足りない。
その足りなさを共有できたこと自体が、今は少しだけ前進なのかもしれない。
「ねえ」
澪が言う。
「なんだ」
「今度は私が戻った、って言ったでしょ」
「ああ」
「次は、冬真にも戻ってきてほしい」
「……」
「場所」
その言い方に、冬真の胸が静かに締まる。
場所。
居場所。
守るための位置。
戦術支援卓。
澪へ手が届く距離。
今の自分に一番足りないものだ。
「……戻りたい」
冬真が低く言う。
「うん」
「かなり」
「知ってる」
澪は少し笑う。
「今日の冬真、最初からずっとそういう顔してる」
図星だった。
隠せているつもりも、もうなかった。
「でも」
澪が続ける。
「焦りすぎると多分また危ないことする」
「……」
「そこは嫌」
「分かってる」
「ほんとに?」
「多分」
「それ、分かってないやつの返し」
「うるさい」
短い応酬。
それだけで少しだけ空気がやわらぐ。
そのとき、冬真の端末が短く震えた。
管理AIの通知。
補助解析担当としての再提出要求らしい。
面倒な現実が、またここへ戻ってくる。
「呼ばれた?」
澪が訊く。
「ああ」
「そっか」
「お前もだろ」
「私はあとで整備主任さんに捕まる予定」
少しだけ笑う。
その笑顔は、今日を生きて抜けたあとのものだった。
「じゃあ」
澪が一歩だけ下がる。
「今日はこれで」
「ああ」
「でも、まだ足りないのは忘れないで」
「忘れない」
これはすぐに言えた。
「うん」
澪が頷く。
「私も忘れない」
そのやり取りが、何より約束に近かった。
「おやすみ」
澪が言う。
「ああ」
「今度は、もう少し先まで行こう」
「……無茶言うな」
「知ってる」
澪は少しだけ笑う。
「でも、今の私たちなら行ける気がする」
その言葉は、まだ希望と呼ぶには危うい。
それでも、危ういまま胸に残る。
澪は白い機体の向こう側へ歩いていく。
冬真はその背中を見送りながら、静かに思う。
それでも足りない。
その実感は痛い。
でも今は、その痛みが前より少しだけ未来へ向いている気がした。




