第5章 第7話:届かない指
触れられないということは、ときどき失うことより残酷だ。
そこにいる。
見えている。
名前も呼べる。
それなのに、手を伸ばす権限だけがない。
人はそういう距離を前にした時、初めて“守る”がどれだけ場所に依存していたのかを思い知る。
相模第七防衛区画の朝は、必要以上に静かだった。
夜明け前から回っていた局地任務の更新が、今朝になって正式決定へ変わる。残存敵群の圧縮と、中層残骸帯の再制圧。規模は大きくない。だが、ここ最近の敵の動き方を思えば、何一つ軽くはない任務だった。
戦術支援管制室の壁面モニタには、今日の任務図がもう展開されている。
中継圏の薄い谷、
崩落高架群、
視界不良帯、
そして先鋒投入予定ライン。
その先頭に、やはり白い識別灯が置かれていた。
天城澪。
暁式参号。
榊冬真は、自席ではなく補助解析卓の端に立っていた。
正式な配置変更通知は数分前に来たばかりだ。
件名は簡潔で、内容は冷たい。
――当面、戦術支援三番卓担当官は主支援系統より外す
――補助解析・監視補佐に限定配置
もう灰色の権限どころではない。
今日は、最初から触れられない。
「来たな」
瀬名が低く言う。
「ああ」
冬真は答える。
瀬名は今日は主支援に近い側へ入っていた。
いつもなら、それは心強いことのはずだ。
だが今は違う。
瀬名がいることは救いであると同時に、“自分ではない誰かがそこへ座る”現実でもあった。
「……ほんとに外すか」
瀬名が端末を叩きながら吐く。
「上も思い切ったな」
「思い切ったんじゃない」
冬真が言う。
「予定通りだ」
「その言い方やめろ。余計に気分悪い」
「……」
気分はすでに最悪だった。
主支援卓から外される。
その意味は分かっていた。
深層へ触れないだけではない。
前線が崩れた一拍に、
中継の薄い谷へ滑り込んだ半秒に、
澪へ向けてだけ紙一重の道を作る、その指先そのものを奪われるということだ。
「これが“外される”ってことだ」
瀬名が低く言う。
「……ああ」
冬真は壁面モニタを見上げる。
そこに映る戦域図はいつもと同じはずなのに、今日はまるで別物だった。
読める。
危険も見える。
けれど触れられない。
視界だけがあって、手がない。
それは思っていた以上に、人を無力にした。
発進前の同期確認が始まる。
壁面モニタの一角にデッキ映像が出る。
白い暁式参号が整備灯の下に立ち、ケーブルが外され、ハッチが閉じていく。
澪はもう乗っている。
声をかける時間もなかった。
いや、時間があったとしても、今朝の冬真に何が言えたかは分からない。
「見んなよ、その顔で」
瀬名が言う。
「何が」
「発進デッキ」
「仕事だ」
「もうそれ飽きた」
瀬名が小さく息を吐く。
「でも分かるよ。今のお前、だいぶきついだろ」
「……ああ」
珍しく、否定しなかった。
澪の声が前線回線へ入る。
『暁式参号、出る』
短い。
いつも通りだ。
だが冬真には、そのいつも通りがひどく遠く聞こえた。
発進。
青い識別灯が戦域図へ展開する。
暁式参号は先鋒ラインへ入る。
冬真はその白い識別を目で追う。
追うことしか、今はできない。
「感情で見るな」
瀬名が言う。
「……」
「いや、ほんとに。今のお前、見えてる範囲が狭い」
「分かってる」
「分かってるなら、全部見ろ」
「……ああ」
だが無理だった。
全体を見るべきだと頭では分かっていても、視線はどうしても白い識別灯へ引き寄せられる。
他の僚機、
外縁の中継、
敵散布群の意図、
全部を同時に処理しなければならないのに、今の冬真の中では澪の存在だけが異様にはっきりしていた。
任務開始から十分。
初動は静かだった。
敵反応は散発的。
軽量群が中層へ薄く散り、重い収束はまだない。
普通なら“楽な任務”に見える立ち上がりだ。
だが今までの流れを知る冬真には、その静けさが一番気持ち悪い。
「引きが綺麗すぎる」
冬真が言う。
「分かる」
瀬名が返す。
「今日も何かある」
「ああ」
戦域図上で、敵反応は散りながら、少しずつ中層残骸帯の南寄りへ流れていく。
そこは通信の薄い場所だ。
高架と崩落壁の影が重なり、視界も回線も切れやすい。
つまり、澪が一番嫌うが、それでも通りそうな場所だった。
『二番機、左抑えて!』
『了解!』
『天城少尉、南側は中継が――』
『分かってる、でも押し切る!』
澪が前へ出る。
その瞬間、冬真の奥歯がわずかにきしむ。
いつもなら、この一拍で支援の準備へ入る。
中継の再配分、
補助ラインの細い延長、
必要ならもっと深いところまで。
だが今日は、それができない。
主支援卓に座っているのは別の担当だ。
手順は正しい。
反応も遅くない。
でも、噛み合いが違う。
「ほら」
瀬名が低く言う。
「来るぞ」
「……」
「今のお前、もう何もするな」
「分かってる」
「指が端末に行ってる」
瀬名の声が少し鋭くなる。
「榊、今日は本当に触れないんだぞ」
冬真は自分の手を見た。
無意識に端末の縁を掴んでいた。
深層へ入る権限はない。
そもそも卓も違う。
なのに体だけが、いつもの動きをしようとしている。
戦域図の中で、暁式参号が南中層の薄い谷へ入った。
その途端、敵中型反応が二つ、深く沈む。
「来た!」
「中層南、収束!」
「先鋒寄り!」
主支援卓が即座に再配分を走らせる。
正しい。
十分に早い。
だが冬真には見える。
澪が欲しい半拍と、支援が届く半拍が、ほんの少しだけずれている。
『天城少尉、北へずらして!』
『っ、遅い……!』
澪の声が回線へ落ちる。
その一言で、冬真の胸が強く締まる。
遅い。
それは今まで澪が、自分にはほとんど向けなかった種類の言葉だった。
冬真がそこにいた時、いつも“間に合っていた”から。
「……」
喉の奥が詰まる。
敵中型が崩落高架の影から射線を重ねる。
軽量群は正面を塞がず、僚機との距離だけを裂く。
いつもの、澪を前へ出させる形。
だが今日の冬真には、その先を変える権限がない。
『天城少尉、上層へ!』
『見えてる、でも足りない――』
足りない。
その言葉が、そのまま冬真の胸へ落ちる。
足りない。
自分がいない。
触れられない。
間に合わない。
画面の向こうには澪がいるのに、
名前も声も届くのに、
自分の指だけがそこへ届かない。
これが外されるということなのだと、冬真はようやく本当の意味で思い知った。
「榊」
瀬名が低く呼ぶ。
「……」
「見るなじゃない。見ろ」
「……見てる」
「全体を、だ」
「……」
だが無理だった。
今の冬真には、白い識別灯しか見えない。
暁式参号が崩落縁を蹴り、上層へ抜けようとする。
補助支援は正しい角度を出している。
でも、澪が踏み込みたい半拍とはやはりずれている。
そのせいで、肩装甲を敵射線が浅く掠める。
『っ……!』
短い息。
それだけで、冬真の指先が震える。
「榊!」
瀬名が強く言う。
「触るな!」
「……分かってる」
「分かってる顔じゃない!」
分かっていても止まらない。
体はずっと、主支援卓の深層へ手を伸ばしたがっている。
だが今日は本当に無理だ。
権限がない。
触れた瞬間にその場で止められる。
何より、いまの席からでは間に合わない。
戦域図の中で、暁式参号が上層の半壊通路へ滑り込む。
そこは今まで冬真が何度も“通してきた道”に近い抜け方だった。
だが今回は、主支援卓の指示ではそこまで踏み込んでいない。
澪が、自分の判断でその道を選んでいる。
「……」
冬真の呼吸が一瞬止まる。
知っている動きだ。
見覚えがある。
今まで自分が半歩ずつ作ってきた“逃げ道”の感覚を、澪が自力でなぞっている。
『そのまま、右上層!』
主支援卓の声。
『了解、行く!』
暁式参号が跳ぶ。
今度は僚機との間も切られない。
白い機体が紙一重で射線を抜け、味方青圏へ戻り始める。
「抜けた……」
誰かが呟く。
「先鋒再集結!」
「局地圧縮、継続可能!」
管制室に遅れて安堵が戻る。
だが冬真だけは、その波に乗れなかった。
抜けた。
生き残った。
それは何より大事だ。
でも今の戦場で、冬真は何もしていない。
見ていただけだ。
触れられないまま、澪が危険域へ入っていくのを見せられただけだ。
「これが“外される”ってことだ」
瀬名がもう一度言う。
「……ああ」
冬真はやっと答える。
届かない。
その一言しか、今は思い浮かばなかった。
任務終了後、管制室の空気が少し落ち着いた頃にも、その感覚は消えなかった。
戦果報告、
損耗確認、
回線整理。
やることはある。
だが冬真の中では、さっきの“遅い”という澪の声だけが、ずっと残っている。
「行くか」
瀬名が訊く。
「どこに」
「決まってるだろ」
瀬名は呆れたように言う。
「天城少尉のとこ」
「……」
「今のお前、放っといたら端末見ながら死ぬほど自己嫌悪する顔してるぞ」
「うるさい」
「図星だろ」
「……ああ」
結局、否定できなかった。
整備区画の奥。
白い機体の脇に、澪はいた。
今日もジャケット姿で、肩装甲の補修ラインを見上げている。足音に気づいて振り向いた顔には、疲れがあった。だがそれ以上に、何かを確かめたあとの静けさがあった。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「来ると思った」
「そうか」
「うん。今日の冬真、多分かなりひどい顔してるから」
ひどい顔。
その表現が妙にしっくり来る。
「……今日」
冬真が先に言う。
「何もできなかった」
澪は少しだけ目を細める。
「うん」
「届かなかった」
「うん」
「……」
「見てた?」
澪が訊く。
「仕事だ」
「もうそれいいって」
少しだけ笑う。
「見てたんでしょ」
「……ああ」
認めると、澪は小さく息を吐く。
「私も分かった」
澪が言う。
「何が」
「いないんだなって」
「……」
「冬真が、あの位置に」
その言葉に、胸がまた静かに痛む。
澪も同じだったのだ。
自分がいない戦場を、はっきり感じていた。
「怖かった」
澪がぽつりと言う。
「……」
「大丈夫だとは思ってた」
「……」
「でも、やっぱり違った」
冬真は何も言えない。
言葉にしてしまえば、本当に自分の無力さが形になる気がしたからだ。
「それでも」
澪が続ける。
「今日、少しだけ分かったこともある」
「何を」
「この抜け方」
澪は白い機体へ目を向ける。
「知ってるって思った」
「……」
「どこを通れば半歩生き残れるか」
「……」
「冬真が何回も作ってくれてた道、体が覚えてた」
その一言で、冬真は少しだけ息を止めた。
守れなかった。
触れられなかった。
でも、自分がこれまで渡してきたものが、澪の中に少しだけ残っていた。
それは救いだった。
同時に、それでもまだ足りないとも思う。
「……それでも」
冬真が低く言う。
「足りない」
「うん」
澪は頷いた。
「私もそう思った」
「……」
「冬真がいない戦場、やっぱり嫌」
その言葉が、胸の奥へまっすぐ刺さる。
「でも」
澪が少しだけ笑う。
「今日、少しだけ自分で戻れた」
「……」
「冬真が残したもの、ちゃんとあるんだと思った」
冬真は返事をしなかった。
返せば、多分声が少し揺れると思ったからだ。
白い機体の補助灯が静かに明滅する。
守るために触れてきた場所。
今はそこへ、直接は触れられない。
それでも、何も残せていなかったわけではない。
その事実だけが、今の冬真をぎりぎり支えていた。
「今度は」
澪が静かに言う。
「私も戻る」
「……」
「冬真がいない時でも」
「……ああ」
「でも、やっぱり」
澪は冬真を見る。
「いてほしい」
その一言に、冬真は目を逸らせなかった。
届かない指。
今日それを思い知った。
けれど同時に、その指が今まで残してきたものもあった。
それでもまだ足りない。
それでも、ゼロではなかった。
「……戻りたい」
気づけば、そう言っていた。
澪の目が少しだけ揺れる。
「うん」
「主支援に」
「うん」
「お前のところに」
そこまで言ってから、自分で少し驚く。
かなり本音だった。
だがもう、引っ込める気にはなれなかった。
澪は少しだけ呼吸を止めるみたいな顔をして、それから小さく笑った。
嬉しいのに、泣きそうな人みたいな笑い方だった。
「知ってる」
そう言う。
「私も、戻ってきてほしい」
その言葉が、今の冬真には十分すぎるほど重かった。
何も解決していない。
権限も戻っていない。
上層部の警戒も続いている。
でも今日初めて、守るだけではなく、戻るために何かをしなければならないのだと、はっきり思えた。
「おやすみ」
澪が言う。
「ああ」
「今度は、届くといいね」
「……」
「指」
そう言って少しだけ笑う。
冬真も、ほんの少しだけ息を抜いた。
「努力する」
そう返すと、澪が呆れたように笑った。
「まだそれ言う」
「便利だからな」
「ずるい」
「知ってる」
短いやり取りのあと、澪は白い機体の向こうへ歩いていく。
冬真はその背中を見送りながら思う。
届かない指。
今日はその痛みを思い知った。
でも同時に、届かないままでも残せるものがあることも知った。
それでも。
やはり、触れられる場所へ戻りたかった。




