第5章 第3話:今度は私が
守るという言葉は、たぶん一方向では成立しない。
誰かが前に立ち、
誰かが後ろから支え、
それで均衡しているように見えても、
片方だけが傷つき続けるなら、それはもう守りではなく消耗だ。
人は大事なものに対して、いつか必ずそれを許せなくなる。
相模第七防衛区画の朝は、昨日より少しだけ騒がしかった。
戦術支援管制室の壁面モニタには新しい局地任務案が流れ始め、中央通路では補給班が物資ケースを運び、整備区画では夜明け前から動いていた補助アームの音がまだ残っている。基地全体は相変わらず戦争の中にあった。誰か一人の立場が揺らいだからといって、歯車は止まらない。
その止まらなさが、今の榊冬真には少しだけ憎たらしかった。
自席へ座り、端末を開く。
灰色の権限表示は昨日のままだ。
主支援ライン接続、保留。
補助制御書き込み、一時停止。
深層処理権限、一部凍結。
居場所が残っているように見せたまま、守るための指先だけが切り取られている。
「見慣れねえな」
瀬名が隣で言う。
「何が」
「その端末、半分死んでる状態」
「……」
「しかも嫌なのは、お前がそこにまだ座ってることだよな」
瀬名は肩をすくめた。
「椅子だけあるの、ほんと質悪い」
冬真は返さない。
その通りだったからだ。
端末を切り替える。
今朝の局地偵察任務。
敵残存群の動き。
中継圏の薄い場所。
そして、先鋒候補。
天城澪。
またその名前が前にある。
「見んなよ」
瀬名が言う。
「何を」
「その顔で天城少尉の名前」
「仕事だ」
「それ、もはや呪文か?」
軽口だが、今日は半分も笑えなかった。
今の冬真は、澪の任務予定を見ても、いつものようにその場で補助ルートを組めない。主支援へ直接触れられない以上、できるのは解析と予測だけだ。それがどれだけ無意味に近く感じるか、瀬名も分かっているのだろう。
「榊さん」
別卓の補助通信員が声をかけてきた。
「はい」
「今日の局地任務の予測解析、こちらへ回してください」
「ああ」
短いやり取り。
何もおかしくない。
でも、やはり距離が変わっている。
以前なら“そこ、ついでに見てくれますか”と軽く渡されたものが、今はちゃんと手順の上で回ってくる。
監視下の人間。
たぶん、現場ではもうそう扱われ始めている。
「ほんと、息苦しいな」
瀬名が小さく言う。
「ああ」
「で、天城少尉には言ったのか」
「何を」
「お前の権限、だいぶ死んでること」
「昨日少し」
「少し、ねえ」
瀬名はわざとらしく机の端を叩いた。
それ以上追わないあたり、さすがに空気は読んでいる。
午前の処理がひと区切りついた頃、個人回線が震えた。
送信者:天城澪
冬真は一拍だけ視線を止め、それから通知を開く。
――今、少しだけ抜けられる?
――話したい
昨日のやり取りの続きだとすぐに分かった。
しかも今日は、曖昧さが少ない。
“少し会える?”ではなく“話したい”。
澪の中で、もう迷いより決意のほうが強いのだろう。
冬真は短く返す。
――どこだ
返信はすぐだった。
――整備区画の脇
――人が少ない通路
「行ってこい」
瀬名が即座に言う。
「まだ何も言ってない」
「画面見れば分かる」
「見るな」
「見てない。でもお前の顔が読める」
冬真は小さく息を吐く。
瀬名は今度は軽口を叩ききらず、少しだけ真面目な顔で続けた。
「天城少尉、多分もう腹決めてる」
「……」
「で、お前のほうが追いついてない」
「うるさい」
「図星だろ」
それもまた、否定しきれなかった。
整備区画脇の通路は、昼前のわりに静かだった。
大きな搬送動線から少し外れただけで、人の気配はぐっと薄くなる。白い壁、床を走る配線カバー、遠くで聞こえる整備アームの駆動音。最近このあたりで澪と話すことが増えたせいか、冬真には妙に見慣れた場所になっていた。
澪は通路の端に立っていた。
簡易制服のまま、髪は後ろで軽くまとめている。戦闘直後の張り詰め方ではない。だが、ただの休憩中という空気でもない。冬真の姿を見ると、少しだけ肩の力を抜いた。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「来てくれると思ってた」
「呼ばれたからな」
「うん」
少しだけ笑う。
「その返し、もう安心するようになってきた」
皮肉でもなく、本気の声だった。
冬真はその言葉に、うまく返せない。
「何の話だ」
結局いつものように言うと、澪は小さく息を吐いた。
「今度は私が動くって言ったでしょ」
「ああ」
「その続き」
澪はまっすぐ冬真を見た。
「ちゃんと聞いてほしい」
その顔を見て、今日は本当に逃げられないのだと分かる。
いや、たぶん逃げるべきでもない。
「昨日からずっと考えてた」
澪が言う。
「冬真の権限が切られていくこと」
「……」
「主支援から外されかけてること」
「……」
「私のせいでもあること」
冬真が口を開きかけると、澪がすぐに首を振る。
「そこ、今日は止めないで」
「……」
「全部が全部そうじゃないのは分かってる」
「……」
「でも、私を守ろうとしたことが混ざってるのも事実でしょ」
その言い方は静かだった。
責めるのではなく、現実として受け取っている声だ。
「……ああ」
冬真は認めるしかない。
「混ざってる」
澪はそれを聞いて、少しだけ目を伏せる。
痛そうな顔だった。
けれど目を逸らしはしない。
「私ね」
澪が言う。
「今まで“守られるだけは嫌”って言ってきた」
「ああ」
「でも、たぶんそれだけじゃ足りなかった」
「……」
「ほんとは、守り返したかったんだと思う」
冬真はそこで初めて、少しだけ息を止めた。
守り返す。
澪がその言葉を自分から使うのは、初めてに近い気がした。
「お前は前に立てばいい」
反射で出る。
「それが仕事だ」
「うん。そうだよ」
澪は頷く。
「でも、前に立つしかできないわけじゃない」
「……」
「今の私は、英雄って言われる位置にいる」
「知ってる」
「それ、嫌なことも多い」
「……」
「でも、使えるなら使う」
冬真は眉を寄せる。
嫌な予感がした。
「何を考えてる」
「冬真を切ったら何が失われるか、ちゃんと見せる」
澪は迷いなく言った。
その返答は、あまりにも澪らしくて、あまりにも危なかった。
「やめろ」
冬真がすぐに言う。
「何で」
「お前まで目立つ」
「もう目立ってる」
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
澪は少しだけ声を落とす。
「でも、それでも黙って見てるのは無理」
通路の壁に寄りかからず、澪はただまっすぐ立っている。
その姿勢そのものが、もう引く気がないと語っていた。
「冬真」
「なんだ」
「私、前に立つ人間だからこそ言えることもあると思う」
「……」
「前に見える人だけじゃ戦場は成立しないって」
「……」
「そのことを、私の口で言えば無視しにくいでしょ」
正しい。
それが一番厄介だった。
澪はただ感情で庇おうとしているわけじゃない。
自分が持っている立場の重さを理解したうえで、それを冬真のために使おうとしている。
英雄の顔。
希望の象徴。
公的な光。
それを、今度は自分のためではなく、影を守るために使うつもりなのだ。
「そんなことまでしなくていい」
冬真が低く言う。
「それ、ほんとにそっくり返す」
澪が少しだけ苦く笑う。
「冬真が今までやってきたことのほうが、よっぽど“そんなことまで”だよ」
言い返せない。
その通りだからだ。
「私」
澪が続ける。
「守られてるの、嬉しかった」
「……」
「今もそう」
「……」
「でも、だからって冬真だけが危ないところに押し込まれるの、見てられない」
「……」
「今度は私が見てる」
その言い方は、冬真が澪に向けて何度も使ってきた言葉そのものだった。
見てる。
支える。
戻す。
死なせない。
全部が反転して、自分へ向いてくる。
「やめろ」
冬真がもう一度言う。
「嬉しくない」
「嘘」
澪が即答した。
「……」
「怖いだけでしょ」
「……」
「そこ、もう分かるよ」
分かる。
澪はもう、そこまで見ている。
冬真が澪に守られることを怖がる理由。
嬉しいくせに、それ以上に崩れそうになるから拒むこと。
それを澪は、怒っているからこそ余計にはっきり見ているのだろう。
「……お前まで危なくなる」
冬真がようやく本音を言う。
「うん」
澪は頷く。
「でも冬真だけ危ないのも嫌」
「……」
「だから、多分同じなんだよ」
そこで澪は少しだけ困ったように笑う。
「似てるから、こんなに話がこじれる」
「最悪だな」
「ほんとにね」
短い笑い。
けれど、その奥にあるものはまったく軽くない。
「ねえ」
澪が声を落とす。
「私、感情だけで言ってるわけじゃない」
「分かる」
「冬真を切ったら、先鋒の生存率は落ちる」
「……」
「そのこと、たぶん私が一番体で知ってる」
その言葉に、冬真の胸の奥が少し強く打つ。
澪は体で知っている。
どれだけの紙一重を通されてきたか。
どれだけ戦場で半歩ずれて生き残ってきたか。
その全部を、今はもう感覚ではなく事実として持っている。
「だから」
澪が続ける。
「私が言う」
「……」
「冬真を切るのは、ただ一人の支援担当を外すことじゃないって」
「……」
「それが、今の私にできることならやる」
冬真はしばらく何も言えなかった。
嬉しい。
怖い。
やめてほしい。
でも、止めきれない。
その全部が一度に来る。
たぶん今の自分の中で一番正直な感情は、澪が本気で自分を守ろうとしていることに、救われてしまっているという事実だった。
「……ありがとう」
気づけば、そう言っていた。
澪の目が少しだけ見開く。
それから、静かにやわらぐ。
「珍しい」
「何が」
「ちゃんと受け取った」
「……受け取ってないわけじゃない」
「うん」
澪は少しだけ笑う。
「でも、怖いんだよね」
「ああ」
「知ってる」
その“知ってる”が、今は妙に優しかった。
通路の向こうで搬送台車の駆動音がした。
現実がこちらへ戻ってくる。
「今日」
澪が言う。
「会議がある」
「……」
「多分そこで少し言う」
「お前な」
「ちゃんと考えたうえで言うよ」
「……」
「感情だけじゃ突っ走らない」
澪はそこで少しだけ目を細める。
「冬真に言われたから」
それはずるい返しだった。
自分の言葉を使って、自分を押し返してくる。
「ほんとに、前より強いな」
冬真がぽつりと漏らす。
「誰のせいだと思う?」
「知らない」
「嘘」
澪が笑う。
「半分くらい冬真のせい」
その言葉に、冬真も少しだけ息を抜く。
こういう何でもない応酬だけは、まだ昔の空気に近い。
でも中身はもう、昔とはまるで違う。
「戻る」
澪が言う。
「ああ」
「冬真も」
「そうする」
「逃げないでね」
「無茶言うな」
「知ってる」
最後に澪は一歩だけ近づく。
触れない距離。
でも、これまでで一番自然な近さだった。
「今度は私が」
小さくそう言って、澪は視線を外さない。
「冬真のこと、ちゃんと見てる」
その言葉は約束みたいだった。
冬真はすぐには返事をしなかった。
でも、黙ったままで終わらせたくなかった。
「……ああ」
短く答える。
「分かった」
「うん」
澪はそれだけで少しだけ安心したように笑って、通路の向こうへ歩いていった。
残された冬真は、しばらく白い壁と配線カバーの走る床を見つめていた。
今度は私が。
その言葉は、守られる側だったはずの澪が、もうそこにいないことを示している。
冬真の居場所が剥がされるなら、
澪はその剥がれた場所に別の形で立とうとしている。
それが正しいのかは、まだ分からない。
でも少なくとも、
もう一人だけが影の中で傷つく形には戻れないのだと、
冬真ははっきり理解し始めていた。




