第5章 第2話:居場所の剥奪
居場所は、追い出される時より、静かに削られる時のほうが痛い。
もうここにいるな、と誰かに言われるならまだ分かりやすい。
扉を閉められるなら、諦め方もある。
でも本当に残酷なのは、椅子はそこにあるのに、触れられるはずのものだけが少しずつ遠くなることだ。
それは喪失というより、剥奪に近い。
相模第七防衛区画、戦術支援管制室。
朝の光は基地の中まで届かない。
代わりに壁面モニタの白と青が、いつも通りの時間を演じていた。敵残存勢力の再編予測、中継圏の再配置、前線要員のシフト調整、補助回線の再点検。どれも昨日までと同じ仕事のはずなのに、榊冬真にとってはもう同じ景色ではなかった。
自席へ座り、端末を開いた瞬間にそれは分かる。
灰色の権限表示。
深層閲覧の一部制限。
主支援ラインへの直接接続権限、保留。
補助制御への書き込み権限、一時停止。
戦術卓三番、監視下運用。
「露骨だな」
瀬名が隣で言った。
「ああ」
冬真が短く返す。
「一晩でここまで切るか普通」
「普通じゃないからだろ」
「それ言われると終わるな」
瀬名は紙コップのコーヒーを机に置き、冬真の端末を覗き込む。
そこには作戦支援ラインの接続図が表示されていた。これまでなら冬真が直に触れられた層が、今は薄い鍵アイコンつきで閉じている。
「主支援ライン、ほんとに触れねえじゃん」
「ああ」
「補助制御も閲覧だけ」
「ああ」
「うわ」
瀬名が本気で嫌そうな顔をした。
「ほぼ半分終わってる」
半分、どころではないのかもしれない。
冬真はそう思ったが口にはしなかった。
主支援から外されるというのは、単に仕事の範囲が狭まることではない。
澪が危険域へ入った時、
死線が重なった時、
いつものように半歩ずらすための指先を、自分が失うということだ。
それがどれだけ致命的か、冬真にはよく分かっていた。
「榊」
瀬名が少し声を落とす。
「なんだ」
「今日の再配置、見たか」
「まだだ」
「見ろ。さらに気分悪くなるぞ」
冬真は端末を切り替える。
今日の暫定前線シフト。
後方支援卓の担当再配置。
澪が投入される可能性のある局地制圧ライン。
そして、自分の位置。
補助解析寄り。
主支援卓から一段外側。
直接触れられる帯域は狭い。
澪の出撃時、リアルタイム補助の最前列には座れない配置だった。
胸の奥がひどく静かに冷える。
「な?」
瀬名が言う。
「……」
「お前が一番触れたいところから、綺麗に外されてる」
「分かってる」
「いや、分かってる時の顔じゃねえよそれ」
冬真は返事をしない。
画面に出ているのはただの配置換えに見える。
建前はいくらでも立つだろう。
監視下運用のため、
卓間バランスの再調整のため、
局所依存の防止のため。
どれも軍としては正しい。
でも、正しいからといって痛くないわけではない。
自分の椅子はまだそこにある。
端末もある。
命令も飛んでくる。
それでも一番守りたかった位置だけが、きれいに遠ざけられている。
「榊さん」
通路側から声がした。
補助通信の若い担当兵だ。
以前なら軽く資料を渡して終わる距離感だったが、今日は少しだけぎこちない。
「こちら、再配置後の担当表です」
「ああ」
「あと……」
若い兵は少し迷う。
「主支援卓の臨時接続権については、追加承認が必要になるそうです」
「分かった」
「失礼します」
必要以上に丁寧な敬礼をして、彼は去っていく。
そのわずかな空気の変化だけで十分だった。
もう周囲も気づいている。
冬真の卓に何かが起きていること。
いつも通りではないこと。
「異物扱い、始まったな」
瀬名がぼそっと言う。
「まだだ」
「いや、始まってる」
「……」
「お前がそう思いたくないだけだろ」
反論しなかった。
できなかったとも言う。
午前の処理を淡々とこなしながらも、冬真の意識はどうしても主支援卓のほうへ引っ張られる。
そこでは別の担当が、澪の隊が使う可能性のある中継再配分案を回していた。
優秀ではある。
手順も正しい。
だが、噛み合い方が違うと冬真には分かる。
澪の癖。
踏み込みのタイミング。
機体の遅れを嫌う瞬間。
紙一重の角度を通す時の無茶な癖。
そういう“数字に乗りきらないもの”を知っているのは、今のところ冬真だけだ。
それをここで失うのは、単なる配置変更ではない。
「……最悪だな」
思わず漏れる。
「やっと口に出した」
瀬名が言う。
「何が」
「今日一番まともな本音」
昼前、管理AIから追加の再確認通知が来た。
内容は簡単だ。
――当面、戦術支援三番卓は補助解析担当とする
――主支援接続には別承認を必要とする
別承認。
つまり、今の冬真にはもう“必要だからやる”だけでは触れられない。
「きれいに殺してくるな」
瀬名が低く言う。
「処分じゃない顔して、守る手段だけ取ってくる」
「……」
「ほんとにやり方が嫌らしい」
冬真は画面を見つめたまま動かなかった。
守るための位置。
支援卓。
中継。
補助制御。
白い機体へ伸びる線。
その一本一本が、自分の指から少しずつ離れていく。
その時、個人回線が静かに震えた。
送信者:天城澪
それだけで、胸の奥が少しだけ強く打つ。
冬真は通知を開いた。
――今、少し会える?
短い文面。
だがいつもより余白が少ない。
たぶん澪も、もう冬真の周囲の空気が変わっていることに気づいている。
「ほら」
瀬名が横目で言う。
「来た」
「見るな」
「見てない。でも内容は読める」
「便利だな」
「長年の付き合いってやつだ」
冬真は少しだけ迷ったあと、短く返す。
――どこだ
すぐに返信が来る。
――観測通路
――人が少ないところ
「行ってこい」
瀬名が言う。
「仕事中だ」
「だからだよ」
瀬名は珍しく笑わなかった。
「天城少尉、多分もうかなり察してる」
「……」
「で、お前の居場所が消えかけてることも、そのうち気づく」
「……」
「なら、先に話せるだけ話しとけ」
冬真は端末を閉じた。
立ち上がる前に、一度だけ主支援卓の方を見た。
そこにはまだ、自分が触れられないラインが動いている。
椅子はあるのに届かない。
それが今の自分の立場そのものに見えた。
観測通路へ向かう途中、基地の空気はいつも通りだった。
搬送台車が通る。
整備員が急ぎ足で資料を運ぶ。
遠くで機体整備の音がする。
世界は止まっていない。
その当たり前さが、かえって冬真には遠かった。
観測通路の端に、澪は立っていた。
防壁側の薄い光を背にして、手すりへ軽く触れている。白い機体の見える位置。ここも、二人が最近何度も立ってきた場所だ。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「来ないかもって思った」
「呼ばれたから来た」
「うん。そういう返しだよね」
少し笑う。
けれどその笑顔はすぐに薄くなった。
「何かあった?」
澪が訊く。
「何で」
「最近の冬真、顔見れば大体分かる」
「便利だな」
「冬真のほうがもっと便利なことしてるから、これくらい許して」
軽いようで、軽くない言い方だった。
冬真は少しだけ視線を落とし、それから正直に言う。
「卓から外されかけてる」
澪の目が少しだけ見開かれる。
「どこまで」
「主支援ラインは保留」
「……」
「補助制御も触れない」
「そんなの」
澪の声が低くなる。
「ほぼ半分、何もできないじゃん」
「ああ」
その一言を、澪の口から聞くのはきつかった。
自分でも分かっていた。
でも今、それを澪が“自分の問題”として受け取っているのが分かるから余計にきつい。
「私のせいだ」
澪が言う。
「違う」
「でも私を守ろうとして」
「それでも違う」
「冬真」
名前を呼ばれる。
止めるように。
ごまかすなと言うように。
「私、もうそこ、全部違うって言われても引かないよ」
澪は静かに言う。
「……」
「だって、私のためにやったことも、そこに混ざってるでしょ」
「……ああ」
結局、それだけは認めるしかない。
澪は少しだけ目を伏せる。
その一瞬で、自分の予想以上に傷ついているのが分かった。
「そっか」
「……」
「ほんとに、冬真の場所が消えていくんだ」
その言葉に、胸の奥が静かに裂けるみたいな感覚がした。
居場所。
そうだ。
今、自分から消えかけているのは単なる権限ではない。
澪を守るための居場所そのものだ。
「まだ全部じゃない」
冬真が言う。
「でも、始まってる」
澪が返す。
「……」
「見れば分かる」
その通りだった。
冬真が答えられないでいると、澪は一歩だけ近づいた。
いつもより近い。
でも触れるほどではない。
最近の二人は、そういう距離ばかり選んでいる。
「ねえ」
澪が言う。
「今度は私が動く」
「……は?」
「冬真のこと、守る」
あまりにもまっすぐで、冬真は一瞬言葉を失う。
「やめろ」
反射みたいに出た。
「何で」
「お前まで危なくなる」
「もう危ないよ」
澪は即座に返す。
「私も、冬真も、白い機体の周りも」
「……」
「だから、今度は私が見てる」
その言い方は、これまで冬真がしてきたことの反転だった。
見てる。
支える。
引き戻す。
守る。
澪はもう、それを自分の側からやろうとしている。
「お前は前に立て」
冬真が低く言う。
「その役目は変わらない」
「変わらないよ」
澪は頷く。
「でも、それだけじゃない」
「……」
「前に立つからこそ、言えることもある」
「何を」
「冬真を切ったら、何が失われるかってこと」
冬真はそこで初めて、澪がただ感情だけで言っているわけではないと気づく。
守られた恩返しとか、
幼馴染としての情とか、
そういうものだけではない。
澪はもう、軍の中で自分が持つ立場を理解している。
英雄としての重み。
希望の顔としての影響力。
その光を、自分のためではなく冬真のために使おうとしている。
「やめろ」
冬真はもう一度言う。
「そんなことしなくていい」
「冬真」
澪が少しだけ苦く笑う。
「それ、そっくり返す」
冬真は黙る。
たしかにそうだ。
自分が澪に対して何度も言ってきた言葉だった。
無茶するな。
そんなことしなくていい。
お前まで危なくなる。
今、その全部が返ってきている。
「……」
二人のあいだに、短い沈黙が落ちる。
遠くで警戒灯が赤く点滅する。
防壁の外は、相変わらず戦争の色だ。
その中で、自分たちはようやく互いの立ち位置を反転させ始めている。
「私」
澪が静かに言う。
「冬真がもう、ただ守る側のままじゃいられないの分かってる」
「……」
「なら、今度は私も隣に立つ」
「……」
「守られて終わりたくないし、冬真だけ削れて終わるのも嫌」
その言葉は、優しい。
でも冬真にとっては、たぶんこれまでで一番危うい優しさだった。
澪が本気で自分を守ろうとすればするほど、
その光は敵の目を引く。
上層部の警戒も強くなる。
それでも澪は、もう黙っていないつもりなのだろう。
「やめろ」
冬真は三度目に同じことを言う。
「俺のことはいい」
「よくない」
澪がはっきり言う。
「冬真がそうやって自分を後ろに置くの、ほんと嫌」
「……」
「私のために、って顔して自分のこと削るの、もう見たくない」
その一言で、冬真は少しだけ目を伏せた。
見たくない、と言われると弱い。
守ることを否定されるより、
その代償を見たくないと言われるほうが、ずっときつい。
「……考えろ」
冬真がようやく言う。
「何を」
「どう動くか」
「うん」
「感情で突っ走るな」
「冬真がそれ言うんだ」
「うるさい」
「でも、考える」
澪は少しだけ笑う。
「ちゃんと考えたうえで動く」
「お前な」
「今さらだよ」
その笑いは、少しだけいつもの澪に近かった。
だから余計に苦しい。
守る側と守られる側が崩れかけているのに、
その崩れ方が、どこか少しだけ自然に見えてしまうからだ。
「冬真」
澪が最後に言う。
「場所、取り戻そう」
「……」
「今までみたいにじゃなくていい」
「……」
「でも、いなくならないで」
それはお願いというより、
もう二人に残された最低限の約束みたいに聞こえた。
冬真はすぐには答えない。
答えられない。
けれど沈黙のまま終わらせたくもなかった。
「……努力する」
結局、またそれしか出ない。
「ほんと、便利だねその言い方」
澪が少しだけ笑う。
「知ってる」
「でも、前よりはちゃんと聞こえる」
「そうか」
「うん」
そこでようやく、少しだけ空気が緩んだ。
何も解決していない。
権限は戻っていない。
上層部の警戒も消えていない。
でも今、澪は“今度は私が動く”と言った。
それだけで、前とは違う章に入ったのだと分かる。
「戻る」
澪が言う。
「ああ」
「冬真も」
「そうする」
「今度は逃げないでね」
「無茶言うな」
「知ってる」
最後に少しだけ笑って、澪は通路の向こうへ歩いていく。
残された冬真は、防壁の外の暗さをしばらく見つめていた。
居場所の剥奪。
それはたしかに始まっている。
だが同時に、澪はそこへ新しい立ち位置を持ち込もうとしている。
守るための位置を失うなら、
別の形で隣に立つしかないのかもしれない。
そう思ってしまった時点で、
もう昔の“見えない守護者”には戻れないのだろう。




