第5章 第1話:呼び出しの廊下
呼び出しというものは、内容より先に空気を変える。
名前を呼ばれた瞬間、
扉を叩かれた瞬間、
端末に短い通知が落ちた瞬間、
人はまだ何も知らないうちから、自分の日常が少しだけ終わったことを悟る。
それはたぶん、処分そのものより先に人を削る種類の恐怖だ。
相模第七防衛区画の白い廊下は、今日に限ってやけに長く見えた。
戦術支援管制室から上層確認室へ向かう通路。
普段ならただの移動路でしかない場所だ。壁は白く、床は無機質で、照明はどこまでも均一に明るい。何も特別じゃない。なのに今の榊冬真には、その変わらなさがかえって異様だった。
基地そのものはいつも通り動いている。
整備班は機体を直し、
補給班は物資を流し、
前線要員は次の任務へ備える。
その中で自分だけが、今から別の線へ切り分けられていく気がした。
端末に表示された通知は短い。
――戦術支援三番卓処理についての確認
――至急出頭
処分とも、拘束とも書かれていない。
だが冬真には、それがむしろ厄介だった。
まだ断定していないからこそ、相手は一番冷たい顔でこちらを見る。
逃げ道があるように見せながら、どこまで認めるかを測ってくる。
廊下を歩きながら、冬真は自分の呼吸が少しだけ浅いことに気づいていた。
緊張しているのだろう。
当たり前だった。
ここ数話で積み上がったものは、もう“やりすぎた支援”の範囲を越えている。
承認外深層接触。
多重優先処理。
暁式参号との異常な補助制御相関。
敵側の逆探知。
そして、戦場ごとに残るあまりにも露骨な偏り。
数字は、言い訳をしてくれない。
そのことを冬真はよく知っていた。
廊下の角を曲がると、確認室の前に二名の警備兵が立っていた。
いつもと同じ制服。
いつもと同じ姿勢。
けれど今の冬真には、それが妙に威圧的に見える。
「榊冬真担当官」
一人が言う。
「ああ」
「確認室へどうぞ」
言葉は丁寧だ。
だが“どうぞ”に断る余地はない。
自動扉が開く。
中は予想していたより狭かった。
白い壁、
長机、
記録端末、
向かい合わせの椅子。
窓はない。
装飾もない。
訊くためだけに作られた部屋だ。
机の向こうには二人いた。
一人は戦術運用局の中佐。
もう一人は管理AI監督部門の監査官らしい、年齢の読みにくい男だった。どちらも冬真を感情では見ていない顔をしている。
「座ってください」
中佐が言う。
冬真は無言で椅子に座る。
背もたれへ深く寄りかかる気にはなれなかった。
「榊担当官」
中佐が端末を軽く操作する。
「本日の呼び出しは懲罰通告ではありません」
「そうですか」
「ですが、重要な確認です」
「……」
予想通りだった。
先に“まだ処分ではない”と言う。
そのうえで、こちらに少しだけ安心する余地を見せる。
そうやって人は喋りやすくなる。
「戦術支援三番卓の処理履歴について」
監査官が言う。
「ここ数回の主要戦闘局面で、不自然な処理集中が確認されています」
端末画面が机上へ投影される。
時系列ログ。
前線危機局面。
中継遅延の発生タイミング。
支援卓ごとの優先処理比率。
そして、冬真の卓だけが異常に高い精度で“ある機体”へ寄っている線。
暁式参号。
天城澪機。
見慣れたはずの数字なのに、他人の手で並べ直されるとまるで別物に見える。
「偶然にしては、よくできています」
監査官が淡々と言う。
「……」
「偶発的戦況判断として説明するには、一致率が高すぎる」
中佐が続ける。
「あなたの卓だけが、戦場を知りすぎている」
その言葉は静かだった。
怒鳴り声よりずっと冷たく、冬真の胸へ落ちた。
「必要な処理だっただけです」
冬真は答える。
声が平坦であることだけを意識した。
「必要」
中佐がその単語を繰り返す。
「その“必要”を誰が決めたのですか」
「現場での戦況判断です」
「では、その判断が特定機体へ異常な精度で偏る理由は?」
「先鋒突破軸だったからです」
「毎回?」
監査官が間を置かずに重ねる。
「ほぼ毎回、同じ人物がその軸に立つ」
「……」
「それは“戦術的合理”と呼べる」
中佐が言う。
「しかし、合理の名を借りた個人的優先でないと、あなたは断言できますか」
その問いに、冬真は一瞬だけ答えを失う。
断言。
できるわけがない。
自分が一番知っている。
合理だけではない。
その中にどれほど感情が混ざっていたかを。
だが、ここでそれを言うわけにはいかない。
「断言はできません」
そう返すしかなかった。
「ほう」
監査官の目がわずかに細くなる。
「否定もしない」
「現場判断に感情がゼロだとは言いません」
冬真は続ける。
「ですが、必要だったことも事実です」
「天城少尉機への介入が?」
「先鋒機への支援が」
言い換える。
個人名から少しでも距離を取るために。
だが、それがどれほど薄い防御かは自分でも分かっていた。
監査官が別の画面を開く。
今度は補助制御の更新ログだった。
暁式参号の応答補正、
肩部反応調整、
高負荷時の姿勢補助。
その更新履歴が、冬真の卓ログと薄く重なっている。
「これについては」
監査官が言う。
「説明できますか」
「整備と戦術支援は独立していません」
冬真が答える。
「前線投入機の応答調整について意見を求められることはある」
「通常の範囲で?」
「……」
「通常の範囲で、と問いました」
部屋の空気が少しだけ冷える。
そこまで来ているのだと分かる。
相手はもう、“何かあった”とは思っていない。
“どこまで踏み込んだか”を測りに来ている。
「通常の定義によります」
冬真は言う。
「便利な返答ですね」
中佐が初めて少しだけ皮肉を混ぜた。
「ですが、こちらは定義を曖昧にするためにあなたを呼んだわけではありません」
当然だった。
冬真は机の下で指先を軽く握る。
動揺を表へ出さないための、ほとんど癖みたいな仕草だった。
「榊担当官」
中佐が声を整える。
「現時点であなたを断定的に処罰する証拠はありません」
「……」
「しかし、継続監視と職務範囲の再審査は必要だと判断しています」
「再審査」
「一部アクセス権の制限を含みます」
監査官が言う。
「主支援ラインからの一時的な切り離しも視野に入る」
「……」
その一言だけで、冬真の胸の奥が強く冷えた。
主支援ラインから外される。
それは単なる処分ではない。
澪を守るための位置そのものを奪われるということだ。
「異議は」
中佐が訊く。
ある。
山ほどある。
だがそれを言葉にしても、この場では何も戻らない。
「……現時点では」
冬真は低く言う。
「ありません」
「そうですか」
中佐は端末を閉じた。
そこで話は終わりではないと分かる静けさが、数秒落ちる。
「最後に一つ」
監査官が言った。
「あなたは、守るべき対象を職務の中で誤認していませんか」
「……」
「支援卓が守るのは、特定個人ではなく戦線全体です」
「承知しています」
「本当に?」
「……」
答えられない。
それが一番答えだったかもしれない。
監査官はそれ以上追わなかった。
追わないこと自体が、もう十分に情報を得たという態度だった。
「今日は以上です」
中佐が言う。
「一時的な監視強化措置に従ってください」
「分かりました」
「また呼びます」
「……承知しました」
自動扉が開き、冬真は立ち上がる。
背中を見せた瞬間に呼び止められる気がしたが、何もなかった。
そのことが、逆に重い。
確認室を出る。
廊下はさっきと同じ白さのままだ。
なのに戻る時には、その白さが自分をはじいているように感じた。
ここまで来る前の廊下と、今歩いている廊下は同じはずなのに、もう同じ場所ではない。
自分の立場が、少しだけ確実に削られたからだ。
角を曲がると、すれ違った若い兵士が小さく会釈した。
いつも通りだ。
冬真も無意識に返す。
その何でもないやり取りすら、今は妙に遠く感じる。
管制室の前へ戻ると、自動扉が開くまでにほんの一拍だけ遅延した。
認証再確認。
そんな小さな表示が出る。
それだけで十分だった。
もう始まっている。
中へ入ると、瀬名がこちらを見た。
軽口を叩く時の顔ではない。
「どうだった」
瀬名が訊く。
「想像通りだ」
「つまり最悪寄りだな」
「ああ」
冬真は自席へ向かう。
端末へ触れると、いくつかの権限が灰色になっていた。
深層アクセスの一部制限。
主支援ラインへの直接接続権限保留。
補助制御監視の閲覧のみ許可。
「早」
瀬名が吐く。
「仕事速いな、あいつら」
「……」
「で?」
「主支援から外される可能性がある」
「うわ」
「まだ確定じゃない」
「でも視野には入った」
「そうだ」
瀬名は舌打ちまではしなかったが、かなり近い顔をした。
「ほんとに居場所削ってくるな」
「ああ」
「天城少尉が出るタイミングでそれやるの、最悪すぎる」
「……」
冬真は自席へ座ったまま、灰色になった権限表示を見つめる。
守るための位置。
触れられる範囲。
道を作るための権限。
それらが目の前で少しずつ剥がされていく。
呼び出しの廊下。
あそこを歩いた時点でもう分かっていた。
だがこうして実際に形になると、予想よりずっと重い。
「榊」
瀬名が低く言う。
「なんだ」
「今のうちに会っとけ」
「誰に」
「分かってるくせに」
瀬名はため息をついた。
「天城少尉だよ」
冬真はすぐには返事をしなかった。
会うべきだ。
たぶん。
自分の立場が崩れ始めていることを、澪もそのうち察するだろう。
でも、どう言えばいいのか分からない。
守るための位置が消えかけている。
その事実を伝えることは、澪からまた一つ何かを奪う気がした。
「お前が黙るほど、向こうは自分のせいだと思うぞ」
瀬名が言う。
「……」
「それも分かってるだろ」
「ああ」
「なら、行け」
その時、個人回線が小さく震えた。
送信者:天城澪
冬真は画面を見る。
短い文面が表示される。
――終わった?
――少しだけ、顔見たい
胸の奥が、妙に静かに痛む。
自分の居場所が剥がれ始めているこのタイミングで、
澪はまだ“顔見たい”と言う。
それが救いで、
同時にひどく苦しかった。
冬真は数秒だけ迷ってから、短く返す。
――行く
送信を終えると、瀬名が横目で見た。
「即答じゃん」
「うるさい」
「いや、ちょっと安心した」
「何が」
「まだ、お前がちゃんと人間やってる」
冬真はそれには何も返さなかった。
返せなかったというほうが正しい。
居場所が剥がれる音は、まだ始まったばかりだ。
それでも今、澪が“顔を見たい”と言ったことだけが、
冬真をまだ完全には落とさずにいた。




