第4章 第11話:守るだけでは届かない
守ることと、届くことは違う。
死なせないようにすることと、
その人の隣に立つことも違う。
傷つく前に引き戻すことと、
傷つく怖さごと分け合うことも、やっぱり違う。
人はたぶん、その違いに気づいた時にはもう、
前のやり方へ戻れなくなっている。
相模第七防衛区画の夜は、やけに白かった。
戦術支援管制室の照明はいつも通りなのに、今夜だけはどこか無機質すぎる。端末の光、壁面モニタの明滅、管理AIの確認待ち表示。その全部が、冬真の退路を少しずつ削っていくみたいだった。
榊冬真は、自席で開いたままの通知画面を見ていた。
上層部からの直接呼び出し。
件名は簡潔で、だからこそ重い。
――戦術支援三番卓処理についての確認
――至急出頭
まだ処分とは書かれていない。
拘束とも。
だがそれは、書いていないだけだ。
ここまで来れば、もう形式の違いでしかない。
「来たな」
隣で瀬名が言う。
「ああ」
冬真が答える。
それ以上の会話は、しばらく続かなかった。
続ける意味もなかったのかもしれない。
今日までの処理痕、
敵側の追跡、
暁式参号との相関、
深層介入。
どれも、もう“偶然”や“現場判断”だけでは押し切れない。
「時間、どれくらい稼げる」
冬真が低く訊く。
「ほぼ無理」
瀬名はあっさり言った。
「正確には、もう稼いでる最中だ。お前がここに座ってられる時点でな」
「そうか」
「そうだよ」
瀬名は椅子にもたれたまま、珍しくまっすぐ冬真を見る。
「でも、今ならまだ行ける」
「どこに」
「決まってんだろ」
瀬名は小さく息を吐く。
「天城少尉のとこだよ」
冬真の指先が、端末の縁でわずかに止まる。
「このあと呼び出し行ったら、たぶんすぐには戻れない」
瀬名が続ける。
「なら先に話せる相手、もう一人しかいないだろ」
「……」
「今さら言葉選んでる場合じゃねえよ」
その通りだった。
選んでいる場合じゃない。
だが、だからこそ言葉が出てこない。
これまでずっと隠してきたものを、今さらどう置けばいいのか分からなかった。
その時、個人回線に短い通知が入る。
送信者:天城澪
冬真は一度だけ目を閉じた。
逃げたいわけではない。
でも、このタイミングの良すぎる現実に少しだけ笑いたくなった。
メッセージを開く。
――少しだけ会いたい
――今、来られる?
たったそれだけ。
だが澪もたぶん、上からの動きをどこかで察しているのだろう。
戦場の人間は、空気の変わり方に敏感だ。
冬真は短く返した。
――行く
「ほら」
瀬名が言う。
「珍しく即答」
「うるさい」
「で、今度こそちゃんと行け」
「……」
「半端なまま終わるなよ」
冬真はそれに返事をせず、席を立った。
観測通路へ向かう足音は、妙に大きく聞こえた。
呼び出しの時間は迫っている。
だが今は、そちらより先に行かなければならない場所がある。
防壁寄りの観測通路。
白い機体が見える場所。
最近の二人にとって、そこはもう偶然立ち寄る場所ではなかった。
言えないことを持ち込んで、
でも少しずつ置いていく場所だった。
澪は、手すりの前に立っていた。
格納デッキの奥、整備灯の下に暁式参号が見える。
戦場を抜けた白い機体。
そこへ積み重なった補助制御。
見えない介入。
そして、ようやく共有され始めた秘密。
「来た」
澪が振り向く。
「ああ」
「来てくれると思ってた」
「呼ばれたからな」
「うん」
澪は少しだけ笑う。
「もう、その返しにも慣れた」
今夜の澪は静かだった。
怒っているわけではない。
泣きそうでもない。
でも、ものすごく張っている。
たぶん冬真も同じ顔をしているのだろう。
「上から?」
澪が先に訊く。
「ああ」
「やっぱり」
「まだ確認段階だ」
「でも、軽くはない」
「……ああ」
澪は少しだけ目を伏せた。
その動きだけで、冬真の胸が鈍く痛む。
「私のせいだね」
澪がぽつりと言う。
「違う」
冬真は即座に返す。
「でも私が中心にいた」
「それでも違う」
「冬真」
澪は静かに名前を呼ぶ。
「そこ、もう庇わなくていい」
庇う。
その言葉に、冬真は少しだけ言葉を失う。
「私を守ろうとしてくれたことは分かってる」
澪が続ける。
「嬉しかったことも、本当」
「……」
「でも、その結果こうなってるのも現実でしょ」
「……ああ」
否定はできない。
もう、できないところまで来ている。
「だから」
澪は一歩だけ近づく。
「今日、ちゃんと言いたいことがある」
「なんだ」
「守ってくれたの、嬉しかった」
「……」
「でも、それだけじゃ足りない」
その言葉は、冬真がずっと感じてきたことの答え合わせみたいだった。
守るだけでは届かない。
その感覚を、澪ももう別の言葉で持っている。
「私は」
澪が言う。
「守られるだけじゃ、もう嫌」
「……」
「それは前にも言った」
「ああ」
「でも今日は、その続き」
澪はまっすぐ冬真を見る。
「隣に来て」
冬真の呼吸が、そこで一瞬だけ止まる。
「何を」
分かっているのに、そんな返ししかできない。
「分かってるでしょ」
澪は少しだけ困ったように笑う。
「戦場で全部隣に立てるとか、そういう綺麗な話じゃないよ」
「……」
「でも、私だけ見て、私だけ守って、一人で壊れていくのは違う」
「……」
「私にもちゃんと届いて」
その言葉は告白ではない。
だが、告白よりもっと深い場所に触れている気がした。
守ってくれて嬉しい。
でも、それだけじゃ足りない。
一人で決めないで。
隣に来て。
届いて。
冬真はそれに、すぐには返せない。
「……俺は」
ようやく言葉を探す。
「お前を死なせたくなかった」
「うん」
「それだけで、かなりのことを決めてきた」
「うん」
「それが間違いじゃないと思ってた」
「分かる」
「でも、多分」
冬真は一度だけ息を吐く。
「それだと、お前には届いてなかった」
澪はゆっくり頷いた。
「届いてたよ」
澪が静かに言う。
「生きて戻れた」
「……」
「怖い時、冬真がいるって思えた」
「……」
「でも、心までは半分しか届いてなかった」
そこで少しだけ澪の目が揺れる。
「だって一番大事なところ、いつも言わないから」
冬真は喉の奥がつまる。
言えない。
言えば崩れると思っていた。
でも今は、言わないままではもう届かないのだと分かっている。
「……怖い」
気づけば、そんな言葉が零れていた。
澪が少しだけ目を見開く。
たぶん冬真がこういうふうに、感情そのものを言葉にするのは珍しいのだろう。
「何が?」
澪が小さく訊く。
「お前を守れなくなるのも」
「……」
「お前に全部見せるのも」
「……」
「どっちも怖い」
それが今の本音だった。
澪はしばらく黙ってから、やわらかく息を吐く。
「そっか」
「……」
「じゃあ、やっと同じだね」
「何が」
「私も怖い」
澪は言う。
「前に出るのも、冬真がいなくなるかもって思うのも、全部怖い」
「……」
「でも、それでも一緒のほうがいい」
その言い方に、冬真は目を逸らせなくなる。
「守るだけでは、もう届かない」
澪が静かに続ける。
「だったら次は、ちゃんと届いて」
「……」
「私も、ちゃんと届くようにするから」
その瞬間、冬真の中で何かが静かにずれる。
今まで“守る側”と“守られる側”で固定されていたものが、少しだけ形を変える。
澪はもう、守られるだけの位置に戻る気がない。
冬真もまた、守るだけで済ませる気ではいられない。
それはきっと、今までよりずっと危うい。
でも同時に、今までより少しだけ正しい気もした。
「……分かった」
冬真が低く言う。
「何が」
「守るだけで終わらせない」
「うん」
「でも、すぐに上手くできるかは分からない」
「それでいい」
澪は頷く。
「最初から完璧じゃなくていい」
「……」
「逃げないでくれれば」
そこまで言われて、冬真は少しだけ笑いそうになった。
ひどく小さく、苦い笑いだ。
「難しいな」
「知ってる」
「お前、いつも無茶言う」
「冬真もだよ」
ほんの数秒だけ、空気がやわらぐ。
だが次の瞬間、冬真の端末がまた短く震えた。
上層部からの再通知。
時間指定付き。
猶予は、もうほとんどない。
澪もそれに気づいた。
目が少しだけ細くなる。
「行かなきゃ」
澪が言う。
「ああ」
「戻ってこれる?」
「……分からない」
冬真は正直に答える。
「そっか」
澪は一度だけ目を伏せる。
でもすぐに顔を上げた。
「じゃあ、戻ってこれるようにして」
「無茶言うな」
「うん。でも、言う」
澪は少しだけ笑う。
「私、待つから」
待つ。
その一言が、ひどく重い。
けれど同時に、それは確かな支えでもあった。
「冬真」
「なんだ」
「守ってくれたこと、ほんとに嬉しかった」
「……」
「でも次は、ちゃんと隣に来て」
「……ああ」
今度は、自然に返事が出た。
「努力する、じゃないんだ」
「そこは、ああでいい気がした」
「うん」
澪はやわらかく笑う。
「今のは、届いた」
その言葉で、冬真の胸の奥が少しだけ熱を持つ。
まだ何も解決していない。
処分も、調査も、敵の追跡も残っている。
でも今だけは、たしかに一つ届いたのだと思えた。
「行ってくる」
冬真が言う。
「うん」
「お前は」
「ちゃんと待つ」
「そうか」
「逃げないでね」
「……善処する」
「そこはまた逃げてる」
「知ってる」
少しだけ笑い合う。
そのやり取りは軽いのに、下にあるものは決して軽くない。
澪は最後に一歩だけ近づいた。
触れるほどではない。
でも今までで一番近い距離だった。
「おやすみ、じゃないね」
澪が言う。
「ああ」
「いってらっしゃい」
「……ああ」
冬真はそれ以上何も言えず、観測通路を後にした。
背中にまだ澪の視線を感じる。
守ってくれて嬉しかった。
でも、それだけじゃ足りない。
次は隣に来て。
ちゃんと届いて。
その全部を抱えたまま、
冬真は上層部の待つ白い廊下へ向かう。
守るだけでは届かない。
その言葉はもう、苦しいだけの真実ではなかった。
届くために変わらなければならない。
その始まりの痛みとして、
今は胸の中に静かに残っていた。




