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きみを守るのは、ぼくの知られない戦争  作者: 最後に残った形


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第4章 第10話:隠せない名前


 名前は、呼ばれた瞬間に形を持つ。


 それまで曖昧だったものが、

 輪郭だけだった感情が、

 誰のものか分からなかった行為が、

 名前を与えられた途端に現実になる。


 だから人は、ときどき最後の最後まで呼ばない。

 呼んでしまえば、もう戻れないからだ。


 相模第七防衛区画の夜は、戦果報告より先に監視ログを深くする。


 即応制圧任務の終了から数時間。

 基地中央の大型スクリーンでは、今日もまた“先鋒の奮戦”と“局地戦の押し返し成功”が簡潔に流されていた。表向きには十分に勝ちの形を作れている。市民も兵士も、それを見て少しだけ息をつくだろう。


 だが、その裏側では別の名前のないものが急速に形を持ち始めていた。


 榊冬真は戦術支援管制室の自席で、端末に並ぶ警告表示を無言で見ていた。


 承認外深層接触。

 処理源局所特定率上昇。

 多重優先処理異常判定。

 補助制御連動の不自然な偏り。

 正式調査対象候補。


 どれも今までに見たことがないわけではない。

 だが今日のそれらは、明らかに一段階先へ進んでいる。

 もう“やりすぎた支援卓”ではない。

 “誰かが意図してやっている”という前提で並んだ文面だ。


「来たな」

 瀬名が低く言う。

「ああ」

 冬真は答える。


 瀬名の机にも別窓が開いていた。

 管理AIの再確認要求、

 処理時系列との照合、

 補助回線使用履歴の洗い出し。

 そして一番厄介なのが、冬真の卓ログと暁式参号の挙動補正ログの相関だ。


「もう誤差では逃げられねえ」

 瀬名が言う。

「……」

「お前の卓と白い機体の動き、今日の局面で噛み合いすぎてる」

「分かってる」

「しかも敵も“近い”まで来てる」

「……ああ」


 冬真は別窓に出していた敵断片通信を見る。


 ――捕捉域収束

 ――近傍支援源

 ――継続追跡


 敵も味方も、もう同じ方向を向き始めている。

 見えない守護者。

 局地介入型支援者。

 その輪郭が、かなり狭まってきている。


「一個だけ言っとく」

 瀬名が椅子を少し回してこちらを向く。

「なんだ」

「俺、多少は時間稼げる」

「……」

「でも無限じゃない」

「分かってる」

「だからその台詞――」

 そこで瀬名は小さく息を吐いた。

「いや、もういい。とにかく、今夜のうちに来るぞ」

「何が」

「天城少尉」


 冬真の視線が、ようやく瀬名へ向く。


「何でそう思う」

「お前、ほんとそこだけ鈍いな」

 瀬名が呆れる。

「今日の最後、聞いただろ」

「……」

「“冬真”って落ちたやつ」

「ノイズだ」

「往生際悪いな」


 瀬名は机の端を軽く叩いた。


「天城少尉、もう確信してる」

「……」

「で、今日の局面見たあとで黙ってるほど器用でもない」

「……」

「つまり来る」


 その予想は、嫌になるほど正しい気がした。


 澪はここ数話ずっと、沈黙の形で答えを受け取ってきた。

 だが今日の戦場は、その沈黙さえほとんど意味を失う場所だった。

 あの死線を半歩ずらしたものが誰なのか。

 澪はもう、心の中では名前にしているのだろう。


 その時、個人回線が震えた。


 送信者:天城澪


 瀬名が「あーあ」と小さく言う。

 冬真は何も返さず通知を開く。


 ――今、少しだけ会える?


 短い。

 いつもと同じようで、今日だけは決定的に違う。

 もう探るための文面ではない。

 確かめるための文面だ。


 冬真は数秒だけ画面を見つめ、それから返した。


 ――どこだ


 返信はすぐに来た。


 ――観測通路

 ――白い機体が見えるところ


「ほらな」

 瀬名が言う。

「……」

「行ってこい」

「今の状況でか」

「今の状況だからだよ」

 瀬名は珍しく真顔だった。

「ここで逃げたら、お前たぶん一生後悔する」

「……」

「あと、上の呼び出しもたぶんそのうち来る。その前に話せるなら話しとけ」


 冬真はそれに返事をしなかった。

 だが席を立った時点で、答えにはなっていた。


 観測通路へ向かう足取りは、自分でも驚くほど静かだった。

 急いでいるわけではない。

 けれど遅くもない。

 逃げたい気持ちと、もう逃げられないと分かっている気持ちが、ちょうど打ち消し合っている速度だった。


 白い機体が見える通路。

 最近、二人が何度も立った場所。

 そこで交わされた会話のほとんどが、結局は一つのものへ近づくための遠回りだったのだと、今なら分かる。


 通路の端に、澪は立っていた。


 格納デッキを見下ろす手すりの前。

 白い暁式参号が遠くで固定台に乗っている。

 整備灯の下、その白さは夜ほど冷たく見える。


 澪は振り向かなかった。

 冬真が近づいて、数歩手前で止まったところで、ようやく小さく言う。


「来た」

「ああ」

「来ると思った」

「呼ばれたからな」

「うん」


 声は静かだった。

 怒っているわけではない。

 でも、今日はもう逃がさない、という種類の静けさだった。


「何の話だ」

 冬真が言う。

「それ、まだ聞くんだ」

 澪が少しだけ笑う。

 でもその笑みはすぐ消えた。


「今日」

 澪が言う。

「私、名前呼んだと思う」

「……」

「声に出たかどうかは分かんない」

「……」

「でも、呼んだ」


 冬真は何も言えない。


 観測通路の外、防壁上の警戒灯が赤く明滅している。

 その光が一定間隔で、澪の横顔を薄く染めては消えた。


「やっぱり、あなただった」

 澪が静かに言う。


 断定だった。

 問いではない。

 もう澪の中では、それが現実として置かれている声だった。


 冬真の喉が少しだけ詰まる。

 否定することはできる。

 まだできる。

 でもそれをここでやれば、たぶん本当に何かが壊れる。


「……」

 沈黙が落ちる。

 長いようでいて、たぶん数秒しか経っていない。


「否定しないんだ」

 澪が言う。

「できない」

 冬真はようやくそれだけ答えた。


 それで十分だった。

 十分すぎた。


 澪は少しだけ目を閉じ、それからゆっくり息を吐く。

 怒りでも、安心でも、悲しみでもない。

 たぶんその全部が混じった息だった。


「そっか」

 澪が言う。

「ほんとに、そうなんだ」


 冬真は手すりの向こうの白い機体を見た。

 あそこに手を入れてきた。

 あの戦場へ道を作ってきた。

 その全部が、今ようやく名前を持とうとしている。


「言えなかった」

 冬真が低く言う。

「うん」

「言った瞬間、終わる気がした」

「何が」

「色々だ」

 言ってから、自分でも曖昧すぎると思う。

 だがそれ以上うまく言葉にできなかった。


 澪はそれを責めなかった。

 責めずに、ただまっすぐ受け取る。


「言ってほしかった」

 静かにそう言う。

「……」

「でも、言えなかったのも分かる」

「……」

「分かるけど、やっぱり痛い」


 その言葉は優しいのに厳しい。

 そして冬真にとっては、そのどちらでもあるのが一番苦しい。


「お前を守るためだった」

 冬真が言う。

「うん」

「他にやり方がなかった」

「うん」

「少なくとも、俺にはそう見えた」

「うん」


 澪は全部頷く。

 肯定しているわけではない。

 でも全部を切り捨てもしない。

 そういう聞き方をする。


「守ってくれたの、分かる」

 澪が言う。

「戻れたこと、多分何回もあった」

「……」

「機体のことも、戦場の違和感も、今日のあれも」

「……」

「全部つながった」


 つながった。

 その言い方が、今までの話数全部を一つに束ねるみたいに重い。


「冬真」

「なんだ」

「ありがとう」

 その一言に、冬真は少しだけ目を見開く。


 責められると思っていた。

 怒られるとも。

 もちろんその気配もある。

 でも最初に来たのが礼だったことで、かえって息が苦しくなる。


「……礼を言われることじゃない」

「言うよ」

 澪は即答した。

「だって、生きてる」

「……」

「それはたぶん、冬真が何度も引っ張ってくれたから」


 胸の奥が熱くなる。

 けれど同時に、それを受け取る資格が自分にあるのか分からなくなる。

 守った。

 でもそのために嘘も沈黙も重ねてきた。

 澪を外側へ置いたまま、勝手に背負ってきた。


「でも」

 澪が続ける。

「嬉しいだけじゃない」

「……」

「やっぱり痛い」

「何が」

「一人でやってたこと」

 澪は少しだけ視線を落とす。

「私に言わないまま、危ないことしてたこと」

「……」

「それで、壊れかけてたこと」


 冬真は否定しようとして、やめた。

 今ここで壊れていないふりをしても意味がない。

 澪はもう、その表面だけじゃなく、そこにある消耗まで見ようとしている。


「……言えなかった」

 冬真はもう一度言う。

「お前まで巻き込みたくなかった」

「もう巻き込まれてる」

 澪が静かに返す。

「うん」

「だから、そこを置いていかれるのが一番つらかった」


 その言葉は、今まで何度も別の形で聞いてきた。

 守られるだけじゃ嫌だ。

 一緒に背負いたい。

 隣にいたい。


 その全部が、今日ここでさらに明確な形を持っている。


「冬真」

「なんだ」

「私、怒ってる」

「知ってる」

「でも、安心もしてる」

「……」

「やっと、ちゃんと答えがあったから」


 答え。

 たしかにそうだ。

 今日のこれは告白ではない。

 でも、答えではある。

 “見えない守り手”が誰だったのか。

 それだけはもう、二人のあいだで揺らがない。


「これで終わりじゃない」

 澪が言う。

「終われない」

「ああ」

「だって、敵も味方ももう近い」

「……」

「冬真の立場も危ない」

「……ああ」


 その現実だけは、優しい言葉では覆えない。

 端末に残る処理痕、

 管理AIの再確認、

 敵の近傍支援源追跡。

 全部が同時に迫っている。


「それでも」

 澪が冬真を見る。

「私、今すぐ全部聞くつもりはない」

「……」

「でも、隠し切れると思わないで」

「分かってる」

「あと」

 そこで少しだけ言葉を止める。

「次からは、一人で決めないで」


 その願いは前から聞いていた。

 でも今日は、それがもっと重い。

 事実を知ったうえで、それでもまだ“隣に入れろ”と言っているからだ。


「……できるか分からない」

 冬真は正直に言う。

「うん」

 澪も頷く。

「私も、どうすればいいか全部は分かんない」

「……」

「でも、分かんないなら分かんないって、せめてそこは言って」


 冬真は答えない。

 その代わり、澪の視線から目を逸らさなかった。

 それが今の自分にできる、ぎりぎりの誠実さだった。


「ねえ」

 澪が少しだけ声を落とす。

「今日、私が名前呼んだの聞こえた?」

「……多分」

「そっか」

「……」

「じゃあ、もう誤魔化さなくていいね」


 その言い方は、少しだけ寂しくて、でも少しだけ救いでもあった。


 隠せない名前。

 それは冬真自身の名前でもあり、

 澪が戦場で呼んでしまった心の位置でもある。


「嬉しかった?」

 不意に澪が訊く。

「何が」

「私が分かったこと」

「……」

 冬真は答えに詰まる。


 嬉しい。

 でもそれ以上に怖い。

 そして、怖いのに少し救われてもいる。

 そういう感情だった。


「答えにくい顔してる」

 澪が少しだけ笑う。

「そういうとこ、昔から変わんない」

「お前もだ」

「私?」

「踏み込み方が容赦ない」

「今さらだよ」


 少しだけ笑い合う。

 その数秒だけ、昔の空気に似ていた。

 でもその下にあるものは、もう昔とはまるで違う。


 そのとき、冬真の端末に新しい通知が入った。

 短いが重い、軍用の優先着信音。


 送信元を見て、冬真の表情がほんの少し固まる。


「……来た?」

 澪が訊く。

「ああ」

「上?」

「多分な」


 正式調査か、追加確認か、あるいは直接の呼び出しか。

 どちらにせよ、もう猶予は長くない。


 澪はその画面を見てから、冬真の顔を見た。

 その一瞬で、彼女の目の奥に痛みと覚悟が同時に入るのが分かった。


「逃げないで」

 澪が静かに言う。

「……」

「私も逃げないから」


 前にも聞いた言葉だった。

 だが今は、もっと深く届く。


「……ああ」

 冬真は短く答える。

「分かった」

「ほんとに?」

「努力する」

「まだ逃げてる」

 澪は小さく笑う。

「でも、前よりまし」


 その言い方に、冬真も少しだけ息を吐く。


 たぶん今夜は、これ以上は進めない。

 現実がもう来ている。

 上層部の呼び出しも、

 敵の追跡も、

 白い機体の周辺に漂う危険も、

 全部が次を待っている。


「今日は、これでいい」

 澪が言う。

「ああ」

「でも次は、もう少しちゃんと話す」

「……」

「守ってくれてたことも、そのせいで苦しかったことも、まだ半分しか言えてない」

「そうか」

「うん。だから次」


 次。

 その言葉があるだけで、少しだけ救われる。

 たとえ現実がその“次”を簡単に許さないとしても。


「おやすみ」

 澪が言う。

「ああ」

「呼ばれたら行って」

「分かってる」

「でも、戻ってきて」

「……努力する」

「そこは“ああ”でいいでしょ」

「無茶言うな」

「知ってる」


 最後に澪は少しだけ笑った。

 その笑い方は、痛みのあとに残る本音の顔だった。


 冬真はその背中を見送りながら、端末の呼び出し表示をもう一度見た。

 まだ決定的な通知文面は開いていない。

 だが、来るべきものが来たのだとはもう分かる。


 隠せない名前。

 守っていた人間の名前。

 戦場で呼ばれてしまった名前。

 そしてたぶん、これから暴かれていく影の名前。


 その全部を抱えたまま、

 冬真は観測通路の白い光の中に立ち尽くしていた。


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