第1章 第4話:英雄の帰還
帰還した英雄を迎える歓声は、前線より少し遅れて届く。
相模第七防衛区画の機体搬入デッキは、いつも油と焼けた金属の匂いが混ざっている。整備用アームの駆動音、冷却蒸気の白い噴き出し、負傷機の搬送音。戦場から戻ってくるものが無傷であることのほうが少ない場所だ。
その日も例外じゃなかった。
暁式参号が搬入されると同時に、現場の空気がわずかに変わる。白い装甲の左肩は焼け、右脚部には細かな被弾痕が走っている。それでもコクピットは保たれ、機体フレームの歪みも致命的ではない。生還としては上等な部類だった。
「天城少尉、戻りました!」
「やったな、先鋒!」
「よくあれで帰ってきた……!」
整備員や補給兵の声が飛ぶ。拍手まではない。ここはそんなに余裕のある場所じゃない。けれど、その場の誰もが澪の帰還を歓迎しているのは分かった。
白い機体のハッチが開く。
天城澪が、まだ熱の残るコクピットから身を乗り出した。額に汗を滲ませ、髪は少し乱れている。それでも目だけは前を見たままだった。緊張の糸が切れていない顔だ。生きて帰ってきたことに安堵する前に、まだ戦場の続きを考えている目。
「少尉、怪我は!?」
「大丈夫、かすり傷。先に三番機見て、脚やられてたはず」
「は、はい!」
降り立った直後に自分より僚機を優先するあたり、相変わらずだった。周囲が英雄として持ち上げれば持ち上げるほど、澪自身はますます前へ出ようとする。期待を背負うことに慣れてしまっている。
搬入デッキの少し離れた場所、ガラス越しの観測通路から、榊冬真はその様子を見ていた。
戦術支援管制室から移動し、暫定ログの確認と戦闘記録の引き継ぎのためにここへ来ている。表向きの理由はそれで十分だった。実際、それは必要な仕事だ。戦場で起きたことを後方が整理し、次の戦いへ反映する。誰も見なくても、誰かがやらなきゃいけない。
そのついでに、澪が生きて戻った姿を自分の目で確認できる。
ついで、のはずだった。
「……すごい顔で見てるな」
隣から声がした。瀬名だった。紙端末を片手に、いつもの気の抜けた顔で寄りかかっている。
「見てない」
「その返し、そろそろ無理あるぞ」
冬真は何も言わず、ガラスの向こうへ視線を戻した。
澪は整備班に囲まれながら、機体損傷の報告をしている。身振りは少なく、言葉は簡潔だ。戦場に出る人間の報告は大抵そうなる。余計な感情を削って、必要なことだけ残す。そのほうが次に繋がるからだ。
だが冬真には分かる。
あの肩の力の入り方は、まだ抜けきっていない。
声の僅かな硬さは、限界まで集中していた証拠だ。
澪は表情を崩すのが上手い。だから余計に、崩れていないことの意味が見える。
「さっきの戦闘、報告もう上がってる」
瀬名が紙端末を軽く振る。
「司令卓は“戦術支援の迅速な対応が生還率を高めた可能性あり”だとさ」
「曖昧だな」
「曖昧にしかできないんだろ。明確に書くと困るやつがいるから」
その言い方に、冬真はほんの少しだけ眉を寄せた。
ログは処理済みだ。照準誤差も、中継遅延も、表向きは“複合要因による一時的変動”に落としてある。完全ではない。解析する人間が本気を出せば、どこかで不自然さに気づく可能性はある。だが少なくとも今すぐ、誰かが冬真の机を叩きに来る様子はなかった。
「助かった、でいいだろ」
瀬名が言う。
「……ああ」
「それ以上の顔すんなって」
助かった。
その事実だけで十分なはずだった。十分でなければ困る。守れたかどうか、それだけが重要で、感謝される必要も知られる必要もない。そう決めてきた。
それでもガラスの向こうで澪が生きて立っているのを見て、胸の奥に詰まっていたものが少しだけ緩むのを、冬真は否定できなかった。
搬入デッキでは、上官らしい男が澪の前に立っていた。中隊副官の黒瀬だ。年は三十前後、前線指揮官らしい鋭い目つきの男で、兵たちからの信頼も厚い。
「よく戻った、天城少尉」
「はい」
「先鋒として十分な働きだった。包囲下であの立て直しは見事だ」
「……ありがとうございます」
澪は敬礼を返す。簡潔で綺麗な動きだった。
周囲の兵たちも頷く。賞賛は、彼女に向けられて当然だった。実際、澪はそれに値する働きをしている。冬真がいくら裏でずらそうと、最後にあの場を生き抜くのは澪自身だ。彼女が弱ければ、いくら回線を弄っても意味がない。
だから英雄と呼ばれること自体は間違っていない。
ただ、その英雄の背後に落ちる影を、誰も見ないだけだ。
冬真は視線を下ろし、手元の端末で戦闘ログを開いた。暁式参号、肩部装甲損傷。右脚部外殻被弾。操縦系応答正常。パイロット生体値、一時上昇後安定。文字列になれば、さっきまでの死にかけた時間がやけに薄い。
「榊」
「なんだ」
「行かないのか」
「どこに」
「下。英雄様の帰還祝い」
冬真は端的に答えた。
「必要ない」
「必要ないのはそうかもな。でも、行きたいんじゃなくて?」
「違う」
「即答だなあ」
瀬名は苦笑したが、無理に押さなかった。
ガラスの向こうで、澪がふとこちらを見た気がした。正確には、観測通路のほうへ目を向けた。人の気配に反応しただけかもしれない。それでも冬真は反射的に一歩、柱の陰へ寄る。
「逃げるのかよ」
瀬名が呆れたように言う。
「仕事だ」
「便利な言葉だな、それ」
逃げている自覚はあった。
会えば、何か言ってしまいそうになる。
よく戻った、とか。
無茶するな、とか。
今のルートは危なかった、とか。
そんなことを口にすれば、普通の後方担当の範囲を越える。どこまで見えていたのか、どうして分かるのか。澪はたぶん、そこまで不器用じゃない。違和感を違和感のまま見逃してくれるほど鈍くもない。
だから距離を取る。
それが安全で、正しくて、面倒がない。
そう思うほど、胸の奥の何かはじりじり痛んだ。
搬入デッキのざわめきが少し落ち着いた頃、澪は整備班から解放され、補給テーブルの方へ移動した。紙カップの水を受け取り、一口飲む。肩を回す仕草だけ、ようやく人間らしい疲労が見えた。
その瞬間、冬真の足が止まる。
会話をするなら、たぶん今しかない。
周囲の目も、さっきほど集中していない。
理屈より先に、体が半歩動いた。
「お」
瀬名が面白そうに声を漏らす。
「……何も言うな」
「言わない言わない。頑張れ、幼馴染」
冬真は舌打ちしそうになるのを堪えて、観測通路の階段を下りた。
搬入デッキの床に近づくと、熱気と油の匂いが濃くなる。整備灯の白い光が装甲面に反射し、機械音が足元から響く。さっきまで戦っていた機体の熱が、まだ空気に残っていた。
澪は紙カップを手にしたまま、冬真に気づいて目を丸くした。
「……あ」
「怪我は」
自分でも驚くほど、第一声がそれだった。
「いきなりそれ?」
「質問に答えろ」
「大丈夫。ほんとにかすり傷」
「ほんとか」
「ほんと」
澪は少し笑った。疲れているはずなのに、その笑い方だけは昔と変わらない。
「そういうとこ、やっぱり冬真だね」
「軍でその呼び方は」
「今さら?」
悪びれず言う。冬真は返せなかった。
間近で見ると、澪の頬にはうっすら煤がついている。額の汗も乾ききっていない。英雄として持ち上げられていた数分前より、ずっと生身だった。
「……さっき」
澪が、少しだけ声を落とす。
「助かったよ」
「お前が避けたからだ」
「うん、まあ、そうなんだけど」
言いよどむ。
冬真はその先を聞きたくないと思った。聞けば、答えを濁さなきゃいけなくなる。
「なんか、変な感じした」
やっぱり言った。
「変?」
「うまく言えないんだけど。道を教えられたみたいな……押された、っていうか」
「気のせいだ」
「早いなあ、否定」
澪は紙カップを指先で回しながら、少しだけ考えるように目を細めた。
「でも、ほんとにそんな感じだったんだよ。自分で避けたのに、自分一人だけじゃなかったみたいな」
「戦場で変な感覚なんて珍しくない」
「そうだけど」
冬真は言葉を切る。これ以上この話題を続けさせるべきじゃない。
「戻って報告しろ」
「冷たい」
「任務中だろ」
「終わったよ、一応」
「次がある」
「……それはそう」
澪は肩を竦め、それから一歩だけ近づいた。大した距離じゃない。けれど冬真には、それだけで息が詰まる。
「でも、来てくれた」
「確認だ」
「私の?」
「機体の状態も含めて」
「ふーん」
明らかに信じていない顔だった。
澪は昔からこういうところがある。相手の言葉より、言い方や視線のほうを見てくる。表面だけ取り繕っても、案外ごまかせない。
「昔なら」
澪がぽつりと言う。
「真っ先に無茶するなって怒ったのに」
「今のお前には、俺が言うまでもない」
「それ、褒めてる?」
「事実だ」
「なんか寂しいな、それ」
その一言は、冗談みたいに軽く言われたのに、妙に重く残った。
冬真は答えに詰まる。
昔なら、もっと近かった。
怒る資格も、止める権利も、自分にある気がしていた。
けれど今の澪は、皆の前に立つ人間だ。自分だけが知っている幼馴染ではいられない。
その距離を、冬真自身が一番強く引いている。
「……死ぬな」
口をついて出たのは、それだった。
澪が瞬きをする。
「え?」
「今日みたいな動き、次も通るとは限らない」
「それ、心配してくれてる?」
「当然だろ」
「へえ」
澪は少しだけ笑って、それから目を細めた。
「やっと、いつもの冬真っぽいこと言った」
「……そうか」
「うん。なんか安心した」
安心。
その言葉が胸のどこかへ静かに沈む。
自分は、安心させる側でいたいのかもしれない。表に立つことも、感謝されることもいらない。ただ澪が、知らないところで守られていると気づかないままでも、安心して前を向けるならそれでいい。
そう思ってきた。
でも今こうして顔を見ていると、その考えはどこかでずれていく。
「ねえ、冬真」
「なんだ」
「さっきの戦闘、見てた?」
「仕事だ」
「それ答えになってない」
「見てた」
「そっか」
澪の目が少しだけ和らぐ。
「じゃあ、ちゃんと戻ってきたのも見てくれたんだ」
「……ああ」
「よかった」
それだけ言って、澪は紙カップを持ち直した。ほんの短い会話なのに、その“よかった”には色んな意味が混ざっているように思えた。無事に帰ってきたこと。見てもらえたこと。昔の繋がりが、完全には切れていないこと。
冬真は何も返せない。
返した瞬間、抱えているものが零れそうだった。
「天城少尉」
後ろから声が飛ぶ。
黒瀬副官だった。
「報告書の確認がある。五分後に作戦室へ」
「了解です」
澪が振り返って答える。もう一度、英雄の顔に戻る。疲労を押し込み、前へ立つ人間の表情だった。
「ごめん、行かなきゃ」
「そうしろ」
「……またそんな言い方」
「何だ」
「別に。ほんと、変わったよね」
「変わらないと死ぬ」
反射みたいに出た言葉だった。
澪は少しだけ黙る。
それから、思っていたよりずっと真面目な声で言った。
「そっか。……でも私は、変わってないとこもあるって思うよ」
「……」
冬真は答えなかった。答えられなかった。
澪は小さく笑って、今度こそ踵を返す。数歩進んでから、思い出したみたいに振り向いた。
「冬真」
「なんだ」
「ちゃんと、ありがとう」
それは戦闘を見ていてくれたことへの礼なのか。
心配してくれたことへの礼なのか。
それとも、本人も分からない何かへの礼なのか。
冬真には判別できない。
できないまま、ただ一つだけ確かなのは、その言葉を受け取る資格が自分にあるのかどうか、分からないということだった。
「……気にするな」
結局、それしか言えない。
澪は少し困ったように笑って、作戦室へ向かった。
その背中を見送ってから、冬真はしばらく動けなかった。
「だいぶ頑張ったじゃないか」
いつの間にか戻ってきていた瀬名が、後ろから声をかける。
「盗み聞きか」
「聞こえる位置で喋るからだろ」
「最悪だな」
「お互いさま」
瀬名は冬真の隣に立って、澪が去った方向を見た。
「英雄様、ちゃんとお前のこと見てるな」
「関係ない」
「ないことにしたい、の間違いじゃなく?」
図星を突くような言い方だった。冬真は沈黙で返す。
搬入デッキでは、整備班が暁式参号の損傷箇所を確認していた。左肩部装甲が開かれ、内部配線が露出している。あのとき照準がずれていなければ、そこでは済まなかった。
冬真の視線が自然と、その傷へ吸われる。
「ログ処理、まだ残ってるぞ」
瀬名が言う。
「分かってる」
「じゃあ戻るか」
「ああ」
二人で通路へ戻りかけた、そのとき。
冬真の端末が短く震えた。
自動同期された戦後解析の追加通知。
何気なく開いた画面に、一行だけ新しいメモが加わっている。
敵側通信反応:不明ノイズ介入を検出
対象:先鋒隊交戦圏周辺
評価:要継続観測
冬真の足が止まる。
瀬名も横から覗き込み、小さく舌打ちした。
「早いな、向こう」
「ああ」
「一回でそこまで拾うかよ」
「拾うやつは拾う」
楽観はしていなかった。
だが現実に文字として出されると、別の重さがある。
敵は偶然だと思っていない。
誰かがいると、見始めている。
ガラスの向こうでは、暁式参号の白い装甲が整備灯に照らされている。その姿は傷だらけなのに、まだ十分に綺麗だった。壊れていない。守れた結果が、そこにある。
なら、後悔はないはずだった。
それでも冬真は端末を握る手に、知らないうち力が入っているのを感じた。
「榊」
瀬名が珍しく真面目な声を出す。
「次、同じことやるなら、もっと綺麗にやれ」
「命令か」
「助言だよ。お前、バレるときは雑な感情からバレそうだから」
冬真はほんの少しだけ息を吐いた。
「善処する」
「しろ。あと」
「なんだ」
「英雄様に礼言われてるときの顔、見ものだった」
「殴るぞ」
「やめとけ、今なら俺が勝つ」
そう言って瀬名は先に歩き出す。軽口で空気を薄めようとしているのが分かった。
冬真はもう一度だけ、整備中の暁式参号を見た。
白い機体。
焼けた肩。
それでも無事なコクピット。
知られなくていい。
それで生きていけるなら。
そう思う一方で、さっき澪が言った“ありがとう”が、まだ胸のどこかに残っていた。
誰に向けられた礼なのか分からないまま、
受け取ってはいけないものみたいに、静かに。
冬真は視線を切り、通路へ戻る。
その背後で、整備アームが暁式参号の肩装甲を外す金属音が、やけに大きく響いた。




