第4章 第8話:追いつけない背中
怒りのあとに残るものは、たいてい正しさじゃない。
言い過ぎた言葉の熱と、
言えなかった本音の重さと、
それでも相手を目で追ってしまう、どうしようもない未練だ。
人はそこで初めて、自分が何に追いつけていないのかを知る。
相模第七防衛区画の朝は、ひどく静かだった。
静かというより、皆が必要以上に喋らないだけだ。夜のうちにまとめられた緊急前線任務が、まだ基地全体に薄く張りついている。昨日の口論の余熱は冬真の中に残ったままだが、戦争はそれを冷ます時間をくれない。管制室の壁面モニタでは、北部戦線の局地圧迫ラインがすでに点灯し、前線要員の出撃準備が淡々と進んでいた。
榊冬真は、自席の前で立ったままその戦域図を見ていた。
今日の任務は大規模殲滅作戦の残滓ではない。
その直後に発生した、敵残存集積点への即応制圧だ。
本来なら再編してから動くべき規模ではある。
だが敵が後退ではなく局地圧縮へ切り替えてきた以上、放置もできない。
その“仕方のなさ”の中に、また澪の名前がある。
「最悪のタイミングだな」
瀬名が低く言う。
「……ああ」
冬真は短く返した。
モニタ上では先鋒候補として暁式参号が前へ置かれている。
高機動、即応、局地突破。
必要な条件を並べれば、また澪に行き着く。
何もおかしくない。
何も間違っていない。
だからこそ、昨日の口論のあとに見るにはきつすぎた。
「天城少尉、もう出撃前待機入ってる」
瀬名が言う。
「知ってる」
「その声でよく言うよ」
「……」
「追いかけるか?」
「何を」
「背中」
瀬名が椅子を半分回し、冬真を見る。
「昨日あれだけぶつかって、今日そのまま見送るの、かなり胃に悪いぞ」
胃に悪い。
その通りだ。
だが今の冬真には、澪へ会いに行く理由も言葉も整っていない。
昨日、自分は何一つ答えを出せなかった。
守るだけじゃ足りないと分かっていながら、その先を何も言えなかった。
「仕事がある」
冬真が言う。
「出たよ」
瀬名が呆れたように息を吐く。
「でもまあ、そう言うしかないか」
そのとき、発進デッキのライブ映像が壁面モニタへ映る。
白い暁式参号が補助灯の下に立っていた。
その脇で整備班が最終確認を終え、接続ケーブルが外される。
そして、コクピット側ハッチが閉じる。
澪はもう行く。
何か言う時間はない。
いや、正確には、今さら何か言ったところで間に合わない。
だから冬真は、ただ視線だけを発進デッキへ固定した。
「ほら」
瀬名が言う。
「結局見てる」
「仕事だ」
「それ、もう言わなくていいって」
発進。
識別灯展開。
白い暁式参号が先頭で戦域図へ滑り込む。
『先鋒、進入開始』
『外縁監視、敵残存群を確認』
『天城少尉、右中層より圧縮反応あり』
澪の声が入る。
『了解。前で崩す』
短い。
迷いがない。
昨日、守られるだけじゃ嫌だと怒った人間の声とは思えないほど、前線の顔へ綺麗に戻っている。
それが誇らしくて、ひどく苦しい。
「感情で見るなよ」
瀬名が低く言う。
「死ぬぞ」
「……分かってる」
「その返しも飽きたな」
瀬名は小さく息を吐く。
「でも、ほんとにやめろ。昨日の今日で、お前の視界かなり狭い」
視界が狭い。
それも事実だった。
戦域図全体を見ようとしても、どうしても暁式参号の白い識別灯へ目が引かれる。
他の僚機、外縁の中継、敵残存群の配置。
本来なら全部を同時に見なければならないのに、今の冬真の中では、澪だけが妙にはっきりしすぎている。
それが危険だと分かるから、余計に焦る。
前線はすぐに接敵した。
敵は先日の大規模作戦で相当削れているはずなのに、引き際が妙に綺麗だった。
散発的に見せて、深く引き、また狭い場所へ誘う。
撤退戦というより、こちらの焦りを使った圧縮に近い。
「嫌な残り方だな」
瀬名が言う。
「ああ」
「指揮残ってる」
「残ってるな」
敵指揮ノードの明確な姿は見えない。
だが散り方と寄せ方が、あまりにも意図的だ。
しかも今日の相手は、昨日より露骨に“澪を前へ出させる”圧を使ってくる。
『二番機、左遅れる!』
『見えてる、そのまま持ちこたえて!』
『天城少尉、前ですぎ――』
『今崩す!』
白い機体が一段前へ出る。
まただ、と冬真は思う。
澪は昨日、守られるだけじゃ嫌だと言った。
そして今日、怒りと悔しさを抱えたまま、自分で道を切り開くほうへさらに踏み込んでいる。
「天城少尉、無茶してるな」
瀬名が低く言う。
「……」
「お前に怒った直後だから、余計に」
「分かってる」
「なら、落ち着け」
落ち着けるわけがなかった。
昨日の言葉が、まだ胸に残っている。
守られるだけじゃ嫌だ。
一緒に背負いたい。
隣に立ちたい。
それなのに今の澪は、また先に行く。
白い機体で、敵の圧の中心へ入っていく。
追いつけない。
今の自分は、その背中をまた後方から見るしかない。
『天城少尉、右下層に収束!』
『分かってる! でもここで引いたら詰む!』
敵中型の残存機が、崩落通路の下から角度を作る。
軽量群はあえて散らばり、僚機との距離だけを裂く。
嫌な形だった。
澪一機を完全に包囲するのではなく、“前に出ざるを得ない”位置へ置いてから削るつもりだ。
「また来るぞ」
瀬名が言う。
「……」
「おい、聞いてるか」
「聞いてる」
「その顔、今かなり危ない」
冬真は返事をしない。
戦域図の中で、暁式参号がさらに一歩踏み込む。
そこはもう、戻るより前で崩したほうが早い位置だ。
つまり、澪が一番無茶を選びやすい場所。
『っ――!』
短い息。
次の瞬間、敵の収束が重なる。
「来た!」
「先鋒集中!」
「右下層、中型二!」
通常支援でもまだ間に合う。
冬真の理性はそう判断した。
だが感情のほうは、もうそれより先に動きかけている。
昨日、あれだけぶつかったばかりだ。
それでも澪が危険域へ入った瞬間、助けたくなる。
それがどれだけ情けなくても、止まらない。
「榊!」
瀬名が叫ぶ。
「感情で戦場見るな!」
その一言で、冬真の指が止まる。
ぎりぎりだった。
非公式プログラムの深層起動キーまで、指先が行きかけていた。
今切れば、たぶんまた道は開く。
だが、それは同時に、敵にも味方にも大きな痕跡を残す。
しかも今の冬真は、冷静ではない。
昨日の口論の直後の焦りと怒りと未練を抱えたままだ。
こんな状態で線を越えれば、本当に取り返しがつかない。
「……っ」
奥歯を噛む。
合法範囲の中継優先だけを叩き込む。
表向きの処理。
表向きの支援。
それだけで、澪自身に抜けてもらうしかない。
『北上層、三秒だけ空く!』
冬真が卓を通して正式支援を飛ばす。
『天城少尉、そこ使って!』
暁式参号が反応する。
白い機体が敵軽量群の懐へ飛び込み、その反動で北上層の半壊通路へ体を滑らせる。紙一重だった。敵中型の射線が一拍遅れ、肩装甲を掠めて火花を散らす。
『……っ、まだ行ける!』
澪の声。
荒い。
でも折れていない。
暁式参号が上層通路へ抜ける。
僚機が遅れて追いつき、回線も青圏へ戻り始める。
「抜けた……」
誰かが言う。
「先鋒、再集結!」
安堵が少しだけ戻る。
だが冬真の指先は、端末の縁を掴んだままだった。
足りない。
今の支援で生き延びた。
だがそれは、たまたままだ合法範囲で足りたからだ。
次は分からない。
次は間に合わないかもしれない。
その不安が、さっきよりもっと濃く胸へ残る。
「……危なかったな」
瀬名が言う。
「ああ」
「お前が」
冬真は何も返さない。
その通りだった。
澪だけじゃない。
さっき危なかったのは、冬真のほうも同じだ。
感情で線を越えかけた。
瀬名に止められなければ、たぶん切っていた。
「このままだと本当に死ぬぞ」
瀬名が低く言う。
「誰が」
「お前の理性がだよ」
軽口みたいな言い方なのに、少しも軽くなかった。
作戦終了後、戦況整理と最低限の報告を終えた頃には、基地の空気はもう夜寄りに傾いていた。
冬真は自席に戻ったまま、しばらく端末画面を見続けていた。
暁式参号、生還。
肩装甲損傷、軽度。
局地突破、成功。
損耗、許容範囲。
数字だけ見れば問題ない。
だがその一行一行が、ひどく空虚にも見える。
澪は怒ったまま前へ出た。
冬真も答えを持たないまま、また見送った。
それでも戦場は進み、白い機体は戻ってきた。
追いついていない。
何も。
「行くなら今だぞ」
瀬名が言う。
「何が」
「話しに」
「……」
「今日のまま放置すると、お前また夜中に端末壊す勢いでシミュ回すだろ」
「壊さない」
「そういう問題じゃねえ」
冬真は少しだけ迷ったあと、席を立った。
格納デッキ脇の通路は、夜になると昼より長く感じる。
整備灯の光、補助アームの音、遠くで動く搬送台車。
そのどれもが現実なのに、冬真の意識だけが少し遅れているみたいだった。
整備区画の奥、白い機体の脇に澪はいた。
今日もジャケットを羽織ったまま、暁式参号の足元近くに立っている。振り返った顔は、昨日ほど怒っていなかった。だが完全に落ち着いてもいない。複雑な疲れが、そのまま表情になっている。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「……来ると思ってた」
「そうか」
「うん。冬真、今日の自分の顔たぶん嫌いでしょ」
「……」
言い返せない。
澪はそういうところだけは本当に鋭い。
「怒ってる?」
冬真が訊く。
「まだ少し」
澪は正直に答える。
「でも、それだけじゃない」
「……」
「今日の戦場、見てた」
「仕事だ」
「それはもういい」
澪は小さく息を吐く。
「見てて、苦しかった」
その一言で、冬真の胸の奥が少し沈む。
「お前が?」
「うん」
澪は頷く。
「昨日あんなにぶつかったのに、今日また私は前に出るし」
「……」
「冬真も、たぶん止めたいのに止められない顔してた」
図星だった。
澪は少しだけ視線を落とす。
「私もさ」
澪が言う。
「昨日あんなこと言ったのに、結局今日も前に出た」
「そうだな」
「怒ってる?」
「……怒ってる」
「そっか」
澪は少しだけ笑う。
「でも行くしかなかった」
その返しが、痛いほど澪らしい。
必要なら行く。
それが澪だ。
だから昨日の口論だけで止まるはずがない。
分かっていたのに、冬真はやはりその背中を見て苦しくなる。
「追いつけないな」
気づけば、冬真はそう呟いていた。
澪が顔を上げる。
「何に」
「お前の背中」
「……」
「見てるだけじゃ、もう足りないのに」
「……」
「何も答えを出せないまま、お前がまた先に行く」
かなり本音だった。
言ってから、自分でも少し驚く。
澪はしばらく黙って、それからほんの少しだけ目を細めた。
「私も」
静かに言う。
「追いつけてない」
「何が」
「冬真のほう」
その返事は、予想していたよりずっと深く入った。
「守ってくれてるのは分かる」
澪が続ける。
「でも、どうやって傷ついてるのかとか、何を背負ってるのかとか、全部はまだ見えてない」
「……」
「それが、すごく嫌」
白い機体の補助灯が、二人のあいだに薄い影を作る。
近いのに、少しずつ影がある。
それが今の二人そのものみたいだと冬真は思った。
「私ね」
澪が小さく言う。
「守られたいんじゃない」
「……」
「一緒にいたいのに」
その言葉は、静かすぎて逆に重かった。
冬真は答えられない。
その意味が、言葉以上に分かってしまうからだ。
「今日、ほんとは」
澪が続ける。
「少し無茶した」
「知ってる」
「冬真が見てるって分かってたから」
「……」
その一言で、冬真は息を詰める。
「最悪だろ」
澪は苦笑する。
「守られるの嫌だって言ったくせに、どこかで冬真がいるから行けるって思ってる」
「それは」
「分かってる。ずるいよね」
澪は自分で言って、自分で少し笑う。
「でも、ほんとにそうなんだよ」
嬉しい。
でもそれ以上に危うい。
その感覚があまりにもはっきりしていて、冬真は言葉を失う。
「だから」
澪が言う。
「このままじゃだめなんだと思う」
「……」
「見てるだけでも、守ってるだけでも、たぶん足りない」
それは、冬真が最近ずっと感じていたことと同じだった。
守るだけでは届かない。
見ているだけでは足りない。
でも、その先をどう変えればいいのかは、まだ分からない。
「……ああ」
冬真はようやく頷く。
「分かってる」
「そっか」
「でも今は、まだ答えがない」
「うん」
澪も頷く。
「私も」
その言葉で、ようやく少しだけ呼吸が揃う。
答えはない。
でも足りなさだけは共有している。
それが今の二人にできる、ぎりぎりの合意だった。
「お前」
冬真が言う。
「今日みたいな無茶は減らせ」
「努力する」
「しないだろ」
「冬真も」
「……」
「ね?」
少しだけ笑う。
その笑い方が、昨日よりやわらかい。
口論の熱はまだ消えていないはずなのに、それでもこうして戻ってくるあたり、本当に澪は強いと思う。
「でも」
澪が目を伏せて言う。
「もし次、もっと危ないところに行ったら」
「……」
「その時は、ちゃんと届いて」
冬真は意味を訊かなかった。
訊かなくても分かる気がしたからだ。
守るだけじゃなく、
見ているだけじゃなく、
ちゃんと自分のところまで来てほしい。
そういう意味なのだろう。
「……ああ」
冬真は低く答える。
「分かった」
「うん」
澪はそれだけで少しだけ安心した顔をした。
遠くで呼び出し音が鳴る。
整備主任の声も聞こえる。
長くは話していられない。
「今日はもう戻る」
澪が言う。
「そうしろ」
「冬真も」
「努力する」
「それ、ほんと便利だね」
澪は小さく笑って、それから一歩だけ近づいた。
触れるほどではない。
でも今までよりは近い。
「おやすみ」
澪が言う。
「ああ」
「次、ちゃんと追いついて」
「……無茶言うな」
「知ってる」
それだけ残して、澪は白い機体の脇を離れていく。
残された冬真は、その背中を見送ったまましばらく動けなかった。
追いつけない背中。
守りたいのに、
止めたいのに、
それでも先に行く背中。
けれどたぶん、追いつきたいと思っているのは自分だけではない。
澪もまた、こちらへ追いつこうとしている。
その交わらないまま近づく感覚が、
いちばん苦しくて、
いちばん離れがたかった。




