第4章 第3話:死角の中で
死角は、見えない場所のことだけを指すわけじゃない。
分かっているのに手が届かない場所。
届かせるために、自分が何かを失わなければならない場所。
そういう領域もまた、人にとっては死角になる。
そして戦場では、たいてい一番大事なものが、その中に置かれる。
相模第七防衛区画、戦術支援管制室。
壁面モニタいっぱいに広がる北部戦線の戦域図は、もう“作戦図”というより“収束の途中”に見えた。青い味方識別灯が中層回廊で伸び、赤い敵反応がそれを薄く包み込んでいる。完全な包囲ではない。だがそこが余計に嫌だった。
抜け道があるように見せて、
そこへ踏み込ませ、
支援を誘う。
敵がやりたいことは、もう十分すぎるほど分かっている。
「来たな」
瀬名が低く言う。
「ああ」
榊冬真は答えた。
暁式参号を先頭にした先鋒隊は、中層残骸帯の細い回廊へ押し込まれていた。高架の崩落片と半壊ビルの外壁が複雑に重なり、中継の濃度が急激に落ちる。正面の軽量群は詰めきらず、視界外では敵中型機が角度だけを整えている。
撃ち落とすためだけの布陣ではない。
明らかに、待っている。
『天城少尉、北側残骸通路、通信薄い!』
『分かってる! でもここで止まるほうがまずい!』
澪の声が回線へ飛ぶ。
少し荒い。
だが判断は鈍っていない。
だからこそ厄介だった。
澪は危ないと分かっていても、通れる細い道を選ぶ。
敵はそれを知っている。
冬真も知っている。
知っている全員が、同じ死角を見ている。
「まだだ」
冬真が自分に言い聞かせるみたいに呟く。
「聞こえてるぞ」
瀬名が返す。
「今のは俺に言ったんじゃなく、自分に言っただろ」
「……」
「分かるけどな。でも、本当に待ってるぞ相手は」
戦域図上で、敵中型反応がわずかに沈む。
同期深度、上昇。
敵指揮ノードの収束波形も、さっきまでの観測用ではない鋭さへ変わっていく。
本命が来る。
冬真は端末上のレイヤを切り替えた。
表の戦況表示。
中継負荷監視。
敵通信解析。
そのさらに下、承認外層。
非公式プログラムは、深層で静かに起動待機していた。
昨日のうちに改修済み。
敵指揮同期の表層揺らし。
予備中継の強制再配分。
暁式参号の補助制御と連動する臨界応答の一段解除。
触れた時点で、痕跡は濃くなる。
敵にも味方にも、もう“偶然”では済まない。
「榊」
瀬名が低く呼ぶ。
「なんだ」
「ここで切ったら終わるぞ」
「……」
「分かってるだろ」
「ああ」
「なら、まだ耐えろ」
正しい。
だからこそ苦しい。
モニタの中で、白い暁式参号が残骸の狭間を滑る。敵軽量群が追尾を浅く維持し、中型機二機がさらに外から角度を閉じる。どこかで澪が止まるか、振り返るか、味方を拾いに戻るか。その瞬間を待っているような配置だった。
『二番機、遅れる!』
『天城少尉、前に出すぎ――』
『置いていけない、そのまま寄せて!』
やっぱりそうする。
冬真の奥歯がきしむ。
澪はそういうところで迷わない。
だから敵に読まれるし、だからこちらも目を逸らせない。
中型機の一機が高架影へ潜る。
もう一機は射線を作るように外側へ回る。
軽量群が僚機との距離を薄く裂く。
逃がさない。
でも、即座には殺さない。
その嫌な意図が、戦域図からでも分かった。
「最低だな」
瀬名が吐く。
「ああ」
「助けたくなる形、完璧に作ってる」
その瞬間、前線回線が乱れた。
『っ、待――』
『天城少尉!』
白い識別灯が一瞬だけ細く揺れる。
敵中型機の照準収束。
交差角、成立。
冬真の思考が一気に収束する。
通常支援では間に合わない。
合法範囲の再接続では足りない。
このままなら、澪は直撃を受ける。
致命でなくても、そこで止まれば次が来る。
「榊」
瀬名の声が鋭くなる。
「まだだ」
「もう足りない」
「待て」
「足りない」
自分の声が、思った以上に低かった。
冬真は深層メニューを開いた。
警告表示が重なる。
承認外アクセス。
記録対象。
対敵逆探知リスク上昇。
知っている。
全部知っている。
それでも指は止まらなかった。
「瀬名、敵同期の谷」
「まじでやるのか」
「早く」
「……っ、深いのが〇・九七! 浅いのが〇・四一!」
「〇・四一は短すぎる」
「でも最初の揺らしには使える!」
「二段で行く」
「うわ、最悪!」
瀬名のぼやきが聞こえる。
だが今の冬真には、もうそこまでしか拾えなかった。
第一段。
浅い谷へ局所ノイズを落とす。
敵指揮ノードから中型機へ渡る照準共有に、ごく短い揺れを滑り込ませる。崩すのではない。ずらすだけ。ほんの半拍、視線を外すだけでいい。
敵射線が走る。
暁式参号の右肩外側を火花が掠める。
直撃角が、ほんの半歩ずれる。
『……っ!』
澪の短い息。
まだ足りない。
今の一手だけでは逃げきれない。
第二段。
予備中継の強制再配分。
合法の皮を被せきれない速度で、澪機周辺だけ回線濃度を上げる。味方僚機とのリンクを一瞬だけ太くし、同時に暁式参号の補助制御へ臨界応答を許可する。
白い機体の内部で、冬真が仕込んだ調整が目を覚ます。
高負荷時の姿勢安定。
旋回初動の反応補正。
被弾後の出力偏差吸収。
『北上層……!』
澪の声が走る。
思考が一致したのだと、冬真には分かった。
暁式参号が半壊した高架脚を蹴り、普通なら応答が遅れる角度で上へ跳ぶ。敵中型機の二射目がその下を抜け、交差点を失った軽量群が半拍遅れる。そこへ僚機側の薄い支援回線が繋がり、通路上層の崩落縁が一瞬だけ“退路”に変わる。
「通る!」
冬真が思わず声に出す。
「うるさい、でもそのまま押せ!」
瀬名が叫ぶ。
戦域図の中で、白い識別灯が赤の縁を裂く。
敵は即座に追尾角を修正する。
だがその一瞬だけ、同期が噛み合わない。
冬真が作った揺れと、澪の踏み込みと、機体の補助が全部重なった結果だった。
『っ、抜ける!』
澪の声。
次の瞬間、暁式参号は上層通路の影へ滑り込んでいた。
「先鋒生存!」
「敵収束、一部遅延!」
「追尾群、再同期中!」
管制室の空気が一度だけ戻る。
だが安堵は続かない。
端末に赤い警告が走る。
管理AI注意:
戦術支援三番卓において承認外帯域接触を検出
優先処理異常連続
要確認
さらに、敵側逆探知波形が跳ね上がる。
「来た!」
瀬名が呻く。
「深いぞ!」
「見えてる」
冬真は即答する。
敵も分かったのだ。
今のは偶然ではない。
誰かが、そこを通した。
戦域図の外縁で、敵指揮ノード推定位置がわずかに移る。
前線制御だけではない。
こちらの介入源を絞るための針のような探索が、薄く伸びてくる。
「お前ほんと、一線越えたな」
瀬名が低く言う。
「……」
「今日のはもう、“やりすぎ”じゃ済まない」
冬真は答えない。
返す言葉がないからではなく、まだ澪が完全には安全圏にいないからだ。
上層通路へ抜けた暁式参号には、まだ敵軽量群が二機食らいついている。
しかも中継濃度は安定していない。
ここでさらに深追いされれば、また危険域に戻る。
だが、冬真はもう非公式プログラムに触れた。
痕跡は残った。
ここで躊躇する理由も、もう薄い。
第三段。
今度は最小限の合法処理へ戻す。
表向きの支援再配分だけで、上層通路の出口へ細い回線を通す。やりすぎれば完全に露見する。だから、ここから先は澪自身が抜けるしかない。
『天城少尉、出口前に軽量二!』
『見えてる!』
暁式参号が振り返る。
白い機体が半身だけを捻り、追尾してきた軽量機の一機をブレードで断つ。二機目はセンサーを潰され、壁へ叩きつけられる。その動きは綺麗だった。支援が道を作っても、そこを生きた線に変えるのは結局澪だ。
澪はそのまま味方青圏へ滑り込む。
「抜けた……」
別卓の誰かが、遅れて息を吐くように言った。
「先鋒、味方中継圏復帰!」
「局地損耗、最小で抑制!」
歓声にはならない。
ここはそういう場所じゃない。
だが安堵の波は、室内のどこにも隠せなかった。
冬真は自席の端を掴んだまま、しばらく手を離せなかった。
指先に少しだけ震えが残っている。
澪は生きている。
今はそれだけで十分なはずなのに、端末には別の現実が並び続けていた。
承認外帯域接触。
敵逆探知深度増加。
使用帯域の偏り。
処理源の局所特定率、上昇。
「……やばいな」
瀬名が静かに言う。
「ああ」
「敵も味方も、もう“何かいる”じゃなくて“どこかにいる”まで来たぞ」
「分かってる」
そのとき、前線回線に澪の小さな声が混じった。
『……また』
ノイズの奥、息の合間に落ちる声。
誰に向けたものでもない。
けれど冬真には、はっきり届く。
『やっぱり、いる……』
ほぼ確信だった。
戦場で守られる違和感。
機体の異常な馴染み方。
極限で開く退路。
それらが今、澪の中でひとつの輪郭へ近づいている。
冬真はそれに答えられない。
今ここで答える術はない。
ただ、その声が胸の奥へまっすぐ刺さるのを黙って受けるしかない。
壁面モニタの片隅に、敵側断片通信が新たに展開される。
――局地介入確認
――誤差否定
――近傍支援源、継続追跡
近傍支援源。
もうそこまで来ている。
「榊」
瀬名がまた呼ぶ。
「なんだ」
「今日ので、お前の退路もかなり消えた」
「……」
「それでも後悔してない顔なのが一番きつい」
冬真は端末画面から目を離さず、低く答える。
「後悔する暇がない」
「だろうな」
瀬名は短く息を吐いた。
呆れでも、責めでもなく、共犯者みたいな諦めを含んだ息だった。
戦域図の中で、白い暁式参号はもう味方青圏の中にある。
敵の赤い光から半歩だけ外れた位置。
その半歩を作るために、冬真は一線を越えた。
死角の中で。
見つかる危険も、処分される可能性も、もう現実だ。
それでも、さっきの瞬間にやらない選択肢はなかった。
それがいちばん救いがなくて、
いちばん正直な事実だった。




