第4章 第2話:捕まえにくる戦場
罠は、隠されている時より、見えている時のほうが厄介だ。
そこにあると分かっている。
踏めば危ないと知っている。
それでも先へ進む理由があるなら、人は結局そこへ足をかけるしかない。
戦場でそれは、しばしば“必要”とか“任務”とか、もっともらしい名前で呼ばれる。
相模第七防衛区画の朝は、いつもより少しだけ冷たかった。
空気の温度ではない。基地全体の張り詰め方が、肌の上に薄く乗っているような冷たさだ。大規模殲滅作戦の当日。中央通路を歩く兵士たちの足取りは速く、整備区画では最終点検の声が飛び、戦術支援管制室では夜勤から続いた解析がそのまま朝の空気へ流れ込んでいた。
榊冬真は自席に着いたまま、壁面モニタの戦域図を見上げていた。
北部戦線一帯の広域マップ。
敵前進拠点、味方主力投入ライン、各隊の予測進路。
その中で、黄色く強調された先鋒突破軸の先に暁式参号の識別コードがある。
天城澪。
先鋒観測兼突破軸。
危険度、高。
昨日から何度も見た表示だった。
見飽きたはずなのに、見るたびに胸の奥が硬くなる。
「顔、死んでるぞ」
隣から瀬名が言った。
紙コップのコーヒーを片手に、いつも通り雑な声だが、目だけは笑っていない。
「生きてる」
冬真が返す。
「その返しが出る時点で、だいぶ怪しい」
「……」
「まあ、俺も人のこと言えないけどな」
瀬名は壁面モニタの戦域図へ視線をやる。
敵の初期配置予測は、昨夜までのものからさらに更新されていた。
「静かすぎる」
瀬名が言う。
「ああ」
「普通の迎撃配置じゃねえな」
「見せてるだけだ」
「何を」
「通常の戦場を」
冬真は自席の端末に敵側断片ログを呼び出した。
深夜に追加取得した通信断片と、直前の探索波形分析。
どれも似た傾向を示している。
外縁には通常の迎撃群。
中層には散発的な撹乱機。
そして、澪が入る予測軸の周辺だけ、観測と逆探知に向いた薄い層がある。
撃ち落とすための密度ではない。
だが、支援を誘うには十分な密度だ。
「……ほんと嫌な配置だな」
瀬名が低く言う。
「天城少尉を殺すための布陣じゃない」
「ああ」
「お前を出すための布陣だ」
「分かってる」
その言葉に嘘はない。
敵はもう、澪という英雄をただ撃墜すればいい段階を過ぎている。
本命はその背後にいる“局地介入型支援者”。
つまり冬真だ。
戦術支援管制室の空気が、一段ずつ戦闘前のものへ変わっていく。
出撃準備、通信同期、バイタル接続、各卓の監視割り当て。
個々の声量は低いのに、室内全体が確実に張り詰めていく。
壁面モニタの一角に、発進デッキのライブ映像が映った。
白い暁式参号が整備灯の下に立っている。
肩装甲、脚部、補助ユニット。すべて静かに整っていて、その中には冬真が仕込んだ補助制御が眠っている。
白い機体。
見える守り。
見えない守り。
今やその両方が、敵の観測対象だった。
「榊」
瀬名がまた低く呼ぶ。
「なんだ」
「今日は本当に釣られるな」
「……」
「相手、待ってる。天城少尉が危険域に入るのを。で、お前が“いつものように”手を出すのを」
「分かってる」
「なら、踏み込むな」
「必要ならやる」
「ほらそれだよ」
瀬名は舌打ちをこらえるみたいに息を吐いた。
「必要にならないよう祈れ」
「祈る相手がいない」
「じゃあ、せめて冷静でいろ」
冬真はそれには答えず、戦域図の更新に集中した。
出撃。
識別灯展開。
味方青圏が外縁へ広がる。
先鋒隊の先頭、暁式参号。
澪の機体は今日も迷いなく前へ出る。
『先鋒、接続正常』
『突破軸、進入開始』
『外縁観測群、予定通り展開』
前線の回線が立ち上がる。
澪の声も短く入った。
『天城澪、行く』
それだけで十分だった。
前に出る時の声だ。
低く、静かで、迷いがない。
だが今日の冬真には、その迷いのなさがいつもより痛かった。
敵はそこまで含めて待っているからだ。
戦場の初動は、驚くほど平穏だった。
敵前衛反応、散発。
軽量機群、通常距離。
中継遅延、まだ軽微。
草案通りに進んでいるように見える。
「逆に気持ち悪いな」
瀬名が言う。
「ああ」
「静かすぎる」
「待ってる」
「何を」
「薄い場所まで」
冬真がそう言った直後、戦域図上で青い識別線の一部が高層残骸帯へ差しかかる。
敵前進拠点に近い、通信の薄い中層回廊。
普通なら正面衝突が起きる前にもっと反応があるはずだ。なのに、敵はまだ大きく動かない。
『先鋒、視界良好』
『右側高架、熱源なし』
『中層通路へ進入する』
澪の回線は落ち着いている。
だが冬真には分かった。
澪もたぶん、この静けさを嫌だと思っている。
「来るぞ」
冬真が低く言う。
「どこで」
瀬名が訊く。
「死角の一歩手前」
その瞬間、外縁の無人観測機が二基、同時にロストした。
「観測群、信号消失!」
「撃墜じゃない、遮断だ!」
「前衛反応、急増!」
赤い識別灯が一気に点る。
だが配置が不自然だった。
正面から包囲しない。
澪をすり潰す形でもない。
あえて薄く道を残しながら、先鋒の進路だけを通信の細い谷へ押し込んでいく。
「ほらな」
瀬名が吐く。
「来た」
「ああ」
これは澪を殺す布陣じゃない。
捕まえにくる戦場だ。
敵は、澪機が危険域に入った時にどこから支援が差し込むかを見たい。
そのために“自力でどうにかできそうで、でも危ない”位置を丁寧に作っている。
『天城少尉、左が薄い!』
『待って、そこは回線が――』
『分かってる、でも正面よりまし!』
暁式参号が左へ切る。
正しい判断だ。
正しいからこそ敵の読みと噛み合う。
澪は危険だと分かっても、通れる細い道を拾う。
敵もそれを学んでいる。
「最悪だな」
冬真が呟く。
「言うと思った」
瀬名が返す。
「で、どうする」
「まだ触らない」
「今のうちに言っとくが、その“まだ”ほんと怖いからな」
冬真は端末の深層メニューには触れない。
まだ早い。
まだ合法範囲で読める。
まだ、手を出せば敵の狙い通りになる。
そう理性では分かっている。
だが、戦域図上の暁式参号は確実に薄い場所へ押し込まれていた。
中継濃度、低下。
敵追尾角、増加。
指揮ノード同期、深まり始める。
しかも、敵の探索波は前線だけに向いていない。
後方支援卓の処理速度、
補助中継の再接続順、
優先ラインの偏り。
こちらの“揺れ”を見ている。
「榊」
瀬名の声が硬くなる。
「分かってるな?」
「ああ」
「ここでお前がいつも通り動けば、“捕まえにくる戦場”の答え合わせになる」
「分かってる」
「なら、耐えろ」
その忠告は正しい。
正しすぎて腹が立つ。
澪が敵の死角へ半歩入る。
敵中型機二機が視界外で角度を変える。
正面の軽量群はあえて間合いを詰めきらない。
全部が、こちらの一手待ちだ。
『っ……嫌な感じ』
澪の小さな声が回線へ漏れる。
独り言みたいな呟きだった。
けれど冬真の耳には、やけにはっきり入った。
「……」
指先が、端末の縁を掴む。
敵に見られている。
味方にも監視されている。
それでも澪がこの戦場の中にいるという事実だけで、冬真の呼吸は少しずつ浅くなる。
『天城少尉、北側の残骸通路は!』
『細い、でも通れる』
『いや、その先は』
『分かってる、でも今はそこしかない!』
白い機体が死角へ滑り込む。
中継濃度、さらに低下。
指揮ノード同期、もう観測用ではない深さへ沈む。
「来る」
冬真が言う。
「何が」
「本命」
次の瞬間、敵中型の追尾収束が一斉に澪の周辺へ重なった。
室内の空気が凍る。
「収束確認!」
「先鋒集中!」
「敵指揮ノード、反応深度上昇!」
敵はようやく本当に牙を見せた。
だがそれでも目的は澪の即時撃墜ではない。
この局面で誰がどう動くか、それを掴みにきている。
冬真は端末を見つめたまま、低く息を吐いた。
捕まえにくる戦場。
そのど真ん中に、もう澪は立っている。
だからこそ、自分もまた、もう逃げきれないところまで来ているのだと分かった。
非公式プログラムは、深層で静かに待機している。
まだ触っていない。
まだ、だ。
けれど戦域図の中で白い暁式参号が敵の収束光に呑まれかけるたび、その“まだ”がどれだけもつのか、冬真自身にも分からなくなっていた。




